約束(前)
白い世界。
ああ、また、この夢。
何もしない。する気が起きない。
「お前の絵には、生気がない」
どこからか、声が聞こえた。
翌朝、荷物を確認して家を出る。鍵を閉める。「いってきます」はいらない。誰も居ない家に、置いていく言葉はない。代わり映えしない道。計ったように正確に、常と同じ時刻に教室に入る。始業開始十五分前。丁度良い時間だ。ホームルーム開始までの時間を、予習に使い切る。誰かに話しかけることも、かけられることもない。相互的に無視。無関係、無関心を貫き、一日が始まる。
「やぁ、元気かね。高浜健吾君」
「…………だったら何だ? 篠山優香」
昼休み、何の目的も無く、ブラブラと校内を徘徊していた俺は、後ろから名指しで声を掛けられ、振り向かずに返答した。
あまり関わり合いになりたくない人物だったし、特に話すこともない。
もっともそれで放置してくれるようなら、苦労はないわけで。
結局、篠山は俺の前に回り込むと、その端正な顔をいびつに歪めた。
「何だ? とは素っ気ないな。会話を始めるのに切り返しは重要だよ?」
「そうだな。だから、今の切り返しで会話をしたくない、ということを読み取ってくれればありがたいんだが」
「それは無理だな。私は自分に都合のいい事しか認識しないんだ」
……………………自分で言ってりゃ世話ないだろう。
ため息をつく俺に、全く気兼ねなく笑いかけるこの女は、美術部部長にして、名の通った天才である。
また、変態である。
その異常具合は、自分から俺に話しかける部分から推して知るべきだが、その真髄はもっと別の場所にある。
全国模試では常に上位一桁に食い込み、名のある絵画コンクールで何度も大賞をかっさらう。運動技能でも他より頭一つ抜け、その容姿が、見る者を惹きつけてやまない。
天才、怪物。何でわざわざこんな普通の高校に来たのか。その存在だけで七不思議の一つとして語られる様な人間。
——真実は、家が近かった、というだけなのだが、それすら、知るものは少ない。
輝きが強すぎて、常人の手に負えないのだ。
————この女の趣味に付き合わされかけなければ、俺も、そうして幻想を抱き続けていたのだろう。恐ろしいことだ。
「……それで、何の話があるんだ? 俺は適当に歩き回る事に忙しいんだ」
「逃げるにしても、もっと上手い言い方があると思うんだけど……。まぁいいか。何、ちょっとした説教だよ」
腰に手を当て、俺を見上げる様に睨む。
俺自身も決して大柄ではないが、この女は見るからに小柄だ。
脳にばかり栄養が行って、体には回っていないのだろう。
むしろ、行き過ぎているからエラーを起こすのである。もう少し配分を考えろと遺伝子に対して抗議したい。
つらつらと、視線を流す。周囲は賑やかだが、人影は少ない。
大抵の人間は教室内で雑談にふけっているのだろう。こちらを興味深げに眺めるのは、廊下に出てきた者の中でも少数派だ。
まぁ他人の会話など、どうでもいいのが普通だろう。
こうして見られるのもこの女の威光に違いない。
みなさーん、だまされてますよー。
「————聞いてなかったでしょ。君」
「ああ、つい」
思考的逃避。都合の悪いことは聞かない特技だが、より強力な使い手である篠山には通じなかったようだ。さらに機嫌が悪くなったのが目に見える。
「大方、失礼なことでも考えていたんだろうけど。まぁいいや。もう一度本題に戻るけど————昨日、また校務員室に行ったんだって?」
「それが何だ? 友人の所を訪ねるのに何か問題があるのか?」
殊更に冷たく言い放つ。少なくとも、こいつに文句を言われる筋合いはない。
だが、それを聞いた途端、篠山の顔が泣きそうに歪んだ。
なんとも多大な哀しみを含んだ声で、続ける。
「何を言ってるんだ! いつも言ってるだろう? 君の病んだ心を癒せるのは私だけなんだ。あんなオッサンの所に行く前に、真っ先に美術室に来なさい!!」
全く。仕事の邪魔になる、とか普通の事を言えばいいものをどうしてそう、めんどーな感じに言うのだろうか? 一応美少女と言っても問題がない容姿の女がそういう台詞を吐くのは問題だろうに。一部の男子に聞き咎められたら、そのまま体育館裏に引っ張って行かれかねない。言うまでもなく、俺が、である。
ついでに今のは、この女の真の目的が分かっている俺としては全く心が揺れない言葉だ。バッサリと切り返す。
「言っておくがな。俺は、椅子に拘束されて世界の拷問シリーズを一通り体験しても、全く慰めにはならんからな」
「あれ? 君、ドMじゃなかったっけ?」
しれっと言われた。頭痛がする。
何度同じ問答をしたことか。少なくとも、これが初めてではない。
