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止まった時間は動き出さない。
その中で、ただ一人、セレスティだけが動く事を許されているかのようであった。
しずしずと更にノルンに近づくと、目の前でしゃがむ。
そしてノルンの膝の上に置かれた右腕を取った。
丁寧に、優しく。
白魚のように繊細なセレスティの指がそれを持っていく。
それをセレスティは目の前まで持っていくと、躊躇なく口に含む。
辺りには、湿った水音と、そして仄かに煌くノルンの刺青が背徳的な雰囲気を醸し出していた。
そんな中、実は恐ろしい攻防が繰り広げられていた。
(ううーー……やっぱりレジストされる。食べたい。食べたいわ。あの味が忘れられないっ。)
吸収の魔術を連発するリィン。
しかしそのたびに刺青が淡く煌く。
しかも吸収だけではない、幻術も、魅了も、果ては念動まで、リィンに出来るありとあらゆる魔術が行使されていた。
(ううっ、触れるだけでも美味しいけど、もっと、もっとほしい!)
リィンの渦巻く欲望が、セレスティにも伝わったのか、はたまた自分の意思なのか。
セレスティは口に含む指に歯を立てた。
「つっ。」
走る痛みに顔をしかめるノルン。
その指からは、少ないながらも血が滴っていた。
それを満面の笑顔で舐るセレスティ。
知らず生唾をノルンは飲み込んだ。
そこで一際強く、刺青が煌く。
空間が割れるような、そんな錯覚と共に、世界はまた動き出した。
「だめーーーーーっ!!」
部屋の中、全てにかけられていた暗示の魔術が打ち破られると同時にユラルルの声が響く。
走りよってきたユラルルは、ノルンとセレスティの間に割り込んだ。
「り、リリンちゃん、そんな羨まし、じゃなくてそんな事しちゃだめだよ!
私だってしたことないのに!ずるいよ!
じゃなくて、そのね、そういう事をするのはまず、私の許可を取ってからじゃないとだめなんだから!」
そうしてユラルルの視線が、未だに血が滴るノルンの指を捉える。
「私も舐って、いい?」
可愛らしく聞いてくるがそれはどうなのだろうか。
「……だめだろ。つか、なんなんだ、これ?」
そういいながら、未だに血の滴る指で目の前のセレスティを指し示す。
セレスティは恍惚とした表情を浮かべて何処かに精神を飛ばしているようだ。
しかし未だ物ほしそうに滴る血を見つめている。
「……ずるい。ずるいよ!私もなーめーるー!」
ノルンに襲い掛かるユラルル。
それをどうにか抑えていたノルンに、セレスティの後ろまで歩いてきていたイルアリアハートの声がかかった。
「その子はリリンちゃんです。ウイッデンさんの所で知り合ったのですが、多分どこかのご令嬢ではないかと。」
さすがイルアリアハート。
この状況でも冷静に答えるあたりがすごい。
「はぁ。それで、吸血趣味なのか?俺もこういう経験は初めてだよ。」
ユラルルを抑える事を諦めたノルンが気だるそうに答える。
その腕を捕まえてユラルルは指をなめていた。
「しょおなの?」
「そうなのですか?」
指を口に含めたユラルルとイルアリアハートの視線がセレスティに集まる。
更にノルンの視線まで集まった後に、やっとセレスティは周りの状況に気がついた。
「ひゃああぁ……。私ったら、うう、は、はしたないです……。」
意識が戻ったセレスティは立ち上がり、その顔を手で覆う。
しかし、その指の隙間からノルンを見やると恥ずかしそうに喋りかけた。
「でも、その、あのですね……。よかったら、また、貴方がほしいです。その……だめ、ですか?」
小さな女の子に言われる内容としてはおかしい事この上ない。
しかもそれが顔を赤くして言うのであるからたちが悪い。
だが、ノルンを含め、ここにいる全員が思っていた。
(ほしいって、多分、血がほしいって意味なんだろうな。)
「あ、ああ……。これくらいなら別にいいんじゃねぇか……。」
良くはない。良くはないが、その場の空気にやられたのか、ノルンが頷いた。
「ありがとうございます。また、お願いします。」
そういいながら微笑む。
先ほどまでの妖艶さはなく、年相応の無邪気な笑みである。
そこで何かに気がついたのか、びくっとする。
「あ、そうでした。もう戻らないと、他の人にご迷惑がかかってしまいます。
申し訳ありませんが、私は帰りますね。
その、今日はありがとう御座いました。
そのぉ……またきますね。」
そして優雅に礼をすると、そのまま入り口へと歩いていった。
それに生返事を返す3人。
その目の前でセレスティの背中に羽が生える。
どこかで見たことのある羽である。
そのまま姿が消え、ひとりでに扉が開くとひとりでに閉じていった。
「なぁ、それで結局なんだったんだ、あれ。」
「ふぉぁあ?」
「ただの可愛い少女だと思っていました。人は見かけによらないものなのですね。」
後に残された3人がそんな事を言う。
最後まで邪魔をしないように佇むジライだけが、その正体に気がついていた。
