香りを辿る令嬢
「令嬢であって、猟犬ではない」と嗤われてきた鼻が、たった一つの匂いを嗅ぎ当てたとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
人は、嘘をつくとき匂いが変わる。
汗でも、香水でもない。皮膚のすぐ下から立つ、鉄を舐めたときのような細い匂い。
ミレーヌ・ヴァレンスの鼻には、それが言葉より先に届く。
便利だと思ったことは、一度もない。
* * *
「ねえミレーヌ、こちらへおいで。ご婦人方が、君の鼻を見たいそうだ」
婚約者のクロード・ベルナールは、そう言って手招きをした。
仕立ての良い上着に、橙の皮と安い白檀の香水。三年間、一度も変えていない。上着には金をかけるのに、香水だけは値段で選ぶ人だ。
「さあ、当ててごらん。この部屋にある花の名前を、全部」
「……クロード様」
「できるだろう?君の得意なことだ」
笑い声が起きた。ミレーヌは、言われたとおりに花の名を挙げようとして、やめた。
挙げたところで、次は違う芸を求められるだけだ。
「僕の婚約者は令嬢であって、猟犬ではないんだがね」
自分で言って、クロードが一番おかしそうに笑った。
「ああ、そうだ。こちらの伯爵夫人が、昨夜どちらでお休みになったか当ててごらん」
どっと沸いた。
夫人の顔から笑いが消えたのを、ミレーヌだけが見ていた。
「……存じません」
「なんだ、つまらないな」
当てられる。
当てられるから、言わない。三年間、彼女が守ってきたのはその一線だけだった。
言い返さなかったのも同じ理由だ。この人の香水の銘柄も、去年の秋に隣の令嬢と同じ匂いをさせていたことも、知っていて、言わない。
* * *
その夜、広間の隅で交わされていたのは別の話だった。
「王太子殿下が、今月も公務をお下がりになった」
「半年だ。半年、誰も原因を言い当てられない」
アルベール王太子。銀髪の、まだ十九。
どこも悪くない。なのに、確実に細くなっていく。
* * *
王宮の茶会は、その翌週だった。
アルベールは、ほんの短い時間だけ姿を見せた。侍従に支えられて、ゆっくりと人の列の前を歩いていく。
貴族たちは順に頭を下げた。ミレーヌも下げた。
王太子が彼女の前を通り過ぎた、その一瞬。
ミレーヌの足が、勝手に止まった。
薬の匂いがしたのは当然だ。処方を受けているのだから。
止まったのは、そこに混ざっていた別の匂いのせいだった。
乾いた草。雨に濡れた石の裏にあるような、冷たくて、わずかに苦い匂い。
知っている。
幼い頃、屋敷の裏庭で庭師が抜いていた雑草だ。犬が食べると弱って死ぬから抜くのだと、そう教わった。
一度に食べれば分かる。ほんの少しずつなら、痩せていくだけで、誰も毒とは思わない。
苦霜草。
気づけば、列が動いていた。後ろの令嬢に軽く背を押されて、ミレーヌはようやく足を進めた。
そして、歩きながら、ようやく思い当たった。
この匂いを、彼女は最近どこかで嗅いでいる。
毎週、隣に立っていた。橙の皮と、安い白檀。その奥に、いつからか薄く混じっていた乾いた草。
気づかなかったのではない。
気づく気がなかったのだ。あの人の匂いを、これ以上詳しく知りたくなかったから。
何も言えなかった。
この場で口を開けば、また「鼻自慢」で終わる。三年かけて、彼女はそれを学んでいた。
ただ一人、銀髪の王太子だけが、去り際に一度だけ振り返った。
* * *
翌朝、ミレーヌは侍医長の館を訪ねた。
取り次ぎを三度断られ、四度目にようやく通された。
ヴィンセント侍医長は、老いた手を組んで、静かに話を聞いた。
「……令嬢。それは、たいへんに重い話でございますな」
「はい」
「証はおありか」
「ございません。私の鼻しかございません」
老人はしばらく黙り、それから立ち上がって、棚から薬包をひとつ取ってきた。
ミレーヌは封を切らずに、紙のまま鼻先へ近づけた。
一秒もかからなかった。