これがこの女の本性にして特性、不都合忘却機能、そして、超ドS性癖である。
立場が低い相手に対してしか使用されない、という特徴が非常に悪質だ。
……立場が上で気に食わない相手には、もっとえげつない真似をすると言っていた気がするが、そこは流す。
「………………人の趣味だからとやかくは言わないが、それに俺を巻き込むな。部員でも使って勝手にやってろ」
「君なら気に入ると思うよ? 束縛される陶酔感。試してみればいいのに」
ご免である。ノコノコついていって、ボーンレスハム状態で発見された輩を何人も見ているのだ。…………発見者が、決まって俺、という部分に作為を感じないでもないが、とりあえず高校生でそれに覚醒するのは早すぎると思うし。
「全く、こっちは楽しみで仕方がないんだけれど。君は精神の負担で気絶する、というし、肉体的ショックなしで一体どこまで辱められるのか、その境界の見極めが————凄く面白そうだ」
あーホント、イヤな表情だわー。絶対他の連中は見たこと無いんだろうなー。
何て言うか、本気で邪悪。
大まじめに、気を失うギリギリまで痛めつけようとしてる顔。
おまけに、その時を想像して、恍惚としてる顔。
この女に、絶対に弱みを握られてはならない。
————まぁ、それでも。
「この体質を、そこまで弄ろうとする奴も、そうそういないだろうな」
呟く。他の連中のように、腫れ物を触るように扱われるのと、どちらがマシか。
…………はい、放置の方がマシです。残念ながら。
「……話は終わりか? だったら行くが」
「あ、まった」
体をよけて立ち去ろうとする俺を、真剣な顔で制止する篠山。
その姿にほんの僅か、ほんとうに少しだけ、見とれてしまう。
綺麗であることには、綺麗なのである。外見だけは。
「——何だよ」
「…………女の幻覚を、見たそうだね」
照れ隠しにあえて冷たく言い放った俺の言葉より、数段トーンを落として、篠山は返した。
誰に聞いたか、などというのは愚問というものだろう。知っているのは、一人だけだ。
「——原田校務員から聞いた。何でも、力になってやってくれ、とか」
「……………………………………」
余計なことを、とは思わない。社会人と学生の間にある隔たりは、どうしようもなく大きい。昨日だって、強引に邪魔したようなものだ。立場もあるし、一人の生徒を特に気に掛ける、というのは難しいだろう。
その点、同じ学生ならば制約は少ない。僅かでも俺と交流をもつ、この女にそれを託したのは、原田の優しさだ。
その心遣いは素直にありがたい。ありがたいのだけれど。
「————心配はいらない。今朝からは見えてないし、どうしてもまずければカウンセリングにでもいくさ」
「…………ふーん、取り憑かれているワケではないのか」
なんとも物騒な物言いをする。
こいつの中では、俺が見たのは幽霊ということになっているらしい。
「意外だな。学年一の才女様が幽霊なんて信じてるのか」
「物事には多角的な見方が必要だ。君が幽霊と言ったなら、幻覚の可能性を挙げたよ」
つまり、真実が分からないうちはあらゆる可能性を列挙する、ということらしい。
面倒な奴である。
「まぁ、私としては、君と二人きりでカウンセリング、というのも、非常に惹かれるのだけれど」
「勘弁してくれ。いつの間にか、全く別の話になっていそうだ」
気付いたら手錠をかけられていてもおかしくないし、この女ならやるだろう。
「と、まぁ、冗談は置いておいて」
「…………冗談だったのか?」
こほん、と咳払いをする篠山。一応自重する気はあるらしい。
再び真剣な表情に戻って、口を開く。
「とりあえず、私は幽霊の線で調べてみるよ。君は幻覚、という方針で頼む。持病の悪化という可能性もあるのだし」
「……待て。いつの間にあの女について調べる流れになったんだ?」
不思議がる俺を若干呆れた様に見ながら、篠山は言った。
「何故ってそれは、力になれ、と言われたからだよ。原因が分からなければ、対処も出来ない。だからまず、その女が何かを知るのが第一だとは思わないかい?」
「いや、それは————そうか」
原田の考えは、違うところにあるだろう。彼の中では、俺の見た物は幻覚で決まっている。伝えた言葉は、そんなものは見ないように、数少ない友人として心の支えになって欲しい、という意図だったはずだ。
この女は、それを別の意味でとらえている。すなわち、見えたこと、見えたモノに対する対処の協力。幻覚なら幻覚、幽霊なら幽霊で、見えた理由が変化する。その原因を排除するための手伝いをしよう、と言っているのだ。
ならば俺はどうしたいのか? あの女を、立川を見えなくしたいのか?
