約束(中)
放課後、一瞬だけ校務員室に顔を出し、原田に今日は帰る旨を伝える。
反応としては、「珍しいな」という程度のものだったが、表情に僅かにこちらを案じる色があったのは、自意識過剰ではないと思う。
昨日の今日ではあるし、一応顔見せはしておいた方がいい、という判断は正しかったようだ。
さて、このまま正面玄関に向かうのだが、恐らくそこでこれからの行動は決まるだろう。
単純な行動分岐。居るか、居ないか。居る場合はともかく、居ない場合は図書館に直行し調べ物、その後病院を経由して帰宅、という当たり障りの無いものになる。
居る場合は————と考えたところで、昇降口からこちらを伺う幻覚が目に入った。
ふ、と軽く笑う。考えようによっては、居ない場合より単純だ。
————やることは、たった一つなのだから。
『なぁ、絵のモデルをやってみないか?』
昨日の帰り道、俺が無理矢理引きずり出したのは、そんな突拍子もない言葉だった。
何だそれ、とか言わないで欲しい。こっちは、人見知りが激しい根暗人間である。
クラスでも孤立している人間が、そうそう『友達になろう』などとは口に出来ないのだ。
趣味にかこつけて誤魔化すので精一杯である。
……ただ、その渾身の一言に対する立川の反応は。
『——————ヌード?』
などという、思わずつっこまざるを得ない低脳ぶりだったのだが。
…………出会ったばかりとはいえ、俺をどんな風に見てるんだ、こいつは。
で、その時の突っ込み方法が、頭頂部をはたき落とす、という極シンプルなモノだったため、やむを得ず一悶着が起こった。
すなわち、突っ込みが痛いだなんだと、立川が抗議し、それに、ふざけんなどんだけ頑張って口に出したと思うんだと俺が反論する、口喧嘩である。
しばらく夜道で言い合いが続き——客観的には俺が一人で怒っているという構図だったので、通報されなかったのは奇跡だと思う——結局、放課後に正面玄関で落ち合う、ということが決定したのは、九時が回ってからだった。
まぁ、モデルをすること自体には、思ったよりも抵抗が無かったようで安心したのだが。
そして、現在。
立川と落ち合った俺は、足を市街地の方へと向けていた。
目指すは、木檜市市民公園。街の中央に広がる、巨大な緑化地帯である。
「どうして公園?」
「あそこなら、それなりに静かな環境があるからな。集中したい時には便利だ」
立川の質問に、簡潔に答える。
一介の高校生である俺には、当然の如く自分のアトリエなどない。
そもそもが単なる趣味であるので、普段から使っているのは、鉛筆とスケッチブックだけである。そんな状況なら、公園で十分用は足りるはずだ。
しかし、立川は若干不満げだった。気になったので、声をかける。
「何か問題が在るのか?」
「え、いや、ううん。特に文句は無いんだけど……ね」
歯切れが悪い。さらに訊く。
「問題があるなら言ってくれ。出来る限り対処する」
「う、うん描かれるのは別にいいんだけど…………その、制服だと、味気なくない?」
「ふむ……そうか」
俺としてはどちらでも良かったのだが、着替えたい、というなら尊重すべきだろう。
「それならどうする? 今の口ぶりだと、思い浮かべれば服を替えられる、ってワケじゃないみたいだが」
「うん、私の家が、この近所にあるから、着替えてくるよ」
「そうか、それじゃ俺も一緒に行こう」
頷いた立川の後を追う。ふと、疑問が浮かんだ。
「まて、着替えたら、服だけが浮いてるような状況にならないのか?」
「うん、なんか、私の付属品は、私の一部ってことで、見えなくなるみたい」
なるほど、便利だ。……まてよ、そういえば、物に触れるんだったな、こいつ。コンビニで轢かれてたし………………幻覚説、早くも破綻だろうか。
訝しげに、その背中を眺める。
実際、分からない事が多すぎる。家がある、ということもそうだし、何より、確固とした自意識を持っていることが不可解だ。
もし、死んだ人間がすべて幽霊になり、かつ、こいつの様に目的を持って行動、周囲に影響を与えたとするなら、社会はまともに機能しないだろう。
特に、物に触れる、というところが致命的だ。人口密度が何倍に膨れあがるかなんて、想像もしたくない。何もない道が通れないといった状況が、普通に発生するのではなかろうか? 戦国大名が斬りかかってきたり、縄文人が、自動車に襲いかかったりするのか? ……本当に訳が分からない状況になりそうだ。