「……混ざっております。苦霜草です」
「馬鹿な。わたくしが自分の手で調合を」
「侍医長様が入れたのではないと思います」
ミレーヌは薬包を裏返した。
「この匂いは、紙の外側にも付いております。一度開けて、また閉じた紙の匂い方です」
ヴィンセントの手から、薬包が落ちた。
「……六月。六月に、調合室の鍵を新しくいたしました。あの時から、薬の減りが妙に早いと」
半年前だ。
殿下が細くなり始めた、その月と同じだった。
* * *
王宮の夜会は、三日後に開かれた。
薬包に残った粉は、その二日で調合室の記録と照合された。六月以降の分だけ、重さが合わなかった。
薬に手を入れられるのは、調合室に入れる者か、運ぶ者だけだ。侍医長はそう言った。
ミレーヌは、そうとは限りませんと答えた。
殿下ご自身の許しが下りたのは、夜会の当日だった。
ミレーヌは、静まり返った広間を歩き出した。
誰も止めなかった。止めようがなかった。彼女の後ろに、侍医長が立っていた。
一人目の前で止まった。
白粉と、古い蔵書の匂い。老侯爵は硬直したまま彼女を見返した。
「失礼いたしました」
ミレーヌは礼をして、通り過ぎた。老侯爵が、長い息を吐いた。
二人目。若い文官。
汗。ひどく緊張した汗。だが、それだけだった。
「失礼いたしました」
どこかで、誰かが息を呑む音がした。
誰の前で彼女が止まるのか、この広間の全員が数え始めている。
三人目の前で、ミレーヌは少し長く立っていた。
まだ少年のような侍従だった。膝が笑い出している。
苦霜草の匂いがした。そして、それと一緒に、真新しい革の匂いも。
分不相応な靴だ。誰かに買ってもらったのだろう。
ミレーヌは、何も言わなかった。
この子は運んだだけだ。運べと言った人間が、まだこの部屋にいる。
彼女は、少年の横を通り過ぎた。
人垣が、ひとりでに割れていく。
ミレーヌの足が止まったのは、広間の中ほどだった。
目の前に、金髪の男が立っていた。
* * *
「……なんだい、その目は」
クロードの声は、少しだけ上ずっていた。
「クロード様。手袋を、お外しになってくださいませ」
「はあ?」
「お外しになってくださいませ」
彼は笑おうとして、失敗した。
「馬鹿馬鹿しい。証拠は?僕が何かしたという証拠があるのかい」
「侍医長様」
ミレーヌは振り返らずに呼んだ。
「白い紙を一枚、お願いいたします。……クロード様の手袋の内側を、その上で払ってくださいませ」
広間が、一斉にざわめいた。
クロードは手を引いた。
引いた袖を、隣にいた老侯爵が、驚くほどの速さで掴んだ。先ほど、彼女が素通りした老人だった。
白い手袋が裏返される。
ヴィンセントが、布地を指の腹で叩いた。
紙の上に、灰緑色の粉が落ちた。ほんの少しだった。
ヴィンセントは、それに鼻を近づけ、目を閉じた。
「……薬包に残っていたものと、同じです」
広間の空気が、音を立てて変わった。
「……今夜も、渡すおつもりだったのですね」
クロードは答えなかった。答えられなかった。
少し離れたところで、三人目の侍従の、真新しい革靴が、かたかたと鳴っていた。
「違う!僕は触っていない、僕はただ——」
鉄。
舐めたときの、あの細い匂いが立った。
「今、変わりました」
ミレーヌは、静かに言った。
「何が」
「あなたの匂いが。嘘をおつきになると、変わるのです。……私にはそれしか分かりません。けれど、それだけは、一度も間違えたことがございません」
クロードの顔から、色が引いた。
「あなたの香水は、三年間一度も変わっておりません。橙の皮と、白檀。
けれど六月から、そこに乾いた草の匂いが混ざっております。
クロード様。あなたはご自分の匂いが変わったことに、一度も気づいていらっしゃらない」
* * *
彼は、周りを見た。助けを求めるように。
さっきまで一緒に笑っていた人たちが、ひとり残らず目を逸らした。
誰も、何も言わなかった。
ただ、彼を囲んでいた人垣が、一歩、後ろへ下がった。
