高浜健吾の受難(中)
目にした一枚画に、脳を、灼かれた。
空模様は、夕刻と夜の境目といったところ。夜が六割、夕焼け一割、狭間にあたる三割は、さながら虹の如く、暖色から寒色へと、グラデーションをみせている。
やや小高い丘に立つこの高校の立地を考えると、もう少し眺めが良い位置にいけば、街の夜景とのコントラストも楽しめるに違いない。
と、そんな事を考えながら視線を流すと、妙なものが目に入った。
「——まさか」
視線の先には居るはずの無い女。
フェンスのない屋上の端、麗しき長髪をたなびかせて立つ、その女は、吹き荒れる強風に煽られることも、五階という高さに竦むこともなく、ただ真っ直ぐに、移ろいゆく空を眺めていた。
その姿が、一瞬、揺らいで見えて————。
「——————っ」
目が、あった。数秒間か、一瞬か。しかし、俺は、俺の頭はたったそれだけのことで意識を持っていかれそうになった。
人のモノとは思えぬ、よどんだ瞳。見たことを、見てしまったことを、一瞬で後悔するほどのおぞましさ。
——キモチワルイ。
正直、関わるべきでは無いと感じた。逃げるべきだと確信した。幽霊はいた。本当に存在したと、声高に叫びたかった。しかし、動くことはおろか呼吸すら、既に俺の自由では無かった。
「………………は」
女は、興味を失ったのか、視線を外し、再び空を見始めた。同時に、体の自由も回復する。…………何だったんだ、今のは。
このまま立ち去ることも出来た。正直、心も折れかけている。だが、何もせずに、立ち去ることも出来なかった。原田に任されたこともあるし、第一、逃げるようで気に食わない。相手が幽霊だろうが、一矢ぐらいは報いたかった。
「おい、そこ、危ないぞ」
意気込んではみたものの、この程度しか口に出せないのは、まぁ仕方がない。声が震えていないだけでも及第点である。言葉は通じたのか、女は、僅かに反応した。
「………………何?」
「だから、危ないって言ってるんだ。自殺志願者じゃあるまいし、下に落ちたらどうするつもりだ」
言ってから、後悔した。幽霊に自殺はNGワードではないだろうか。激高し、引きずり落とされたら敵わない。次の瞬間には屋上からダイブしているかも知れない、というイヤな緊張感が全身を包んだが、女は大して気にした様子もなく、空を見たまま、俺に言葉を返した。
「……それ、私に言ってるわけ?」
「当たり前だ。ここには、俺とあんたしかいないだろ」
あら、あなたの後ろにもいるわよ、とか言わないでほしい。心臓止まったら取り返しがつかない。
「ふ〜ん。でもそれ、余計な心配よ。だって——」
「——————あ」
くるり、と女がこちらを向いた。とっさの事で、目線を逸らせなかったが、ありがたいことに、瞳は人間のそれになっていた。
「——私、バランス感覚いいもの」
「…………いや、とにかく、そこから離れてくれ。俺の心臓に悪い」
いろんな意味で。またあんな目をされたら、今度こそ気絶する自信がある。
「ちぇ、ここから見るのがいいのにな〜」
靴音を響かせながら、女は、素直に俺の方に歩いてきた。反応も、行動も、普通の人間と大差はない。もしかすると、さっきの瞳の方が、見間違いだったのだろうか?
