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追憶の街

作者: ジロウ

僕の通っていた小学校は、小高い丘から見下ろせる場所にあった。

 



『追憶の街』



 

 人込みに押し出されるようにしてホームへと降り立つと、まだ随分と寒気を含んだ風が頬を撫でた。鼻腔をかすめる冷気が苦しくて、ほんの少しだけ息を止める。

 早朝の駅のホーム。吐き出したのと同じかそれ以上の人々をまた腹の中に押し込んで、ゆっくりと進んでいく電車。それはのろのろと歩く速さから走る速さへと変わり、次第に加速度を増しながらまだ低い太陽の中へと消えていく。

 僕は通行の邪魔にならない辺りで足を止め、走り去る車両と中に乗っていた人間を、その姿が見えなくなるまで見送って、小さく息を吐いた。この街に来るのは、本当に久しぶりだ。



*   *   *


 階段を下りた所にある、その駅で一番大きな出口から外に出た。ひさしによって影が出来ている駅の構内から、足元のタイルに反射している光の中に一歩を踏み出し、そのまま足を止めてぐるりと辺りを見回してみた。

 自分のすぐそばを、見知らぬ人々が忙しそうにすり抜けていく。こちらの方などちらりとも見ず、いかにも無関心そうに、前だけを見て。ノリのついたパリッとした紺の背広を羽織ったビジネスマン。太ももの丁度半分程までしかないスカートをはき、大股でかっ歩していく女子高生の集団。細長い眼鏡をかけ、ツーピースのスーツに身を包んだ、仕事が出来そうなキャリアウーマン。まるで川のように止まることの無い流れは、まだ完全には動き始めていない街の中へと、様々な人間を押し込んでいく。

 この街は、変わった。

 駅の真ん前にある、以前より随分と拡張された道路や、夕方が来る前に太陽を隠してしまうだろう高くそびえ立つビルは、随分とここの景観を変えた。以前は見当たらなかった24時間営業のコンビニも、やたらと低価格なのが売りのジャンクフード専門店も。駅に隣接していた駅ビルさえ、すっかり様変わりしている。僕が知っているこの街の面影など、見渡す限りには何処にも見当たらない。まるで波間を泳ぐ魚のように、すいすいと流れをぬっていく人々にしても同じだった。

 こんな人々を、僕は知らない。



*   *   *


 丁度中学に上がる時、親の都合で隣の県に転居して以来、この街に来た事など無かった。来たいとも思わなかった。でも僕は今こうして、昔歩いた道をゆっくりと辿っている。何かを確かめるように、1歩1歩、踏み締めながら歩いている。頭上にそびえる木立の、幾重にも重なり合った細い枝の間から漏れる木漏れ日が、複雑な網目模様を形作り、石畳の上にゆったりと落ちていた。

 左脇の交通量の多い道路を通り抜ける車の排気ガスに顔をしかめながら、ふと顔を右へと振り向けてみた。そこには親水緑地とは名ばかりの、人口の小川を中心に造られた広場があった。薄汚れた水にまみれた水車。コケや泥で茶色に濁った敷石。細く頼り無い印象の無機質な川には、ほとんど水が流れていない。僕は『親水緑地』の真ん中にかかっている橋の上で足を止めた。

 ここの水量は、コンピュータで自動管理されている。午前10時になると自動的に水が流れ出して、乾ききった敷石を、湿り気を含んだ色へと染め上げる。その頃には、就学前の幼児やその親の姿が、ちらほらと見られるようになるはずだ。もっとも抗菌グッズが飛ぶように売れている昨今、いかにも不潔そうなこの川に、人を呼び寄せる力があるのかどうかは分からないけれど。

 少なくとも、僕が知っている『親水緑地』には、日ごと多くの幼児や児童が集まっていた。出来たばかりで、物珍しさもあったのかも知れない。当たり前だが、敷石も水車も真新しく綺麗で、下を流れる水は透き通り、きらきらと陽光を反射しては人々の心を和ませていた。

