高浜健吾の受難(後)
白い、空間。
何もない。真っ白な、画用紙のような世界。
自在に描ける。何でも出来る。これは、俺の、夢なのだから。
そこまで分かっているのに。やり方も知っているのに。
あえて、俺は何もしない。
する気がない。
したいことがない。
見たい物がない。
だから、しょうがない。
諦め。放棄する。
「お前の絵は、無機質だ」
後ろから、どこかで聞いた声が聞こえた。
感覚が現実に戻ってくる。
俺は、保健室のベッドに寝かされていた。
「…………起きたか、高浜」
「……すまない、はしゃぎすぎた」
全くだ、と頷く原田。どうやら看病してくれたらしい。養護教諭は、丁度席を外しているようだった。
「どの位、寝てた?」
「そんなには。せいぜい三十分だ」
…………それでも、下校時刻は越えているか。
仕方がない、と起き上がろうとする俺に原田は、掴まれ、と手を伸ばしてきた。
「全く。この発作も久しぶりだな」
「…………ああ、最近は、落ち着いてきたつもりだったんだが」
手を握り返しながら、答える。倒れた原因は、持病のようなやっかいな体質のせいである。
いわく、感情超過性精神不調症候群。
————俺が、適当につけた名前なので、深い意味はない。
症状は、怒り、哀しみ、喜び、等々の強い感情を抱くことを起因として、目眩、吐き気、頭痛、ひどい時にはこうして失神したりする。
幼い頃からたびたび俺に襲いかかってきた代物だが、近年は感情を抑える術を学んだこともあり、倒れるような事態にはほとんど発展していなかったのだが。
「それで、だ」
立ち上がり、紺のブレザーを羽織る俺に、原田の鋭い眼光が刺さる。
「……何でそこまで興奮した? お前一体、あの屋上で何を見た?」
「………………」
——どう言えばいいのだろう。
確かに、イヤな予感はしたのである。あの目を見た瞬間から。こいつは人ではないのではないか、と。結局、最後まで疑い続けて————。
————俺の慌て振りを見た原田の、真剣な表情で確信した。確信して、それでも認めないために、理解したくないために、恐怖を感じないために、ごまかし続けて、結局、最後は認識せざるを得なかった。
「高浜」
「……幻覚だろ。アンタに見えなかったんならそういうことだ」
疲れているのか。それとも、精神を病んだのか。正確な所は分からない。それでも、自分以外に見えていなかったのなら、それは幻覚なのだろう。
「……なぁ、もしかして——」
「いや、問題ない」
原田の疑惑を、きっぱりと否定する。実際、体質が悪化することはないだろうし、これ以上、迷惑は掛けられない。恐らく俺を屋上に上げたのも、少しは気が紛れるだろう、という考えからだろうから。
「……分かった。もし、何かあるなら、真っ先に俺に伝えろ。力になる」
「大丈夫だよ。ガキじゃあるまいし、これくらい」
何とかするさ、と続ける。兄貴肌で面倒見がいいこの男は、たとえ下らないことでも、知り合いが困っていれば手を貸そうとするのだろう。それに甘えるのは簡単だが、コレは俺の問題だ。誰かに、何とか出来る類の事じゃない。
そんな俺の顔を見て、仕方ねぇな、とため息をついた原田は。
「悪いな、仕事があるから先に行く。早く帰れよ」
とだけ言い置いて、早々に保健室を後にした。若干焦りがあった所を見ると、相当に仕事がたまっているのだろう。俺のせいなのは明白だが、無理に手伝えば問題になるかもしれないので、仕方なく鞄に手を伸ばす。
と。
「幻覚とは失礼ね。こんな美人、なかなかいないわよ?」
人の鞄を、勝手に持っている、例の女が居た。
「……いままで、どこに隠れてたんだ?」
「ベッドの下よ。気づかなかった?」
…………這い出てくる様を見ないで良かった。今のでさえちょっと頭痛がしたのに、そんな場面をみたら確実に卒倒する。日に二回失神するのは、勘弁して欲しかった。