と、俺の目の前まで歩いてきたところで、女は、疑問を口にした。
「って、あれ? 君、どうやって入ってきたの? 鍵がかかっていたはずだけど?」
「…………ある人物から、屋上の調査をまかされていてね。あんたの事が噂になってるから、真相を確かめてこいと言われてたんだ」
鍵を見せながら、口上を述べる。女は、見慣れたセーラー服を着ていたし、外見年齢も俺とそうは違わない。顔色は青白いというよりは、単に色白な印象だが、雰囲気次第でどうとでも見えるだろう。原田の言っていた特徴と、大まかに一致している。
よって、この女が噂の主、ということで間違いはないはずだ。
「私が…………噂に?」
それ、本当? と、女は訝しげにこちらを見た。
そんなこと訊かれても、こちらも原田から聞いただけだから、どうしようもない。
ああ、としか、答えられなかった。
「ふーん、それで、私を見つけてどうするの?」
「一緒に来てもらう。合い鍵とか持ってるのか?」
人間であるならば、鍵がなければ屋上には上がれない。
持っていなければ幽霊確定であるのだが…………この女の答えは、予想の斜め上だった。
「いいえ、持ってないわよ。よじ登ったんだもの」
「そうか、持ってな————よじ登ったあぁぁぁぁ!?」
くらり。
柄にもなく、素っ頓狂な声を上げる。事実なら、幽霊とは別の意味での化け物じゃないのか? この女。
「待て待て、よじ登るって、五階から?」
「そうよ、壁のヒビをつかって、ロッククライミングの要領で」
どうゆう腕力があれば、校舎の平坦な壁を上れるのか想像がつかないが、危険人物であることだけは理解できた。任意同行でしょっ引こう。
「うん、まぁ、分かった。付いてきてくれ、責任者に会わせる」
「…………待った。分かったって、今の信じちゃうわけ? 君」
「信じるも何も、俺が頼まれたのは、屋上の噂を確かめてくるってことだけだ。連れていくのはサービス。当然、事情聴取はあっちの仕事」
聞く必要はない、という俺に対して、女は、事務的なのね、とため息をついた。ほっとけ、性格だ。
「オーケー、付いてく。でも、少しだけ待ってくれない? もうちょっと空が見たいから」
「…………別にいいが、扉の近くにいてくれ。怖いから」
分かった分かった、と笑う女。あとで絞られるのが怖くはないのか、それとも怖いからこそ、なのか。表情からは察することはできない。
と、俺が思案した次の瞬間には、女は既に屋上の中程まで走っていってしまっていた。
まぁ、一応俺の言葉には従うつもりらしく、それ以上先には行かなかったのだが。
風が、抜けていく。
既に狭間の刻は過ぎ、空はそのほとんどを夜で埋められている。あれからしばらく、黙々と空を見上げていた女は、ようやく、ぽつりと一言呟いた。
「綺麗だと、思わない?」
その声はあまりにもさりげなく、それが俺への問いかけだと気づくのに、数秒かかった。女は屋上の扉に寄りかかっていた俺を軽く振り返りながら、再び、問う。
「こうやって、空を見ていると、綺麗だって、感じないかな?」
「………………まぁ、な」
あいまいな、肯定。
雄大だとは感じるが、綺麗か、と問われると難しい。
確かに屋上で最初に見た光景は鮮烈だったけれど、そのあとに見た瞳のせいで何もかも飛んで行ってしまった。
そんな事情を知ってか知らずか、というよりもともと大した答えを求めていたわけでもないのだろうが、女はそれ以上口を開かなかった。
再び、沈黙。気まずい。下校時刻も近付いているし、ホント、守衛に発見される前に退散したい。
と、言うわけで。
「なぁ、そろそろ行かないか? 暗くなってきたし、誰かに見咎められるのも面倒だろう?」
「…………そうね。そうだよ、ね」
こちらに背を向けたまま、女は、心底残念そうに呟く。星空でも見たかったのだろうか? だったら、天文部にでも入ればいいのに、学校の屋上で、たった一人で空を眺めても、大しておもしろみはないだろう。
振り向き、こちらに歩いてくる女に、せめて、近所の展望台でも紹介しようか、と口を開く。
開きかけた、ところで。
「もっと、一緒に居たかったのに」
「——————は?」
出てきたのは、間抜けな一字のみ。自分の脳味噌がフリーズしたのを自覚する。何、言ってんだこいつ。それじゃ、そんな言い方じゃ、まるで————。