 『都会のオアシス』。当時のキャッチフレーズだ。今の様子では全く信じられないが、確かに当時のこの場所には、謳われた宣伝文句が良く似合っていた。

 桜の名所としても有名で、春になると満開のソメイヨシノが咲き乱れ、道の両側には、チョコバナナやアンズ飴を売る露店が、所狭しと店を構えた。僕も幼い頃はいくつかの百円硬貨を握り締めて、おおはしゃぎで一軒一軒をのぞいてまわった。食べきれないほどのお菓子を買い込んで、少しずつかじってはそのほとんどを食べきれずに残し、無駄遣いをするなとこっ酷く叱られた、なんていう事もあった。

 今ではその全てが幻想だ。眼前に広がる景色からは、吹きすさぶ冷たい風に似合いの寂寥感(せきりょうかん)を感じ取る事しか出来ない。僕はすっと目を細めると、素早く踵を返した。それから軽く頭を振って、またゆっくりと歩き出した。

 目的地はこの場所では無い。

 僕の目線と同じ位の高さにあったはずの太陽は、いくらか見上げる高さになっていて、静けさが勝っていた街は、にわかに活気付き始めていた。



*   *   *


 目指した場所は、親水緑地のすぐ近くにあった。古くからの民家と沿うように設置された線路、正面を走る道路に切り取られた、上から見るとまるで森のようにも見える自然公園。一般の道路から少し小高くなったその公園は、親しみを込めて『桜花ヶ丘』と呼ばれた。こちらは江戸時代から続く、由緒正しき桜の名所である事に由来していると聞く。当時は上野公園と同等とまでもてはやされていたらしいが、もはやそんな面影など残っていない。ただ地域住民と地理に詳しい人間が集まる、いわゆる穴場としては人気があった。

 今でも桜の季節には多くの人が集まり、花見やそれにかこつけた宴会を楽しんでいるのだろうか。あれから15年以上過ぎた今では、もう昔ほどの賑わいなど見られないのだろうか。この街を離れて久しい僕には、ただ想像を膨らませる事しか出来ない。

 はじめは入り口が工事中になっていた事に戸惑い、もしかしたら入れないのかと危惧したが、その心配は無用なものに終わった。通常の入り口とは別に設置された、臨時の入り口を裏手に見つけたのだ。僕はほっと胸を撫で下ろし、工事用のゴムが張られた狭い階段を、ゆっくりとのぼった。

 14〜5段の短い段差を上がりきり、目の前に広がった景色を見て、一瞬心臓が高鳴った。

 変わって、いない。

 黒と黄のボーダーと、少し土に汚れた白い天幕で囲まれた内部は、自分の記憶の中のそれと、あまりにも酷似していた。

 コンクリート敷きの中央に、そびえるように立つ、石造りの噴水。開放的な広場に散在する、濃い茶の細長い街灯。今はまだ、つぼみさえ固く閉ざされている無数の桜と、腰までの高さしかない小さく丸い葉をつけた常緑の庭木。まるで時が止まっているかのようだと思った。何もかも昔のままだと。張り巡らされた布によって周囲と隔てられた桜花ヶ丘は、明らかに世間とは違う時間軸を生きていた。

 信じられない思いで辺りを見渡し、僕は左腕につけたデジタル時計の数値を確認した。斜め上から差し込む陽光を浴びたディスプレイには、自分が認知している年と月日、時間が記されている。

 不変なものなど、無いと思っていた。人も自然も景色も、時が経てばおのずと変わるのだと。実際この街の景色も、人も、記憶の中のそれとは明らかに様変わりしていた。僕は寂しさを感じるとともに、少し安心していた。