「ここだよ。外で待っててね」
「あ、ああ」
いつの間にか到着していたらしい。本当に、拍子抜けするくらい普通な一軒家。二階建てで、余程の大家族でなければ、住むのに不便は感じないだろう。表札は当然、立川である。
その家に、立川は入っていく。鍵を回し、ドアを開いて。断じて、すり抜けたりせず。
………………もう、いっそのこと、幽霊説も廃案でいいのじゃなかろうか。それとも、俺が幽霊に幻想を持ちすぎてたのか。
まぁ始めっから、本人は幽霊って事を否定してたし、それでいいのかもしれないが。
空を見上げる。昨日出会ったのが夜と夕刻の境界なら、今日は午後と夕方の狭間、と言ったところか。夕焼けと言うには、いかんせん、朱が足りない。傾きかけだが、沈みかけではない位置。全く半端だな、と笑ったところに着替えた少女が現れた。
「へぇ」
感嘆の声が漏れる。
着てきた服は、裾の長い白のワンピース。飾り付けはほとんど無いが、その薄味具合が、本人の味を引き出しているようだった。
これに麦わら帽でもかぶって、ひまわり畑とか、海辺の砂浜とかにいたら、りっぱな一枚絵になるだろう。
問題は、今は十月で、ひまわりも海も公園にはなくて、着ている本人がすこ〜し肌寒い思いをするだろう、ということだ。季節外れさえ除けば、全くもって文句なしである。
「ど、どうかな?」
立川は、不安げに訊ねる。上目遣いで、僅かに頬を染めながら。
……これ、計算かなぁ、計算だろ〜なぁ、と予防線を張りつつ、とりあえず誉める。
「……うん、似合ってると思うぞ。ただ————」
「やっぱり、変?」
「あ、いや、その」
言うべきか。言わざるべきか。
う〜ん、あえてこの服で出てきたんだから、何か事情があるのか? それともボケか? 突っ込めばいいのか? 「なんでやねん」か? あんな顔して? あんな目で見て? ないな。ないない。仮にボケでも、俺には感知不可能です。と、いうわけで。
「いや、印象が違ったなーと」
「——印象?」
「ああ、もっと活発的なイメージだったから。清楚系の服も似合うとは思わなかった」
下手な誤魔化しだな。うん。情けない。
ただ、言われた方はまんざらでもないようで、ふふっ、と機嫌良さそうに声を上げた。
「ありがと。お世辞でもうれしいよ」
…………まぁ、若干罪悪感が在ったり無かったり。喜んでるならいいか。
「ほら、早く行こ? 遅くなっちゃう」
「あ、ああ、そうだな」
笑顔の透明人間に手を引かれ、俺は、歩き出した。
大通りに出て、そこからバスで市民公園に向かう。
歩くとそれなりの距離があるところでも、バスならば早い。本数も走っているし、程々にリーズナブルで、学生には使いやすい移動手段だ。運賃は均一制。先払いで二百円である。
ちなみに、立川が運賃を払った時には、若干運転手が首をかしげたが、特に追求されることなく、バスは発車された。
「………………」
ふと、心が停車駅の一つに反応した。
駅名は、『木檜市市民病院前』。自分にとっていい印象のない場所であり、決して無視できない場所でもある。
俺はこの病院にひどい時は三日に一度、今でさえ一ヶ月に一度は、持病の診察のために通わねばならなかった。といっても今の診察は様子を見る、という部分が大きいため大して負担は無い。
代わりにここ最近は、診察とは別の理由で通うことが増えていた。
「高浜君?」
「————なんだ」
突然立川に声をかけられ、平静を装いながら、小さい声で返す。見れば、心配そうな表情でこちらをのぞき込んでいた。
「大丈夫? なんか、怖い顔してたけど」
「別に、何でもない」
「…………酔った?」
「……大丈夫だ」
鋭いのか、鈍いのか。よくわからない。この時間帯は人が少ないとはいえ、あまり話しかけて欲しくはない。既に何人か変な目で見てるし。
『次は、市民公園入口、市民公園入口、お降りの方は——』
降車チャイムが、無機質に鳴った。
大した会話もせずに、公園内を進む。
通常、この公園を訪れる者の大半は、その中央付近に位置する割合大きな池か、ふれあい広場と呼ばれる芝生地帯を第一目標とする。
その他の部分は大抵、木々に覆われているため、当然と言えば当然だ。
篠山曰く、「森を抜けた先に、放置されたアスレチック群を見た」らしいが、一般的には未確認情報であるし、そこまで探索した輩も奴以外いないだろう。