(恐らく、髪の色と瞳の色は違いますが、今行方不明中の王女様でしょうね。
この方たちは何故気がつかないのでしょうか。)
立ち振る舞いに常識のなさ、加えて美貌。
姿かたちも、昔レェベルフト王国に嫁いだルウツウ聖王国の姫君に良く似ている。
確か、現レェベルフト王国の第1王妃はルウツウ聖王国から嫁いできたのではなかっただろうか。
ジライだけが現状を少しだけ把握していた。
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パタパタと飛んでいたセレスティは騎士団の塔の、自分に割り当てられた部屋へと帰ってきた。
部屋の床に着地すると、程なく羽が消え、背中の刺青に吸い込まれる。
そして自身にかかっていた幻惑の魔術も解かれる。
「リィンちゃん、すっごく楽しかったね。それに、美味しかったぁ。」
少し恥ずかしいのか、しかしその美味を忘れられないのか、頬に手を当てうっとりとしている。
「ノルンさん……。また行こうね、リィンちゃん。」
その言葉にリィンは返事を返すが、全く切れがない。
未だ、お酒に酔っているようにほわほわしていた。
『そうね。セレス、よくやったわ。絶対にまた行きましょう!』
「う、うん。」
そうして辺りを見渡す。
そして恐る恐る扉に歩いていくとその扉を開けた。
(ばれてなかったらいいなぁ。でもやっぱり、ばれてるのかな。)
開いた扉の先には誰も居ない。
そうして扉を出たセレスティの後ろから声がかかる。
「誰であろう、こちらを向け。」
ちょうど扉の陰になっていたのか、その存在に気づけなった。
壮年の、渋い声にびくっと身をすくめたセレスティが恐る恐る振り返る。
「な、これは、王女様。大変失礼いたしました。して、その髪と瞳は……?」
剣の柄に置いていた手をすぐさまどけるとその場に膝を突く。
そこに居たのは、この砦の隊長を勤めるグランツ。
渋い顔にも優しさが窺えるダンディーなおじ様であった。
そのグランツが振り返った少女を見てすぐに気がつく。
その容姿は間違いなく王女であるが、あまりにも違う髪の色と瞳に困惑しながらも尋ねた。
「あ、グランツ……だったでしょうか?お勤めご苦労様です。この髪は、その、……少しお待ちください。」
(リィンちゃん、この髪って、戻せる?)
その言葉に返事をするようにセレスティの髪と瞳が元の色彩に戻る。
鮮やかな赤色の髪に薄い朱色の瞳。
それを見たグランツが驚き、声を上げる。
「おお、これは……。」
「あの、そのね、グランツ、お願いなのだけど。この事は内緒に出来ないかしら。」
何かを咎められるのを我慢するように懇願するセレスティにグランツは優しい顔を浮かべる。
「このグランツ、何も見ておりませぬ。全てこの胸の中へとしまっておきます。
……何よりもまず、ご無事で何よりです。この老骨を安心させて頂き、真にありがとう御座います。
して、今までどこかに出かけておられたのですかな?」
「ありがとう、グランツ。その、ね?先ほどまでは出かけていたのです。でも、その、それも内緒に出来ないかしら……。」
ワンピースの裾を握り、上目遣いでグランツを見つめる。
「お任せください。では、まずはお部屋で少々お待ちを。侍女を連れてまいります。
今の洋服もとてもお似合いですが、それでは出かけたことがばれてしまいます。」
もはや現役を退いたグランツであっても、王家に対する忠誠に欠片も揺らぎはない。
自分の孫程の王女の言葉に、全てを優先して頷いた。
この男の行動原理の一番上なのだからしょうがないことなのだが。
王族が最優先、そして国民、規律、国。
堅物であるがゆえにその行動に矛盾はない。
「グランツ……。ありがとう。貴方の配慮に感謝します。」
「勿体無きお言葉。」
そうして部屋に戻ったセレスティを見送るとグランツは動き出す。
甘やかしているという自覚はあるものの、それを諌めるような事はしない。
自分の役割ではないと感じていた。
もうすぐ老後に差し掛かるグランツに恐れるものなどありはしなかった。
グランツはまず侍女の居る部屋に行き、セレスティが部屋に居る事を伝えるとお召し物を着替えさせるように指示をする。
それが終わるとグランツは団長の居る部屋へと歩いていった。
「グランツです、入ります。」
そうして扉を開けたそこには一人の男。
この、テンザスの騎士団のトップである団長、シェフルドが居た。
「どうしただグランツ殿、何か進展があったのか?」
入ってきたグランツにそう問いかける。
明らかに顔色が悪い。
この騎士団始まって以来の大惨事、かなり老けたようになっていた。
未だ若い、といっても40になったばかりかというシェフルドであるが、騎士団の団長というものはコネで上り詰めれるようなものではない。
隊長、団長クラスになると、王都で開かれる御前試合での好成績が必ずといって必要となる。
その為、生半可な実力ではつくことは難しい。
そんなエリートであるシェフルドも、まさかの事態に降格どころか、死刑もありうるのではないかと悩むのは当たり前であったのだ。