その後、何とか鞄を取り返した俺は、帰路についていた。
辺りは真っ暗。既に夜の時間帯である。まぁ、いつもの帰り道だ。迷うこともないし、不審者の噂も聞かないから、ほとんど問題はない。そう、ほとんど。
振り向く。目が合う。
「? 何?」
女はきょとんとした表情で、そう言った。何度見返しても消えてくれないので、仕方がないから、声をかける。
「……なんで、付いてくるんだ?」
「家の方向が同じだから」
「幻覚に家があるのか?」
「だから、幻覚じゃないってば」
頬を膨らませる女。では、違う方面で聞こう。
「じゃあ幽霊か?」
「死んだ記憶はないわよ」
「透明人間」
「改造されたり、薬を飲んだこともない」
「特殊な任務として、過去を変えに来た未来人」
「……何? その変な設定」
ふむ、違うらしい。というか、幽霊じゃなかったのか。
「じゃあ何なんだ? タダの人間、って訳でもないだろう?」
「…………タダの人間で悪かったわね」
悪いに決まってる。タダの人間は、消えることも出来ないし、取っ手のない壁を登ることもできないのだから。
そんな俺の視線に気付いたのか、女は、少し困ったように呟いた。
「そりゃ、誰にも見えてないっぽいけど、いつの間にかこうなってたんだから、仕方ないじゃない」
「………………壮大なイジメの可能性は?」
「教師とか、コンビニの店員までグルってことになると、凄く悲しいんだけど」
ここに来るまでに出会った人物を挙げる。まぁ確かに、原田が見えないって言っている時点で、その可能性はないのだが。
ちなみにコンビニで俺は弁当を購入したのだが、その時女は店員に轢かれた。こう、品出しのワゴン的な物に。
散らばる商品、困惑する店員、そして痙攣する女。少し不憫で、思わず助けてしまった。
「む」
その思いだし笑いを見咎めたらしい。少し女が不機嫌になった。
嫌われてもどうということはないが、呪われるのも御免なので話題を変える。
「なぁ」
「……何よ」
「いや、名前。聞いてなかったと思ってな」
「————別にいいでしょ。そんなの」
素っ気ない。まぁ、実際俺もそう思うが、他に話題が浮かばないのだから仕方ない。
とりあえず、こちらから名乗る。
「俺は、高浜健吾だ。よろしく」
「…………さつき。立川さつきよ」
無精無精、答える。しかし顔が赤い気がするのはなぜだろうか? 変な事を言ったつもりはないのだけれど。
本人にも、自覚はあったのか、女、立川は、少し照れたように笑った。
「あはは…………、ダメだな、私。嬉しくて顔がにやけちゃう」
「? 何がそんなに嬉しいんだ?」
大したことじゃないだろう、と言う俺に、立川は、鈍いわね、とそれでも笑いながら答える。
「だって、こうやってまともに話せたのって、いつぶりか分からないもの。名乗り合いなんて、した記憶もないしね」
————ああ、そうか。
衝撃と共に、理解する。
——こいつは、俺なんかより、ずっと一人で、ずっと孤独だったんだ——。
屋上で聞いた台詞を思い出す。
『もっと、一緒に居たかったのに』
あれは、冗談でも何でもなく、心からの気持ち。再び出来た繋がりを惜しむ、真実の言葉。
当然だろう。誰にも気付かれず、誰にも関わらず、ただ眺めるだけの世界など、映画か、はたまた夢と、何が違う。何処に価値が在るのか。
「……どうしたの?」
押し黙った俺を、不審に思ったのか、立川が、顔をのぞき込んできた。
……浮かんだ提案を、口に出すか躊躇う。正直、断られる気がするし、不快に感じるかもしれない。浮かんだ動機も、哀れみに近い感情だ。失礼に決まっている。
しかし、それでも、関わった以上は行動すべきだろう。俺にしか見えないのは、理由があるからだ。ならば、俺は、俺に出来るやり方で、こいつに関わっていこう——。
「なぁ——」
口が渇く。不安で、軽い目眩がする。それでも、口に出す。
「なぁ——————————」