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忘れもの預かり所  作者: 空乃真芽


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第六話 濡れない傘

高木千代が赤い靴と記憶を持ち帰ってから、三日後。


「今日は、何をお探しですか?」


店主が尋ねると、若い男性は答えなかった。


黒い傘の柄を、両手で強く握っている。


外は晴れていた。


少なくとも、この店の窓から見える空に雨雲はない。


それなのに。


男性の靴と肩は、雨の中を歩いてきたように濡れていた。


傘だけが。


一滴の水も弾いた跡がなく、乾いている。


「……分からないんです」


やがて、男性は言った。


二十代の終わり頃だろうか。


灰色のシャツ。


細い銀縁の眼鏡。


濡れた前髪が額へ張りついている。


「何かを探しているはずなんですけど」


店主は急かさなかった。


「では、分かるところから伺いましょうか」


「分かるところ?」


「どうして、その傘をお持ちなのですか?」


男性は手元を見た。


初めて傘の存在に気づいたような顔をする。


「母のものです」


「お母様の」


「正確には、母が置いていったものです」


少し間を置いて。


「二十年前に」


◇


母から連絡が来たのは、三日前だった。


『会って、話がしたいです』


知らない番号から届いた短いメッセージ。


それだけなら、間違い電話だと思っただろう。


けれど最後に名前があった。


――相沢由美子。


相沢蓮は、会社の給湯室でスマートフォンを見つめたまま動けなくなった。


母の名前だった。


二十年ぶりに見る。


一度も忘れたことのない名前。


忘れたかった名前。


「相沢さん?」


後ろから声を掛けられた。


同僚の坂口が、空のマグカップを持って立っている。


「あ、すみません」


蓮は給湯器の前から退いた。


「顔色悪いですよ」


「ちょっと寝不足で」


「またですか。ちゃんと休んでくださいよ」


「はい」


いつものように笑う。


大丈夫そうに。


相手が心配しなくて済むように。


それは蓮が子どもの頃から身につけた癖だった。


席へ戻る。


メッセージをもう一度開く。


『突然連絡してごめんなさい』


『会って、話がしたいです』


『今さらだと思うでしょう』


『それでも、もし許してもらえるなら』


許す。


その言葉だけが、目に引っかかった。


蓮は返信欄へ指を置いた。


『分かりました』


そこまで打って。


消した。


『会うつもりはありません』


打って。


また消した。


何と返せばよいか分からなかった。


会いたいのか。


会いたくないのか。


許しているのか。


許していないのか。


自分のことなのに。


何一つ、分からなかった。


◇


蓮が九歳の時。


母は家を出ていった。


六月の雨の日だった。


朝から雨が降っていた。


窓ガラスを細い水の筋が流れていた。


父は夜勤でいなかった。


母は玄関に、大きな紺色の鞄を置いていた。


『旅行に行くの?』


蓮が尋ねると、母は振り返った。


目が赤かった。


けれど、笑った。


『少しだけ出かけてくるの』


『どこに?』


『遠いところ』


『僕も行く』


『蓮は学校があるでしょう』


『今日は日曜日だよ』


母の笑顔が止まった。


それから、蓮の前へしゃがんだ。


『お父さんが帰ってきたら、冷蔵庫にご飯があるって伝えて』


『いつ帰ってくる?』


『……すぐに』


母はそう言った。


玄関の傘立てから、赤い傘を取った。


けれどドアを開ける直前、何かを思い出したように戻ってくる。


そして、黒い折り畳み傘を蓮へ渡した。


『これ、持っていて』


『今日、雨だよ』


『うん』


『お母さんが使えば?』


『私はこっちがあるから』


母は赤い傘を持ち上げた。


『蓮は、濡れないようにね』


それが最後だった。


母は帰ってこなかった。


◇


「理由は、後から聞きました」


蓮はカウンターの前で言った。


店主は黙って聞いている。


「父と、うまくいっていなかったそうです」


怒鳴り合う声を聞いた夜もあった。


皿が割れたことも。


母が泣いていたことも。


子どもの蓮は覚えていた。