三年間ミレーヌが立たされていた場所に、今度は彼が一人で立っていた。
「……あの方が」
クロードの口から、乾いた声が漏れた。
「あの方が立って歩けるようになれば、次の御世で、うちの家はもう要らなくなる。……王妃様のご実家が、そう決めておられる」
「あなたは、命じられたのですか」
「命じられていない」
クロードは、笑おうとして、顔の半分だけを歪めた。
「命じられる値打ちすら、うちにはもうないんだ。だから、僕がやった」
「それだけのことで」
「それだけ? 君に分かるものか。何も持っていない人間の匂いなんて、嗅いだこともないだろう」
ミレーヌは、小さく息を吐いた。
「存じております」
そして、まっすぐに彼を見た。
「——今、あなたから、それが匂っておりますもの」
* * *
半月後。
ベルナール侯爵家は爵位を没収され、領地は王領に編入された。
審理は後日あらためて行われ、六月以降の不足はすべて裏づけられた。クロードの身柄は、北の塔にある。
薬を運んだ侍従の少年は、罪を認めて、生涯の追放で済んだ。ミレーヌが広間で名を呼ばなかったことが、わずかに情状として働いたのだと聞いた。
婚約破棄の申し入れは、使いの者が書状で持ってきた。
塔の中で、それを書くだけの紙と時間は与えられたらしい。
紙からは、橙も白檀も匂わなかった。
塔の石と、湿った藁の匂いしかしなかった。
ミレーヌは、その紙を丁寧に畳んで、暖炉に落とした。
* * *
王宮に呼ばれたのは、その翌週だった。
庭に面した部屋で待っていたアルベールは、侍従をつけずに立って彼女を迎えた。
体からはもう、あの冷たい草の匂いはしない。石鹸と、日に干した布の匂いがする。
「君は、あのとき僕の前で止まったね」
最初の言葉が、それだった。
「……覚えて、いらっしゃったのですか」
「半年、誰も僕の前では止まらなかった」
アルベールは、窓の外へ目をやった。
「みんな、通り過ぎるか、遠くから祈るかのどちらかだった。医者でさえ、僕の顔じゃなくて記録を見ていた。……君だけが、足を止めた。何も言わずに」
「申し訳ございません。あの場で申し上げる勇気が」
「謝らないでほしい」
王太子は、少し笑った。
「あの日から、窓の下を誰か通るたびに、探していたんだ。もう一度立ち止まってくれないかと思って。
……寝床から動けない男の考えることだよ」
ミレーヌは、返す言葉を見つけられなかった。
「今朝ね」
アルベールが言った。
「厨房のほうから、パンの匂いがした。半年ぶりだ」
彼は、その匂いを思い出すように、少しだけ目を閉じた。
「侍医長がね、君を王宮に置きたいと言っている。薬包の封を、これからは人の目ではなく、君の鼻で検めたいそうだ」
「……侍医長様が」
「うん。……というのは、半分は口実なんだけれど」
「半分」
「うん。半分」
銀髪の王太子は、そこで初めて言葉に詰まった。
「残りの半分は、僕が、君にそばにいてほしいというだけの話だ」
ミレーヌは、息を吸った。
その空気の中に、もう薬の匂いは混じっていなかった。
便利だと思ったことは、一度もなかった。
けれど今、この人の匂いを嗅ぎ分けられることだけは、生まれてよかったと思った。
「……はい、殿下」
礼をして顔を上げたとき、彼女は気づいた。
目の前の人の匂いが、ほんの少しだけ変わっている。
嘘をつくときの、あの細い鉄ではない。もっと温かくて、名前のつけようのない何かだった。
自分の匂いだけは、生まれてから一度も嗅いだことがない。
けれど今なら、少しだけ想像がつく。
人は、嘘をつくとき匂いが変わる。
けれど、まっすぐ私を見てくれる人の匂いは、いつまでも変わらない。
お読みいただきありがとうございました。
「犬のようだ」と笑われた鼻が、誰の前でも止まらなかった人の前で、一度だけ止まる。
そういう話が書きたくて書きました。
彼女にとって婚約破棄は、失ったものではなく、置いていったものです。