 ――それなのに。

 時間帯のせいで誰もいない丘は、駅がすぐそばにあるというのに、ひっそりと静かだった。あたかも音さえ切り取られているようだ。隣の線路を走る電車の警笛も、乾いた風にのって微かに聞こえてくるだけ。先ほど通ってきた交通量の多い道路からも、あからさまな喧騒(けんそう)など伝わってこない。むしろ枝同士が擦れ合う音や小鳥のさえずりの方が、よほど大きく、胸に響いた。

 僕は深く息を吐き出すと、両手をコートのポケットに突っ込んだまま歩き出した。自分を2人縦に重ねたような高さの街灯の脇を抜け、規則的なダンスを繰り返している水柱を横目に通り過ぎた。正面には4〜50段はあろうかという、幅が広く広範囲にわたった石階段。足元を見ながら、1歩また1歩と足を進める。普段からは考えられない、酷くゆっくりとしたペース。ためらっている――傍目にも明らかな感情を持て余し、それでもこの足を止める事は出来なかった。

 階段を全てのぼりきっても、僕は顔を上げることをしなかった。落とした視線の先が、石の灰色から、ところどころ緑を含んだ、枯れた芝生の茶へと変わる。長年愛用し、ところどころ糸のほつれたスニーカーが、微かな音を立てながらそれを踏み分けていく。さくさくと、どこか寂しい響きが耳をつく。バッタのように跳ね上がる細長い葉片が、スニーカーに付着しては滑り落ち、付着しては滑り落ちを繰り返す。

 そのうち足元の芝生は、目に見えて段々と少なくなっていった。代わりに露出した赤土色の土壌が目に付いた。僕は構わず歩き続け、近頃の好天気で乾ききった地面に、足跡がうっすらと残った。微かな砂埃が舞う。それは吹き渡る風にのって、どこかへ運ばれていった。

 単調な色を呈していた地面に、突然天に向かって真っ直ぐに伸びる何かが現れた。ところどころ腐りかけコケが付着している、木製のくい。等間隔で備え付けられているくいの先には、これ以上人が進めないように縄が張り巡らされている。風雨に晒された縄は、すっかりくたびれ、くいと共に長い年月を生きてきたことを物語っている。

 僕はその向こうに広がる空間を予想して、ごくりと息をのんだ。一度目をつぶり、知らず知らずのうちに昂ぶっていた気持ちを押さえ込んだ。鼓動が、いつもより随分と速いような気がする。『随分と』というのは気のせいに近いのかもしれなかったが、確かに胸を打つ拍動は、いくらか駆け足になっていた。

 1つ、大きく深呼吸。

 身を切るような寒さの中、ポケットに突っ込んだ手が汗ばんでいるのを感じながら、ゆっくり目をあけてそろそろと顔を正面へ動かした。

 真っ先に瞳に飛び込んできたのは、心中とは裏腹に青く晴れ渡った空だった。斜めに差し込んでくる日の光は眩しく、目を細めつつ額に手をかざして、眼下に広がった街の景色を眺めた。

 自分の立っている位置からだと大分低い位置にある街は、何だかミニチュア模型のようだった。道を歩く人など、小指の先ほどの大きさも無い。丁度、出勤や登校をする時間とみえて、皆各々の家のドアから出ては、僕が数年ぶりに降り立ったあの駅へと向かっていくようだった。

 僕は一通り辺りを見回してから、ある一点でふと視線を止めた。ごみごみとした印象の住宅街の一角に、ぽつんと存在する茶色の空間。長方形に近いその区画には、ぐるりと周囲を取り囲むようにして背の高い木が植えてある。あれは全て桜だ。僕が知っている頃と、全く変わりが無いのならば。 L字型に曲がった白い建物の一面についたガラスが、太陽を反射して金色に輝いている。屋上には球形の給水タンクと、一面の人口的な緑。あの表面はゴム製になっていて、転んでも痛くないような工夫がされている。僕が通った、かつて僕の在るべき場所だった、1学年にそれぞれ1クラスしかない、小さな小学校。