————違う。
俺は、知りたい。原田に聞かれた時は、状況から幻覚と断言したが、昨日の会話を通して、それは違うと感じている。
このモヤモヤを晴らしたいなら、篠山の言う調査は非常に重要だ。
ならば、たとえ苦手な相手でも、協力を頼むのに躊躇はいらないだろう。
そんな俺の様子を見て、篠山は、やれやれ、と口を開いた。
「全く、しっかりしてくれ。別に頼まれたからといってそれを聞く義理はないけれど、君に何かあったら、私の気分が悪いんだ」
「…………やっぱり、自分の手で壊したいのか?」
「何を言う。壊してしまったら、その先は、楽しめないじゃないか」
憎々しげに笑い合う。
ああ、やっぱりこいつも友人なのだと不本意ながらに感じた。
「ところで、その女性に、特徴か何かは在るかな? 調べるにしても、ヒントが欲しいんだ」
「ああ、長い黒髪をしてたよ。きちんと手入れされてる感じだった」
「ふーん、長いっていうと、どれ位?」
「お前より、ちょっと長いくらいだよ」
なるほど、と、取り出したメモ帳に書きつづる篠山。ちなみに、この女の髪の長さは肩ぐらいまでで、大きなカチューシャをつけている。
「背の高さは?」
「俺と同じくらい。お前よりは絶対高い」
「ふむふむ、装飾品は?」
「特になかったな。ああ、美人ではあったと思うぞ?」
「…………私より?」
「どうかな?」
にやり。イヤな感じで笑い合う。醜美の感覚についてはお互い自負があるので正確に、感じたままを述べる。感情とは、別の部分で、きちんと物差しを使わねばならない。
ちなみに、俺の顔についての評価は、俺、築山、両者共に『中の中』である。
「なるほど、大体分かったけど————これ、君の理想のタイプだったりしないよね? もしそうなら、調査の意味がなくなりそうなんだけど」
「…………さぁな。恋心ってのがよく分からないから、何とも言えない」
綺麗なモノは綺麗だと感じる。だが、そこから恋愛感情には、直接的に繋がらない。少なくとも、親愛以上の感情を、誰かに抱いた記憶がないのだ。タイプか? と訊かれても経験がないから、何も言えない。
築山は、そんな俺を、興味なさげに眺めてから、まぁいいか、と嘆息した。
「じゃあ、この情報を使って調べてみるよ。他にも何かあったら連絡してちょうだい」
「ああ、————っと、待った。名前は、立川さつきっていうらしい。忘れてたよ」
慌てて伝える。もしかしたら、一番重要な情報かもしれない。
篠山も意表を突かれたのか、目をパチクリとさせて驚いている。
「何だ。名前があったのか。とすると、幽霊説も濃厚なのかな? ————ところで、その人、向こうから名乗ってきたの?」
「いや、俺が訊いたんだが…………それが何か?」
「ううん。特に問題があるわけじゃないけど……成長したな、と思ってさ」
築山は、意味ありげに微笑んだ。確かにそんな積極的な行動を取る事があるとは、自分でも驚きだ。まぁ、話題がなかったせいもあるし、成長なんてプラスの変化ではないと思うが。
「うん、名前が分かれば、卒業生の名簿なんかからも探せるし、だいぶやりやすいよ」
「そりゃ良かった。——今更だが、面倒かけてすまないな」
「ホントに今更だね。まぁ部活の合間合間になるだろうから、期待しないで」
言いたいことは言ったのか、篠山はこちらに背を向けて、歩いていく。
さて、俺も戻るか、と動こうとした矢先、篠山は思い出したように振り向き、助言を残した。
「————言っておくけど、また見えたとしても、必要以上に関わらない方がいい。何か分かるまでは、どうしようも無いんだからね」
——さっさと歩いていく背中を眺めながら、俺は、既にある約束をしてしまったと言ったらどんな反応が返ってくるかな、と頬を掻いた。