そんなシェフルドにグランツが嘯く。
「団長閣下に良き話を持ってきましたぞ。」
その言葉にシェフルドは眉を上げる。
今のこの状況でいい話とは王女以外にありえない。
「グランツ殿、詳しく聞かせてくれ。」
「はい。まず、王女様ですが、無事保護いたしました。」
その言葉に椅子から立ち上がるシェフルド。
しかしまだ何かあるのだろうグランツの表情に先を促した。
「続けますぞ。その王女様ですが、どうやら何処かに出かけられておられた様子でしたが傷一つありませぬ。
何か恐ろしい事件に巻き込まれたといった様子も見受けられませんでした。」
その言葉に明らかな安堵のため息をつくシェフルド。
それに構わずにグランツが続ける。
「そして、ここからが本題なのですが、
どうやら王女様はずっと部屋に居たご様子でしてな。
今回の騒ぎは勘違いという事であったと、おっしゃられています。」
その言葉にシェフルドは顔を強張らせた。
先ほどグランツ自身が王女様が何処かに出かけていた、と言っていたにもかかわらずの発言。
そしてそれの意味するところ。
「グランツ殿、それは本当に王女様自身のお考えか?」
シェフルドにとっては有難い。
むしろ都合のいい話のように感じる。
出来れば今回の事件をそのように扱いたい、それが最上ではあるが王族を騙す訳にはいかない。
それがわかっているからこその質問である。
「もちろんです。わしを信じて頂きたい。しかし事が事なだけに王女様の下へ案内しますのでそこで確認して下され。」
それに逡巡するも頷いた。
「わかった。あのグランツ殿が言うのだ、信じよう。
この事を知っているのは何名だ?」
「わしと団長閣下、それに王女付きの侍女が2名です。」
もしかすると他にも見ていたものが居るかもしれないがそれを口には出さない。
そもそも、砦の中で見つかったのならもっと騒ぎが大きくなっているはずである。
それがないと言う事は、最初から部屋にいたのではないかとさえグランツは思っていた。
「……わかった、案内してくれ。」
「御意。」
そうして身だしなみを整えたシェフルドを連れて王女の待つ部屋へと二人は足を運んだ。
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部屋をノックし、中からどうぞと言う声が聞こえた事でシェフルドとグランツは王女のいる部屋へと足を踏み入れた。
そこには部屋の中で佇むセレスティと、その後ろに控える侍女の姿。
シェフルドとグランツは王女の前まで進むとそこに膝を突き頭を垂れる。
「ご無事で何よりです。まずは王女様の姿を見て安心しました。
……それで、お聞きしたい事があるのですがよろしいでしょうか?」
「はい、何でしょうか。」
「グランツ殿より聞きました。王女様はこの部屋にずっとおられたと。真でしょうか?」
その言葉にセレスティはグランツの顔を見る。
その視線にグランツは頷いた。
「……はい。私はこの部屋にずっといました。それがどうかしましたか?」
その言葉にシェフルドは頷く。
「……わかりました。ではそのように処理をします。グランツ殿、すまないが部下への指示をお願いする。」
その言葉にグランツは頷き、立ち上がるとセレスティに目礼すると部屋を出て行った。
その姿を見送ったシェフルドがセレスティに問いかける。
「その、グランツ殿より話は聞いております。一体どのようにしてお出かけになられたのでしょうか?」
シェフルドにして最大の謎はそこである。
部屋の前には衛兵を二人立たせていた。
しかも砦の中には常時1000人単位の兵士がいるのである。
どう考えても抜け出すなど不可能である。
しかしシェフルドのその質問はいとも簡単に答えられた。
「その、笑わないでくださいね?あそこの窓から空を飛んで出かけたの。」
そこに駆け引きなどと言うものはない。
年相応に聞かれたことに素直に答えただけである。
だが、それはシェフルドの思考を止めるだけの威力があった。
「は……?空を飛んで、ですか?」
「もう、笑わないでって言ったのに。リィンちゃんお願い?」
そうセレスティが言うと、その背中に綺麗な黒い、鮮やかな斑点のある蝶の羽が出来上がる。
それをパタパタと揺らしながらセレスティは言った。
「あのね、妖精さんが私を連れ出してくれたの。見えないけど、リィンちゃんって言います。」
その名前を聞くことが出来ない者には意味のわからない言葉にしか聞こえない。
それをシェフルドは感じ取ったのか、セレスティに問いかける。
「もしかして、契約されたのですか……?」
「契約、ですか……?そういえばそんな事を言っていた気がします。」
シェフルドは眩暈がした。
この王女はそれがどれだけ稀な事かを理解していないようである。
一国の王女でなければその力は、国を上げて保護するべき力である。
いや、王女であるから尚更そうなっていくかもしれない。
シェフルドは冷や汗を垂らしながら言葉を選ぶ。
「その、何かを要求されたり、失ったりと言った事はありますか?