 変わらない。

 変わっていない。

 鼓動が早くなる。自分自身を落ち着かせようと何度も深呼吸をするが、あまり上手くいかない。まだ時間が早く、人が集まっていないその場所は不気味なほどに静かで、現実味がまるで無い。ポケットの中の両手を、強く握り締める。

『貴方は他人を愛せないのよ』

 記憶の中の声を伴って頭の中に響いた台詞に、僕はすっと目を細めた。



*   *   *


 大学時代、サークルで知り合った女性と暫く交際していた事がある。いつからいつまで、などと細かい月日など覚えてはいないが、まあ2年半ほどだろうか。相手はショートヘアーの活発な女性で、感情表現の豊かな人だった。きっかけらしいものは特に無い。なんとなくいつも一緒にいて、気がついたら付き合っていた。成り行きかと言われれば、そうなのかもしれない。

 始まりこそ曖昧だったものの、僕は彼女を確かに愛していた。彼女が笑えば嬉しかったし、もっとその笑顔が見たいと望んだ。悲しそうな顔をしていれば心配で仕方が無く、自分に出来る限り、思いつく限りの方法で慰めようとした。しかし彼女は、日を追うごとに僕を避けるようになっていった。大学の構内ですれ違っても、こちらを見ようとすらしない。何か自分に落ち度があったのかと記憶を手繰り寄せてみたが、さっぱり思いつかない。元々喧嘩もほとんどしなかった僕等の間に、大きなすれ違いがあるとは僕には考えにくかった。

 そんなある日、相変わらず僕を避け続けている彼女を呼び出し、不自然な態度の理由を聞いた。何か気に障ることをしたのなら謝る、だから何故君が僕を避けるのか話してくれないか、と。すると彼女は目をつぶり、ゆっくりとかぶりを振りながらため息をついた。それからまぶたを開くと僕を虚ろな瞳で見つめ、まるで独り言をいうように、ぽつりと呟いた。

『貴方は他人を愛せないのよ』

 僕はまるで訳が分からなかった。

 何故そんな事を言われなければならないのか。何故彼女がそう感じてしまったのか。

 何か言おうとする僕を制するように、彼女の言葉は続いた。いつの間にか瞳から零れだしていた、静かな涙と共に。

『貴方は人と必要以上に関わろうとしないでしょ? いつだってそう。私といる時だってそう。私は貴方に色々な事を話したし、我儘も言ったし、自分の醜いところも全部さらけ出してるのに、貴方はただ頷いてるだけ。自分の事なんて、全然話してくれないじゃない!』

 最後は叫ぶようにして言葉を吐き出した彼女は、はあはあと大きく肩で息をしていた。

 僕には何もいえなかった。それは確かに、事実だったから。

『貴方は結局、誰も信じてなんかいないのよ。誰も愛してなんかない。私の……事だって』

 声のトーンは、話し始めよりも落ちていた。特に最後の方は、まるで蚊のなくような声だった。頬を伝う涙は次々と流れ落ちて、地面に丸い染みをつくった。かける言葉すら無くした僕を一瞥し、小さな声でさよなら、とだけ言うと彼女は背を向けて去っていった。

 彼女が行ってしまってからも暫く、僕はそのまま同じ場所に立ち尽くしていた。言葉を一言一言噛み締めるように反芻(はんすう)し、ぼんやりと空のただ一点を見つめ続けていた。

 彼女に指摘された自分の一面。なんとなくではあったが、それは自覚している事だった。

 楽しそうに笑っていても、どこか他人と距離をとっている自分がいる。他人の悩み事は聞いても、己の事は滅多に言わない。心に感じる重圧が大きければ大きいほど、それが口から出ることは無い。無意識のうちに全てを心の奥底にしまって、鍵をかける。それがまるで当たり前のようになってしまった原因は、恐らく小学生時代の体験によるものだった。



