夢の終わり(前)
「どうして、いなくなってるのかな、高浜健吾君?」
「……目を離したのと、予想とは違う動きをしたからです」
篠山に軽く胸ぐらを掴まれながら、どうしようもない事実を話す。
全くもって誤算だった。
立川を縛りもせずただ放置していたのは、ロープ程度だと引きちぎられて終わるだろうという懸念、逃げるだけならこの三人ならどうにでもなるだろう、という楽観の二つから導かれた結果だった。
実際、相手の位置さえ分かれば、篠山と原田は捕まらないで逃げ切れるし、俺も原田に抱えられていれば、まず大丈夫だと思っていた。
で、何が問題かと言えば、立川が俺達に見向きをせず、勝手にどこかに行ってしまった、ということだ。
正気に戻った、ということなら大いに喜ばしいのだが、こちらに一言も掛けずにいなくなる、というのは信じがたい。
「大体君が、見なくても気配で起きたかは分かるとかいうから」
「そりゃな、殺すぞーって殺気を出されたら気付くけどさ、平常状態だったら目視しないと無理ですよ、普通に」
お前な、という殺気が、目の前から立ち上る恐怖。このまま投げられたら、二度と足腰立たなくなりそうだ。
そんな俺達を横目で見ながら、原田が不吉な一言をはき出した。
「なぁ、消えちまったってことは、ないよな?」
俺と篠山が固まる。
確かに、俺達は怪物を完璧にノックアウトしたのだ。
消えていない、ということは、本人を見ないと確認しようがなかった。
「決めつけるのは早計、だがここで話していても始まらない、か。仕方ない、ここまで来たら私も最後まで付き合うよ。彼女が行きそうな所を教えてくれ、高浜健吾君」
篠山の表情が穏やかになった。
いや、期待してるところ悪いんだが、俺も彼女と出会って二日程度なんでそんなモンよく分からない——とか言ったら投げられるんだろうな、やっぱり。
「おい、高浜。本当にあそこでいいのか?」
俺の肩を担いで、原田が訊ねる。
「あそこで良いも何も、あいつが自主的に行った所なんて、此処以外に思いつかないよ」
一段上って、俺が答えた。
向かっているのは屋上。
俺が立川に初めて会った場所。
時刻も二日前のそれに近い。
あのときは、こんな事想像もしていなかった。未来なんて分からないものである。
「よっと」
最上段に辿り着く。
この学校の文字通りてっぺん。屋上への扉が、目の前にある。
ポケットに手を突っ込むと、返しそこねた屋上の鍵に触った。
さっき原田に言われるまで忘れていたのだから間抜けなモノだ。
ゴタゴタしていたから仕方ないとも言えるが。
——隣を見る。右には原田、左には篠山。俺の友人達。
ありがたい。
「行くぞ」
鍵を回し、扉に体重を掛け、一気にソレを押し開く——。
一昨日と同じように、一瞬の強風を抜けて、一昨日と同じように、グラデーションの空の下、一昨日と同じ少女が、一昨日と違って、こっちを向いて立っていた。
「高浜君、ううん高浜先輩、ですね」
聞き慣れない敬語を使った彼女は、昨日までの様なはつらつとした表情でも、化け物の時のような恐ろしい貌でもなく、情けない、人間らしい顔をしていた。
「立川、お前」
「はい、全て思い出しました。自分のことも、何がしたかったのかも」
「だったら何で————」
そんな顔をしてるんだと、言いかけて、やめた。
何となくその理由が分かったから。
望みが、分かったから。
「私、消えたかったんです。逃げたかったんです。この、どうしようもない世界から」
立川は、泣いていた。
疲れたように、嘆くように。
「私、欲張りだったんでしょうか? お父さんがいて、お母さんがいて、それなりに仲の良い友達が居て、それで良かったのに」
無くした物を悼んで、立川は俯いていた。
それでも、声ははっきりと通った。
「お父さんは、人が変わったみたいだった。毎日お酒を飲んで、私や、お母さんを殴って、蹴った。お母さんは私を捨てていった。一緒に頑張ろうって言ってたのに。大丈夫でしょって一言だけ訊いて、実家に逃げていった。…………はっきり返事も出来ない子が、大丈夫なわけ無いのにね。友達は、一番当てにならなかった。誰もが、見て見ぬふりをした。トイレで頭から水を掛けられても、靴が無くなっても、教科書が破られてても、誰がやったか知らない? って訊いても、無視された。校舎裏でみんなに蹴られたこともあった。その中には、友達だと思ってた子もいた。何もかも、イヤだった」