「おい、遅せぇぞ高浜。何してんだ?」
「え————」
「うわっ」
不覚。何がって言えば、後方不注意。あと、反射行動力欠如。原因は、先の女の発言であるのだから、俺に責任は無い気がするけどそれは置いておく。あ、あと学校側は、ドアに磨りガラスをはめ込む位の配慮をして欲しい。こういう事故が起こるから。
「…………」
「…………」
見つめ合う俺と女。
何が起こったかを説明すると、ドアに寄りかかっていた俺は、誰かの——間違いなく知り合いだが——声を聞いた次の瞬間、前方、つまり、こちらに寄ってきていた女の居る方向へと、吹っ飛ばされていた。恐らく、ドアを思い切り開け放ちやがったのだろう。
これが、何をもたらすかは、明白で。
詰まる話は、ヒャッホー定番だぜこんちくしょうのシチュエーション、偶然による押し倒しイベントなのであった。
「あの」
と、グルングルンなにか色々回っていた俺に、話しかける女。
頬を赤らめ、目線をそらしながら、一言。
「どいて欲しいんだけど」
「ッどわあああああああああああああああああああああ」
ゆらゆら。
パニック。情けない。というか柄じゃない。こんな大声出したのいつ以来だっけ、という位の叫びを上げながら、俺は、その場から、飛び退いた。
で、次の瞬間には二人に向かって大急ぎで弁明開始。ホント、情けない。
「いや、その、これは、不可抗力っていうか、決してやましいことではなくて——」
「…………いや、まて、大丈夫か? 高浜」
哀れみを含んだ目で、俺を制す原田。ちくしょう、弁明もさせてくれないのか。ああ、いいとも、好きなだけいじり倒すがいいさ!!
「調子が悪いんなら、保健室に行こう。一人で何してたかは聞かないから、とにかく深呼吸だ」
「…………」
ぐらぐら。
真剣な表情の原田。まずい、本気で心配されている。茶化されないのはありがたいが、これはこれで気恥ずかしい。まぁ、ホントにやましいところはないし、ちょっといい匂いがしたとか、あ、女の体って柔らかいんだって思ったことは別に問題じゃないし、不可抗力だし、そう、そこは問題じゃないんだけど。
「別に、一人で居た訳じゃない。そこの女も一緒だ。まぁ! 別に! なんのやましいこともないけどな!!」
そっちの方が問題だ。最後の所は重要なので、しっかり語気を強める。逆に怪しまれる気もするが、そこはそれ、大事なことなので。うん、原田も怪訝な顔してるしね。
で、その原田は、俺が指さした場所、つまり、立ち上がりながら、スカートの裾を直している女の居る方向を見て。
「…………誰もいないぞ」
————今、一番聞きたくない台詞を口にした。
…………なんだろ、すごく寒いんだけど。これ、何でかな?
気温が、一気に下がった。間違いなく錯覚だが、同時に今の心情を正確に表している。
原田の顔に、おどけた雰囲気はない。元々、この手の冗談を嫌う性格であるし、そんな真似をするぐらいなら、素直に茶化すことを選ぶだろう。
分かっている。分かっていても、聞かずにはいられない。
「——冗談、よせよ。そいつ、アンタの言ってた、噂の女だろ? 脅かそうったってそうはいかないからな」
「……イヤ、そっちの方が冗談だろう? 噂は、俺の作り話だぞ。ここの景色を見せるためについた、只の口実だ」
ああ、そっか。
そういや、絶景の話をしてた時、『意外と身近なところにもある』って主張してたっけ。それで、それを証明するために、俺を屋上に上げた、と。断りにくいように、わざわざ仕事って口実をつけて。いや〜なんだ、そうかそうか、大体そっちの事情は把握したよ。確かに、あの空は絶景だったかも知れないな。
ただ、たださ、そんなら、そうだとしたら、そこにいる、俺には見えて、アンタには見えない女は————。
感情のコントロールが、失われる。心が、暴走を始める。精神が、過剰な恐怖によって、無尽蔵に回転数を上げていく。止まらない、止められない。俺の制御の中にはない。ああ、分かっている。何度も、体験したことだ。
「…………おい、本当に大丈夫か? 高浜、気分が悪いなら——」
脳味噌が、警鐘を鳴らす。イメージの中で回転するテールランプを見る。臨界点突破。機能の保全のため、壊れる前に電源を落とす。
「お————高——————」
遠ざかる、原田の声。
悲しげな少女の瞳を眺めながら、俺は、意識を失った。