*   *   *


 僕は一言で言えば、とても大人受けの良い子供だった。兄弟はおらず、いわゆる一人っ子として育ったが、我儘をいうこともなく、人の言いつけを何でも聞く性質だったからだろう。近所の人には賢そうなお坊ちゃんですねと言われ、親戚には礼儀正しい子だと褒められる。学校に入ってからは成績もそこそこで、随分と教師受けが良かった。どうすればあんな子に育つんですか、などと面談で言われたと誇らしげに語る親を見れば、僕も嬉しかった。大人たちに評価される事が僕の喜びであり、存在理由であり、役目だった。

 入学してすぐに、友達も沢山できた。登下校を共にし、休み時間や放課後には泥だらけになって遊んだ。いつだって心からの笑顔を浮かべていたし、友達もそうだろうと思っていた。僕が友達と一緒にいて楽しいように、友達も僕と一緒にいて楽しいに違いないと。信じていた。

 そもそもの始まりは何だったのか。実は今でも、よく分からない。

 小学校低学年から中学年に上がろうという頃だったろうか。少しづつ周りの空気が変化していったことに、初めは気付かなかった。いつもの様に授業内でも積極的に手をあげ、教師に差されればハキハキと答え、休み時間は友達に話しかけて共に遊び、笑う。僕自身は何も変わっていないはずなのに、次第に変化していく友達の態度。視線。ぎこちなくなった笑顔。意識下で何となくおかしいと思い始めていた僕が、皆の思いを決定的に思い知らされたのは、中学年の半ば頃だった。

 その日は担任教師が風邪で欠席していて、授業は課題中心に進められていた。あらかじめプリントされた一問一答形式の問題を解いていくもので、監督役の教師も自分のクラスを持っていて、たまにしか様子を見に来なかったから、ほとんど自習に近かった。教師が教室内にいる時点ではそれほどでもないが、ちょっと自分のクラスを見てくるからと教室を離れれば、当然周囲は騒がしくなる。 10歳に手が届くか届かないかという程の子供に、静かにしていろという方が無理というものだ。男の子は駆け回ったり紙飛行機を飛ばしたり。女の子は仲の良いもの同士連れ合って、話に花を咲かせる。

 そんな中僕が机に座り、自分に充てられたプリントを大人しく解いていると、急にその用紙を取り上げられた。驚いて顔を上げた僕のプリントを、これ見よがしに高くあげニヤニヤと笑っていたのは、どこのクラスにも1人はいる、自称リーダー格の小太りな少年だった。脇には彼の取り巻きの少年達も、3,4人ひかえていた。

 小太りの少年は、返せよ、と言いながら手を伸ばした僕をあっさりとかわし、相変わらず人を小馬鹿にした顔で鼻を鳴らした。

『お前、先生に気に入られようとして良い子ぶってんじゃねえよ』

 言いながら手に持ったプリントを、片手でぐしゃりと潰す。あ、と小さく声を漏らした僕を面白そうに見て、今度は皺だらけになった用紙を窓の外に投げ捨てた。

 突然の事に、僕は立ち上がったまま身動きすらできなかった。彼は窓から身を乗り出し、目の上に片手でひさしを作って、落ちていく紙片の行方を目で追い、楽しそうに笑い声をあげた。僕達のやりとりに気付いた周囲は、いつの間にか静かになっていて、彼の声は高々と響いた。

 慌てて窓に駆け寄って下を見ると、プリントは丁度教室の真下にある、花壇の上に落ちていた。とはいえ僕等の教室は4階だったから、一面の土色の中にぽつんと白い何かが落ちている、という風にしか見えなかったけれど。

 流石に頭にきた僕は、何するんだよ、と小太りの少年に詰め寄った。しかし体格差があり過ぎた。数歩近づいた所で勢い良く突き飛ばされ、僕はタイル敷きの固い床に思いっきり尻餅をついた。

『ヒイキされてんじゃんお前。生意気なんだよ』

 頭上から吐き掛けられた言葉に追い討ちをかけるように、顔面のすぐ脇に椅子が飛んできた。一瞬の怯えた表情を見て、少年と取り巻き達が、こちらを指差しながら笑い声を上げる。

 何故、それも突然、こんな目に合わなければならないのだろう?

