第六十三話 片方だけ鳴るイヤホン
宮原聡子が赤字の消えた原稿を持ち帰ってから、一週間後。
午後、一人の男性が白いイヤホンを持って来店した。
左右とも故障していない。
けれど、誰かと片方ずつ耳へ入れると、必ず片方だけ音が消えるという。
「一人なら、両方とも聞こえます」
男性は言った。
「二人で聞こうとすると、駄目なんです」
◇
小泉拓郎、三十三歳。
高校時代からの友人に、藤野渉がいた。
二人は音楽が好きだった。
放課後、駅のベンチでイヤホンを片方ずつ使った。
新しい曲を見つけるのは、いつも渉だった。
拓郎は気に入らない曲にも理由をつけた。
ベースが単調だ。
歌詞が狙いすぎている。
渉は笑って、次の曲を聞かせた。
大学は別々だった。
それでも月に一度は会った。
拓郎は音響機器の会社へ入り、渉は介護職に就いた。
二人で小さな音楽配信の番組も始めた。
再生数は多くなかった。
好きな曲を一つずつ持ち寄り、理由を話すだけの番組だった。
五年前、渉が番組を休みたいと言った。
仕事が忙しく、母親の体調も悪いという。
拓郎は、月に一度の一時間も作れないのかと尋ねた。
渉は謝った。
半年後、母親が落ち着いても、番組は再開しなかった。
会えば音楽の話をした。
ただ、渉がすすめる曲を、拓郎は以前より厳しく評した。
昨年、渉が結婚した。
披露宴で流れたのは、拓郎が嫌いだと言った曲だった。
渉は、その曲を妻と初めて一緒に聞いたのだと話した。
拓郎は笑って祝った。
帰宅して、二人で使っていたイヤホンを捨てた。
翌朝、机の上へ戻っていた。
先月、久しぶりに渉と会った。
駅のベンチで片方を渡した。
拓郎の側だけ音が鳴り、渉の側は無音だった。
左右を替えると、今度は拓郎の側が無音になった。
修理店へ持っていく途中、古いランタンのある路地へ迷い込んだ。
◇
「同じ曲を聞きたいのですか」
店主が尋ねた。
「前は、聞けていました」
「同じように?」
拓郎は答えなかった。
渉は、昔から拓郎と同じ曲を好きだったわけではない。
拓郎が文句を言うのを面白がっていただけだ。
それでも新しい曲を持ってきた。
店主は棚から、透明なケースに入った一枚の円盤を取り出した。
高校の文化祭で、二人が作った録音だった。
校内放送を使い、昼休みに好きな曲を流した。
曲の合間に、二人の声も入っている。
拓郎が長く解説し、渉が短く相づちを打っていた。
「渉は、音楽に詳しくありませんでした」
「では、なぜ一緒に?」
「私が話すのを、聞いてくれたからです」
言ったあとで、拓郎は顔をしかめた。
自分ばかりが聞かせていたように聞こえた。
けれど録音を聞くと、違った。
拓郎が知らないバンドを、最初に持ってきたのは渉だった。
拓郎が退屈だと言った曲を、渉は何度も聞いた。
理由をうまく説明できなくても、好きだと言った。
その言葉を聞くうち、拓郎も曲の別の部分を見つけた。
「あいつは、もう私と音楽を聞かなくてもいいんでしょう」
「ご結婚されたからですか」
「私としか分からないものだと思っていたんです」
拓郎はイヤホンのコードを指へ巻いた。
番組を休んだ時も、披露宴の曲を選んだ時も、渉は音楽を捨てていない。
拓郎と同じ聞き方をやめただけだった。
それを、自分との時間を捨てたのだと決めた。
「同じものを好きでいなければ、友達ではいられない気がしました」
「同じものを、お好きだったのでしょうか」
拓郎は小さく笑った。
高校生の頃から、好みは合っていなかった。
同じ曲を聞き、違うところで黙り、違うところで笑った。
二人をつないだのは、同じ答えではない。
違う音を聞いたあとで、まだ片方を返さないことだった。
店主は文化祭の録音を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
文化祭の放送が終わった日。
拓郎は、渉の選曲がばらばらだったと文句を言った。
渉はイヤホンの片方を耳に入れたまま答えた。
『別々に聞こえるから、一緒に聞くんだろ』
『同じなら、一人でいいじゃん』
拓郎は、格好をつけた言葉だと笑った。
本当は、嬉しかった。
自分と違うまま隣にいることを、渉が選んでくれたからだ。
拓郎が置いてきたのは、二人だけの音楽ではない。
違う音を聞いたまま、隣にいる心だった。
◇
イヤホンは、二人で使っても鳴るようになった。
拓郎は渉を駅のベンチへ呼び出した。
昔の番組を再開しようとは言わなかった。
披露宴で流れた曲を、もう一度聞かせてほしいと頼んだ。
渉は片方を受け取った。
曲が終わるまで、拓郎は何も言わなかった。
「どうだった?」
渉が尋ねた。
「歌詞は、やっぱり狙いすぎてる」
渉は笑った。
拓郎も笑った。
それから、嫌いではなかった箇所を一つ話した。
渉は妻が好きな部分を話した。
二人の答えは重ならなかった。
帰り際、渉はイヤホンを返した。
拓郎は、今度は渉の家で三人で聞こうと言った。
渉は少し驚き、予定を確認すると答えた。
約束の日は決まらなかった。
それでも拓郎は、返された片方を捨てなかった。
◇
帳簿。
預かり品 二人だけの音楽
一本線を引く。
預かり品 違う音を聞いたまま隣にいる心
所有者 小泉拓郎
返却 済