父が暴力を振るっていたわけではない。


母が一方的に悪かったわけでもない。


二人は少しずつ、同じ家で暮らせなくなっていた。


母は家を出た。


父は離婚届を出した。


そして蓮は父と暮らした。


「父は、母の悪口を言いませんでした」


『お母さんにも事情があった』


『大人には、子どもには説明できないことがある』


『お前を嫌いになったわけじゃない』


何度もそう言った。


「だから僕も、母を悪く思ってはいけないと思ったんです」


母にも事情があった。


苦しかったのだ。


仕方がなかった。


頭では、何度も理解した。


「お父様は?」


「五年前に再婚しました」


「そうですか」


「今も普通に会います。新しい奥さんも、いい人です」


蓮は笑った。


「何も問題ありません」


店主は少しだけ首を傾げた。


「本当に?」


蓮の笑顔が止まる。


「……多分」


「多分、なのですね」


「みんな、そう言います」


「何をですか?」


「僕は大丈夫そうだって」


学校の先生も。


友人も。


父も。


何かあるたび、蓮へ尋ねた。


『大丈夫か?』


蓮は答えた。


『大丈夫』


困らせたくなかった。


泣けば、父が自分を責めると思った。


母を悪く言えば、本当に母がいなくなる気がした。


だから。


大丈夫な子どもになった。


「その傘は、ずっとお持ちだったのですか?」


「はい」


壊れても直した。


布が破れれば張り替えた。


骨が曲がれば交換した。


ほとんど別の傘になっているのに。


黒い柄だけは、あの日のまま残っている。


「おかしな話なんですが」


蓮は傘を見た。


「この傘、濡れないんです」


「濡れない?」


「雨の日に差しても」


水を弾くという意味ではない。


雨粒そのものが、傘へ触れない。


風に流されるように避けていく。


「いつからですか?」


「分かりません。気づいたのは高校生の頃です」


友人には手品だと言われた。


撥水加工だと笑われた。


蓮自身も、そういうものだと思うことにした。


「でも、今日は」


店へ来る前。


街には激しい雨が降っていた。


蓮は傘を開いて歩いた。


傘は濡れない。


けれど蓮の身体だけが、雨に打たれた。


布をすり抜けたわけではない。


傘の内側にいるのに。


髪も。


肩も。


靴も。


なぜか濡れていった。


そして気づけば、あの路地にいた。


「だから、この傘を直してもらえるのかと思って」


「傘を?」


「はい」


店主はしばらく傘を見ていた。


そして、静かに言った。


「おそらく、壊れてはいません」


「では、どうして」


「分かりません」


蓮は思わず笑った。


「分からないことが多いんですね」


「はい。残念ながら」


「でも、何かはある?」


「探してみます」


店主は棚の奥へ歩いていった。


◇


戻ってきた店主が持っていたのは、小さな黄色いボタンだった。


何の変哲もない。


四つ穴の。


少し傷のついたボタン。


「これが?」


「はい」


「傘の部品ではありませんよね」


「そうですね」


「見覚えもありません」


店主はボタンをカウンターへ置いた。


「では、なぜでしょう」


「え?」


「蓮様のものだと思います」


「名前」


蓮は眉をひそめた。


「僕、名乗りましたか?」


「いいえ」


「どうして知ってるんです?」


「ここでは、そういうこともあります」


「便利ですね」


「私にも仕組みが分かれば、もう少し便利なのですが」


店主は少しだけ笑った。


蓮も、つられて笑う。


それからもう一度、黄色いボタンを見た。


「触れば、何か思い出すんですか?」


「可能性があります」


「母が出ていった理由も?」


「それは、お母様にしか分かりません」


「じゃあ、母が今さら会いたいと言う理由は?」


「それも」


「分からない」


「はい」


蓮は小さく息を吐いた。


「役に立たないですね」


「申し訳ありません」


「冗談です」


「そうでしたか」


店主は本気で安心したように見えた。


蓮は、また少し笑った。


けれど。


その笑顔はすぐに消えた。


「僕は、母に何を聞けばいいんでしょう」


会って。


事情を聞いて。


謝られたら。


何と答えればいいのか。


「許すべきだと思いますか?」