余談だが本人の言うところによると、かつてあの女は自分の打ち込めるモノを見つけるため、興味を抱いたら最後、ありとあらゆる趣味に手を出したらしい。
探険もその一つだったそうだ。
まぁ、行き着いた先がドS趣味という所が残念だ、としか言いようの無い部分だが。
……話を戻そう。
俺たちは、メインスポットの一つ、池のほとりに到達した。
ベンチが、池を囲むように点々と配置されている。
休日にはお手軽なデートスポットにもなるのだろうが、平日の夕方では、大して人影も無い。いるとしても、犬の散歩に来たおばさん位だろう。
絵を描くにも、会話するのにも、問題はない。
「さて、それじゃ、適当なベンチにでも座って、そうだな、まずは似顔絵でも描くか」
「オーケー、……綺麗に描いてね?」
「さて、どうするかな」
にやりと笑い合って、空いたベンチに座る。
鞄から、スケッチブックと鉛筆を引っ張り出す。
大きく伸び。軽く深呼吸。一旦、全身の力を抜く。
さぁ、始めますか。
さらさらと、立川の横顔を描く。風で、髪が流れるのを目で追って、また紙面に戻した。
「ねぇ」
「うん?」
「その、見つめられるのって結構恥ずかしいね」
……それは、どうすればいいのか。モデルってそういうものじゃなかろうか。
「あ、別にいやってワケじゃないけど」
「そうか」
無言。なるほど、さっきのは、話のネタがなかったための苦し紛れか。
そうだよなぁ、モデルって暇だろうし。動いちゃいけないし。
というより、俺が誘ったのも交流のための口実であったのだが、悲しいかな、描き始めたら、そっちに集中してしまった。これじゃあいかんだろう、たぶん。
「あーなんだ、好きな食べ物とか…………」
「何? 自己紹介?」
「まぁ、そうだな」
残念。俺にもネタはない。無難な所を口にする。
本音を言えば、うっかり地雷を踏みそうで怖かった。
「う〜ん、甘いモノなら大抵好きだし、特に、っていうならモンブランかな? 君は?」
「俺は…………茶碗蒸しだな。ま、出されりゃなんでも食うけど」
「し、渋いわね」
「味が濃いのは苦手なんだよ」
口を尖らせる。
俺の好みは、コッテリよりはサッパリ。肉より魚。洋食より和食だ。
老人とか言わないでもらいたい。
「へ〜意外、じゃあ趣味は?」
「…………見て分かるだろ? 絵を描くことだよ」
「へ? え? ふーん。へー。あはは、そうなんだ」
……何だろう、この反応。変なこと言っただろうか?
「おい、変なこと言ったか? 俺?」
「いや、ううん。別に。ただ、美術の課題か何かかな、って思ってたから」
……なんだか釈然としない言い方だが、これ以上突いても仕方ないか。
「じゃあ、あんたの趣味は何なんだ? 料理とか?」
「………………う〜ん」
考え込んでいる。無いのなら無理に出さなくてもいいだろう。
「無いんなら、別に言わなくても」
「無い……………………っていうよりは、思い出せない、かな」
ふと、その表情に寂しさがよぎった。
なんとなく、重要なことな気がして、身を乗り出す。
「なぁ、それってどういう————」
「ねぇ、描かないでいいの?」
微笑まれた。訊くな、という意思表示なのか。それとも、単純に手が止まったのが気になったのか。どちらにしても、黙って鉛筆を走らせるしかない。
「——記憶がね、曖昧になってるんだ」
ぽつり、立川が呟いた。
「曖昧?」
「そう、いつこうなったのか。どうしてこうなったかが思い出せないの。パーソナルデータも複雑なモノから消えていって、今残ってるのは、基本的なことだけ。いずれ名前も忘れて、本当に消えちゃうのかもね」
悲しいことのはずなのに、それを感じさせないくらい軽く、立川は言った。
一瞬、俺の脳裏によぎったのは、アルツハイマーという脳の病気だったが、それじゃ姿は消えないだろうとすぐに打ち消した。
「消えているのは、姿だけじゃない、ってことか」
「たぶんね。正直言うと、昨日のことも、高浜君に話しかけられてからしか覚えてないんだ」
「…………つまり、あの目の時の記憶はない、と」
「目?」
「いや、なんでもない」
人としての部分が消えて、後に残るのは化け物のみ、か。
……馬鹿な推論だろうか?
しかし、あの瞳を説明するなら、それが一番的を射ている気がする。
「あ、また手が止まってる」
「————そうだな」
再び俺は、スケッチに戻った。