第六十九話 乾かない手袋
岡田結衣が半券を持ち帰ってから、五日後。
日暮れ前、一人の男性が濡れた軍手を紙袋に入れて来店した。
洗っていないのに水が滴り、干しても乾かないという。
「私のものじゃありません。返したいんです」
◇
田島勇、五十八歳。
町内の公園で、週に一度、植木の手入れをしている。
一年前、近所に引っ越してきた青年、荻野に誘われた。
勇は最初、断った。
知らない人と同じ作業をするより、一人で歩く方が気楽だった。
だが、折れた枝を片づけるのを一度手伝い、それから毎週顔を出した。
荻野は園芸の仕事をしていたわけではない。
図書館で借りた本を見ながら、苗を植えていた。
間違った場所へ植えては、二人で移した。
今年の春、荻野が転勤を決めた。
勇は、おめでとうと言った。
荻野は公園の道具を引き継ぎたいと言った。
勇は『別の人を探せ』と答えた。
一人で続けるには広すぎた。
そもそも、自分が始めた活動ではない。
荻野が発つ日、道具箱に軍手が一組残った。
勇は着払いで送ろうとした。
ところが片方の軍手が濡れ、箱の底まで水が広がった。
晴れた日に干しても、滴は止まらなかった。
荻野に連絡すれば、また公園のことを話すことになる。
勇は数日迷い、郵便局を探して外へ出た。
角を曲がると見知らぬ石畳があった。
◇
「この手袋を返せば、終わりますか」
店主が聞いた。
「終わらせたいんです」
「公園を?」
「違います。約束みたいになったことを」
勇は軍手を見た。
荻野は、続けてほしいとは言わなかった。
道具をどうするか尋ねただけだった。
勇は、任されたら断れなくなると思った。
店主は棚から、透明な袋に入った紙の札を出した。
『水やり 田島』
荻野の字だった。
去年の夏、二人で休みの日を分けた時に作った。
「こんな当番、もうやりません」
「そう伝えましたか」
「言わなくても分かるはずです」
勇は自分の声が尖ったのを聞いた。
転勤する相手を責めたかったわけではない。
相手がいなくなるのを寂しいと思うほど、親しかったと認めるのが嫌だった。
「続けたい日も、あるんです」
勇は小さく言った。
「それなら毎週と決めなければなりませんか」
「決めなければ、枯れる苗もあります」
「誰かに相談できますか」
勇は公園の掲示板を思い出した。
いつも犬を連れて通る人もいる。
助けてほしいと言うのは、荻野から引き継ぐこととは違う。
店主は紙の札を渡した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
去年の夏の夕方。
勇は熱を出し、水やりに行けなかった。
翌日、公園へ行くと、苗は元気だった。
荻野が仕事帰りに寄ったのだ。
『当番の日、忘れたか』
勇が言うと、荻野は笑った。
『一人の当番じゃないですから』
勇はその言葉を、若い人の親切として片づけた。
本当は、頼っていい相手ができたことが嬉しかった。
嬉しいと認めれば、いなくなる時に寂しくなる。
だから最初から、一人でやっていたことにした。
置いてきたのは、責任感ではない。
続け方を人と分けてよい気持ちだった。
◇
軍手の水は止まった。
勇は荻野へ写真を送った。
『軍手、忘れてる。送っていいか』
返事には『処分してもいいです』とあった。
勇はすぐには処分しなかった。
『公園のこと、少し寂しい。毎週は無理だが、時々続けたい』
自分の言葉で書いた。
荻野から、驚いた顔の絵文字と短い礼が返った。
翌週、勇は公園の掲示板に手入れの日を貼った。
「一時間だけ。来られる人がいたら」
誰も来ないかもしれない。
最初の日、犬を連れた女性が五分だけ立ち寄った。
苗の名前を教えてほしいと言った。
勇は荻野の借りていた本を思い出し、知らない、と答えた。
二人で札を読み直した。
水やりの曜日は決まらなかった。
勇は家へ帰り、乾いた軍手を道具箱へ入れた。
◇
帳簿。
預かり品 引き継ぐ義務
一本線を引く。
預かり品 続け方を人と分けてよい気持ち
所有者 田島勇
返却 済