 信じられない思いで顔を上げた、視線の先にあったもの。

 それは地に両手をつけた僕を笑いながら見下ろす少年達と、そ知らぬふりをしながらもいい気味だとほくそ笑む、友達だと信じていた者たちの顔だった。

 僕は暫く、そのまま動けなかった。ショックで、声さえも出てこなかった。酷と言える少年の仕打ちにではなく、彼と彼の取り巻きによるあからさまな嘲笑にでもなく、友人達の浮かべる微かな笑みに、深い衝撃を受けた。

 そして僕は、はっきりと悟った。今まで信じてきたものは、全て幻想だったのだと。分かり合えていると、お互いに親しみを感じていると思っていたのは僕だけで、皆は笑顔の裏で、鼻持ちならない思いを抱えていたのだと。

 僕は溢れ出しそうになった涙を堪え、素早く立ち上がると廊下の方へと駆け出した。スライド式のドアを開け、教室を出ながら勢い良く閉めて、階段めがけて走った。後にした教室内から、爆笑と歓声、それに拍手が聞こえ、僕は両手で耳をおおいながら走り続けた。皆の笑い声が、どこまでも追いかけてくるような気がした。哀しさと悔しさで、止めようとしても涙は止まってくれなかった。

 僕のプリントは、これでもかというほど土にまみれていた。前3日降り続いた雨のせいで、花壇の表面がどろどろだったからだ。柵に捕まって思い切り手を伸ばし、やっとの事で手にしたそれを広げてみると、中に書かれた字などまるで読めない状態になっていた。印刷された機械的な文字さえにじんで、黒い染みが広がっている。僕はそれを軽く握り締め、ゆっくりと元来た道を引き返した。真上にある教室からの興味深げな視線を感じていたから、校舎内に入るまで、一度も顔を上げなかった。

 昇降口まで戻ったあとも、まだ微かに笑い声が聞こえてきた。脳裏に浮かぶ、友人の――いや、友人だった者たちの楽しそうな笑顔。

 僕が何をした?

 手にしたプリントのにじんだ文字が、自分のこぼした涙でまたぼやける。

 僕が悪いっていうのか?

 次第に大きくなっていく嗚咽がこれ以上漏れないように、口を片手で覆う。

 一体何がいけなかったのか。これからどうすれば良いのか。何も分からなくなってしまった僕は、昇降口の太く四角い柱に背を預けたまま、授業終了のチャイムが終わるまで泣き続けた。

 いじめは、それだけでは終わらなかった。むしろその事件をきっかけに、表面化していった。

 掃除の時間、四つん這いになって雑巾がけをしていれば、同じ班の人間が僕に馬乗りになって、走れなどと命令をする。毎日の観察記録をつけることを義務付けられていたチューリップの鉢が、僕の物だけひっくり返されて見るも無残な状態になっている。係を決める際、僕が立候補して一度決まったはずの役割に言いがかりをつけ、誰もやりたがらないような係に回される。上履き、体操着、書道用具、絵の具など、ありとあらゆるものが無くなり、それらは主にゴミ捨て場や花壇の上でみつかる。勿論、誰一人として口など聞いてはくれない。

 担任教師はそれに気付かないのか、気付かないふりをしているのか、何も対処などしてくれなかった。それどころか、事あるごとに『仲の良いもの同士で班を作る』事を強制してくるので、その度に僕は、改めて疎外感を感じることになった。

 家に帰っても、親に今の学校での状態を話したりはしなかった。両親は僕の事を、優等生で人望があり、誰にも誇れる息子だと思いこんでしまっている。もしいじめにあっているという事実を告げれば、心配より前に、失望されてしまうだろうと思った。