全身が、苦痛を感じた。
情報として知っているのと、本人が涙ながらに語るのとでは、言葉の重みが全然違う。
知らず俺も声が出ていた。
「だから、消えたいと?」
「そう、いつものようにお父さんに殴られてたらね、急に意識が遠くなって、その時、このまま消えられたらいいのにって願ったの。願ったら、気付いた時には私は、私の体を見下ろしてた」
その時の事を思っているのか、立川は、遠くを見るような目をしていた。
だが、すぐに、視線を元に戻した。
「高浜先輩。これは、私の夢なんです。目を瞑って見る夢で、望みそのものでもあるユメ。だから、願いを果たさないときっと、戻ることは出来ないんです」
「戻るって、でもそれは」
意味することに、顔をしかめる。
消えることでしか戻れないのなら、戻った肉体はどうなるのか。
答えは、立川から来た。
「きっと、本体は死ぬんだと思います」
「そんな!」
諦めたように言う立川に、俺は声を荒げていた。
「ホントに、良いのかよ。そんなんで」
「はい。でも、時が経つのを待って、自然に消えるのは無理みたいです。願っていた記憶まで消えて、何か分からない怪物になってしまうのは、身にしみて分かりました。だから、今、ここで終わらせます」
とん、と屋上の縁に飛び乗った。
あの時と同じように、体を回す。
涼しげな声で、さらに続けた。
「ホントは、直ぐに飛び降りても良かったんですけど、一応、先輩にあいさつと、最後のネタばらしをしようと思いまして」
「ネタばらし?」
妙な言葉に違和感を覚える。
俺達が聞いた話に、どこか不足があったというのだろうか?
「ふふっ、わかりませんか?」
「………………」
さっきまでとは打って変わって楽しげに話す立川に、無言を通す。
「高浜先輩だけが私を見ることが出来る、理由ですよ」
「——————」
それは、今まで考えていなかったこと。
いや、幻覚だと思っていた頃は考える必要も無かったし、違うと分かった後は、忘れていた。
だが、言われれば確かに根本的な疑問だった。
霊感などない俺が、どうして?
「私たちには、縁があるんですよ先輩」
「縁?」
「そう、同じ事故で、悲劇にあった」
ドクン。心臓が跳ね上がった。
一つの可能性に、思い当たる。
「私の父は、トラックの運転手でした」
一言聞くたびに、体が前に進む。
失神と言う逃げ道を失った感情が、体を突き動かす。
「おい、高浜!?」
「どうした!? 何を言われた?」
会話が始まったとわかり、おとなしくしていた二人が、焦りを見せる。
当然か、さっきまで腰を痛めていた人間が、原田を振り払い、一歩一歩、屋上の端へと進んでいっているのだ。
何かに操られていると思っても、不思議ではない。
「おい! くそ!! こうなったら腕ずくで——」
「まってくれ。大丈夫だ」
視線に力を込めて、二人を見つめる。
どうやら、分かってくれたようで、掴もうとした手を引っ込めてくれた。
一度深呼吸をして、再び前を見つめる。
アドレナリンが回っているのか、腰の痛みは引いていた。
その分、はっきりと立川の言葉が届く。
「あの日、強い雨で視界を奪われた父は、ハンドル操作を誤り、歩道に突っ込んでしまいました」
ゆっくりと近付く。
限界突破のロスタイムの間しか耐えきれないだろう激情が、体を前へと進めている。
「不幸にも、そこには二人の女性が居たのです。仲良く買い物に来ていた母娘。豪雨にも関わらず、そこだけが晴れているかのような大輪の笑顔の娘と、控えめに笑う母親。その顔が絶望に染まるのは、数秒の後でした」
止まらない。知らず足が速くなる。心臓の音が、痛いほど聞こえた。
「一瞬だけ速く異常に気付いた娘が、母を突き飛ばし、結果として母は軽傷。娘は、致命傷と言えるほど、深い傷を負いました」
進む進む進む。後数歩で、女に届く。
「娘は搬送先の病院で死亡。母は数日後に、体質の悪化で昏睡状態に陥ったそうです。娘の名は、高浜佐奈。母の名は高浜江美。先輩のお母さんとお姉さんです」
目の前に着いた。体が勝手に動きそうになるのを、懸命に堪える。立川の最後の言葉を待っていた。
「私は、先輩のご家族の仇、その娘です」
もう、我慢できなかった。手を伸ばし、その華奢な肩に手を掛け————————————。