例えば目が見えなくなったりとか、腕が動かないであるとか、何か変わりはございませんか?」
当然の質問であった。
契約を結ぶ時に何かを要求するのは当たり前である。
目の前の王女に何か異常らしきところが無いか、シェフルドは凝視した。
「何かいるのですか?その、契約と言うものは……。
あ、別にいらないそうですよ?私が私であればいいらしいです。」
シェフルドは目の前の王女の言っている意味が理解できた。
理解できたがゆえに恐ろしい。
どう見ても、力あるものと対話している。
しかも代償が要らないなど、考えられないにも程がある。
そう、世界は常に気まぐれで、人の理解など遥か彼方に置き去りにする。
「王女様、この事を他の方に話されましたか?」
「いいえ。あ、グランツには少しだけ。他には、その、ノルンさんとか……。」
突然恥ずかしそうにするセレスティ。
それを見ていたシェフルドは混乱する。
(は……?ノルン……?何故ここで、今話題の冒険者の名前が出てくるのだ。)
騎士団のトップであるシェフルドには街の情報が集められる。
その中に、盗賊を殺害した冒険者であり、最近街に素材を供給している冒険者の情報もあった。
それが何故今ここで出てくるのだろうか。
しかも、顔を赤らめながら。
しかし、今はそれどころではない。
頭を切り替えるとシェフルドは言葉を発する。
「王女様に申し上げます。そのお力は暫くは人目を避けるべきかと。
要らぬ騒動を巻き起こしかねません。その、ノルンと言う者には後で口止めをします。
ですので、ここにいる者以外には見せないようお願いします。」
「そう、ですか……?では、そのようにします。
それで、シェフルドにお願いがあるのですが。」
シェフルドの背中にはこれでもかと言うほどの冷や汗が流れていた。
これ以上何かあるのだろうか。
「その、暫くこの街に滞在したい、です。それと、街への外出を許してほしいのです。」
もともと、暫くは滞在する予定である。
その予定が延びるようにするのは造作も無い。
しかし、外出となると別である。
王女に傷一つつけようものならどんな処罰が下るかわからない。
しかし、と考える。
王女に駄目だと言って果たして納得するのだろうか。
王女と言えども子供である。その自制心に期待するのはとてもとても心許ない。
しかも飛んで行けるとなれば尚更である。
そこまで考えてシェフルドは妥協案を出す。
「……わかりました。滞在については如何様にも出来ます。
外出についてですが、騎士団の中で特に実力のあるものをお付けします。
それが駄目であるのなら、到底許可できませぬ。」
かなり譲歩した結果であるが、これ以上は流石に無理である。
これですらシェフルドの首が飛びそうなのだ。
その言葉にセレスティは嬉しそうにはにかんだ。
「シェフルド、ありがとう。」
花が咲くような笑顔であるのだが、シェフルドの胃の痛みを和らげるほどの効果は無かった。
「セレスティ様、何か、街でお友達でも出来ましたか?」
話が一段落した所で、シェフルドはとりあえず置いておいた内容にジャブを放つ。
そのジャブを全く意に返さずにセレスティは答える。
「お友達……。その、まだ、そういった関係じゃない、気がします……。
あ、でも、そう、だったらいいなぁ。」
見ただけでわかる夢見る乙女像であった。
それが食欲からくるものであると誰がわかろうか。
その姿を見てシェフルドは内心の危険度を更に上げる。
(ノルンと言う者に早急に接触せねばならない。これは最優先事項だ。)
そして2、3言葉を交わした後にシェフルドは部屋を後にした。
早足で自分の部屋に戻ると、とりあえず部下にノルンと言う冒険者の情報を持ってくるように指示を出した。
彼の苦悩は始まったばかりである。
7から続くすれ違いをうまくかけているか自信が無いです。
突込みどころ満載ですが突っ込まないでくれると嬉しいです。