 見捨てられたくなかった。愛されたままでいたかった。

 家という居場所まで失うことを恐れた僕には、全てを独りで抱え込み、毎日をただじっと耐えて過ごすしか方法は無かった。

 来る日も来る日も、飽くことなく繰り返される仕打ちにより、僕の顔から段々と笑顔が消えていった。そして感情の起伏もあまり無くなった。心の底から笑む事も怒る事も無く、何をされても涙すら浮かんでこない。淡々と日々を過ごし、必要に応じて作り物の笑みを浮かべる。今日も。明日も。その次の日も。

 共働きで仕事に忙しかった両親が、僕の異変に気づくことは無く、形だけの安穏とした日々の中で、ともすればあふれ出そうになる空しさを胸の奥に閉じ込めながら、僕は懸命に生きていた。

 小学校をそろそろ卒業しようかという時、急に父の転勤が決まった。当初父は、既に私立中学入学が決定していた僕を連れて行くのは忍びないと、単身赴任するつもりでいたらしい。しかし僕は、頑としてついて行くと言い張った。私立中学を受験したのは、別にレベルの高い学校に行きたかった訳ではなく、小学校を共にした連中と顔をつき合わせているのが嫌だったからだ。住む場所が変わり、彼等に出会う確率が減るのならば、それに越したことは無い。

 僕は考え付く限りの言い訳をして、父の説得を試みた。今にして思えば、あの時は必死だったに違いない。初めは首を横に振っていた父も、熱意に負けたのか次第に折れ始め、最終的には、母の『私も仕事をやめてついていくから』の一言で決まった。

 かくして僕は悪夢の様な生活から抜け出し、再スタートを切る事になった。歩き慣れぬ道。見知らぬ顔。自分との繋がりが一切無い環境。不安が無いと言えば嘘になるが、それでも僕にとっては救いだった。

 地元の公立中学には、すでに仲の良いもの同士の繋がりができていたけれど、なるべく人当たりが良いように振る舞い、次第に友人と呼べる人間が増えていった。一時期に比べれば笑顔が随分と多くなったし、失ったように見えた感情も徐々に取り戻せてきた。新しい友人達は皆ほがらかで、まるで昔からの知り合いであるかのように、分け隔てなく接してくれた。つるんで遊びに行ったり、馬鹿をやったり、冗談を言い合ったり。何の憂いも無かった頃に戻ったようで、それからの数年間、本当に楽しかった。

 高校でも苦労することなく友人が沢山でき、かつてあった胸の痛みなど、完全にと言っていいほどに忘れていた。自分はあの事件を克服したのだと思い込んでいた。しかし大学時代の出来事で、完全に元に戻れてはいなかった事を知った。自分でもほとんど意識し得ない、心の深い部分には、他人を恐れ、信じきれていない自分がいるのだと。

 心を許した瞬間に、また裏切られるかもしれない。他人に歩み寄れば歩み寄るほど、その恐怖は増していく。そんな自分の胸のうちを気付かせないために、表面上の笑顔でつくろい、必死に生き抜く日々。近づかれすぎないように。離れていってしまわぬように。

 年月が過ぎても、結局やっていることは同じだった。

 あの悪夢の中からは、抜け出せていなかった。



*   *   *


 輝きを増した太陽が、円滑に回り始めた街に力強く降り注いでいる。小学校には、すでに多くの生徒が集まり、思い思いに遊んでいた。砂場で何かをつくっている者。コートを広く使ってドッヂボールをする者。鬼ごっこをしているのか、所狭しと駆け回っている者。ここからでは声こそ聞こえないものの、随分と楽しそうに見える。

 冷たい風にのって、微かに割れ鐘のような音が聞こえてきた。それを合図に、校庭に出ていた子供達が一斉に建物の中へと入っていく。かつて自分も縛られていた音。地獄とも呼べる教室内に帰らねばならない、まるで死刑宣告のような重苦しい響き。小学校のチャイムを不快だと感じるのは、今もあそこに捕らわれている証拠では無いだろうか。生徒達が視界から完全にいなくなったのを見届け、僕は深いため息をついた。

 こんなはずではなかった。あの音を聞いても、威圧感など感じないはずだった。白い監獄のような建物を見ても、微かな恐怖さえ浮かばないはずだった。ここへは過去の傷跡を確認しに来たわけではない。

 視線を校舎の方へ固定したまま、コートの内側にあるポケットに入った定期入れを取り出した。中にはさんである写真を手探りでそっと取り出し、自分の顔の前に持ってくる。胸の辺りまである長い髪に、ほとんど化粧っ気のない顔。白いワンピースを着て上品に笑う女性が映った写真。僕が今付き合っているひとだ。

 彼女には、過去の出来事を全て洗いざらい話した。彼女は、自分への嘲笑をまじえ半ばヤケの様に語る僕の話を、真剣に聞いてくれた。まるで自分の事のように、怒ったり泣いたりしながら。今まで誰一人、周りにそんな人間はいなかった。そもそも自分から全てを話そうとしたのは、彼女が初めてだった。終いには、不覚にも涙を流してしまった僕に、彼女は優しく笑いかけ、抱きしめてくれた。それが僕にとっては、何よりの救いだった。

 そして僕等は、付き合い始めた。この2年、隠し事をすることなく、自分を偽ることなく彼女に接していられたし、本当なら当たり前のはずのそんな毎日が、僕にとっては幸せそのものだった。彼女なら信じられる。心から愛する事ができている。その自信を確固たるものにするために、今日僕は自分の過去に会いに来た。すっかり様変わりした街を見て、全ては過去の事だと笑い飛ばせると思った。何を見ても、何を聞いても。心乱される事など無いと、確信を持っていたのに。



*   *   *


 彼女との約束は、今晩7時。場所は新宿、Kプラザホテルのスカイバー。

 鞄の中に潜ませてある婚約指輪は、セオリー通り給料の3か月分。石は彼女の好きな、ブルーサファイヤ。

 彼女を幸せにする自信はある。御両親とも上手くやっていけると思う。仕事は軌道に乗り始めたところだし、現状に不安な要素は1つも無い。

 晴れるはずだった暗雲がむしろ膨らんでしまった事も、きっと問題ないはずだ。誰にだって、思いだしたくない過去の1つや2つはある。完全に取り去れずとも、彼女との生活の中で徐々に忘れていけるのなら――それでいい。

 一陣の風が吹いた。暖かくなった日差しとは正反対の、凍えてしまいそうな風。大切な写真を飛ばされないようにと、元通り定期入れの中にそれをしまい込んだ僕の耳のそばを、うねりが音を伴って駆け抜けていく。

『貴方は他人を愛せないのよ』

 耳鳴りにも似た響きに顔をしかめ、定期入れをポケットに押し込んで顔を上げた。

 昔僕が暮らした街。古き良き下町の空気。徐々に変わりゆく景色の片隅にある、変わらぬ痛みを思い起こさせる場所。

 腕を伸ばし、両手の親指と人差し指で四角形の囲いを作ってみた。絵描きや写真家がするように、目当ての風景をすっぽりとその中に収める。

 陽光に照らされて光る、無数の窓。枝ばかりが目立ち、寒そうな印象の木々。土色のグラウンド。こうして手の中に収まってしまうほど、極めて狭い世界。

 僕はまだこの小さな空間の中から――抜け出せずに、いる。

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― 新着の感想 ―
[一言] 緻密な情景描写、心理描写に圧倒されました。淡々とした文章なのに、子供の残酷さや昔の傷に囚われている感じが上手く伝わってきました。最後の一節も、想像をかきたてられて良かったです。 これからも頑…
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