「私には決められません」


「二十年も経ってます」


「はい」


「母にも事情があった」


「そうかもしれません」


「それなら、もう責めるべきじゃないですよね」


店主は答えなかった。


蓮は自分の言葉を待つように、黙っている。


古時計の針が進む。


やがて。


「……責めたいのですか?」


店主が尋ねた。


蓮の喉が動いた。


「分かりません」


「では、その答えも含まれているのかもしれません」


黄色いボタン。


触れれば戻る。


けれど。


戻ってくるものが、優しい記憶とは限らない。


「忘れたままの方が、楽ですか?」


蓮が尋ねる。


店主は少し考えた。


「今までは、そうだったのかもしれません」


「今は?」


「それを決めるのは、蓮様です」


蓮は傘の柄を握った。


いつも自分を濡らさなかった傘。


母が最後に残したもの。


大丈夫な自分を守り続けたもの。


ゆっくり手を離す。


「お願いします」


店主が静かに尋ねた。


「本当に、思い出してもよろしいですか?」


蓮は頷いた。


「はい」


黄色いボタンへ触れた。


◇


雨の音。


狭い玄関。


紺色の鞄。


赤い傘。


九歳の蓮は、母を見上げていた。


『少しだけ出かけてくるの』


『いつ帰ってくる?』


『……すぐに』


母は黒い折り畳み傘を渡した。


『蓮は、濡れないようにね』


ここまでは覚えている。


記憶は、そのあとも続いていた。


母が立ち上がる。


赤い傘を差す。


玄関を出る。


『待って』


蓮は追いかけた。


靴も履かずに。


雨の中へ出た。


母のコートを掴む。


黄色いボタン。


あのボタンだった。


『行かないで』


『蓮』


『僕も行く』


『駄目なの』


『どうして?』


母は答えなかった。


蓮の手を、コートから外そうとする。


『嫌だ!』


『ごめんね』


『嫌だ!』


ボタンを掴む。


糸が伸びる。


千切れる。


黄色いボタンが、蓮の手の中に残った。


母は一歩下がった。


その顔が歪んだ。


けれど。


戻ってこなかった。


『お母さん!』


赤い傘が遠ざかる。


『お母さん!』


何度呼んでも。


振り返らなかった。


その時。


蓮の胸にあったもの。


悲しみではなかった。


寂しさでもなかった。


怒りだった。


『嘘つき!』


幼い蓮は叫んだ。


『すぐ帰るって言ったのに!』


『僕を置いていくくせに!』


『大嫌い!』


雨が顔を濡らす。


涙と混ざる。


声が枯れるまで叫んだ。


母の赤い傘は見えなくなった。


◇


父が帰ってきた。


玄関の前で泣いている蓮を見つけた。


『どうした』


『お母さんが行った』


父の顔が青ざめる。


『そうか』


父は蓮を抱きしめた。


『ごめんな』


その声が震えていた。


『お母さんなんか嫌い』


蓮が言うと。


父は、少し黙った。


そして。


『お母さんにも、事情があったんだ』


そう答えた。


『嫌いって言っちゃ駄目?』


父は何も言えなかった。


ただ蓮の背中を撫でた。


その沈黙を。


蓮は、駄目なのだと受け取った。


母を嫌ってはいけない。


怒ってはいけない。


父を困らせてはいけない。


だから。


泣くのをやめた。


怒るのをやめた。


手の中の黄色いボタンを、黒い傘の小さな袋へ入れた。


そして。


忘れた。


自分が、母を追いかけたことを。


行かないでと叫んだことを。


大嫌いだと言ったことを。


置いていかれた九歳の自分が。


怒っていたことを。


◇


「……腹が立つ」


蓮は店の中に立っていた。


頬を涙が流れている。


手には黄色いボタン。


「今さら、何なんだよ」


声が震える。


「二十年も、何も言わなかったくせに」


店主は黙っている。


「誕生日も」


涙が止まらない。


「入学式も、卒業式も」


「はい」


「父が再婚した時も」


「はい」


「一度も来なかったくせに」


握ったボタンが掌へ食い込む。


「何が『許してもらえるなら』だよ」


蓮は泣きながら笑った。


「最初から、許してもらうつもりで来るなよ」


長いあいだ。


蓮の中には、悲しみだけが残っていた。


母にも事情がある。


仕方がなかった。


理解しなければ。


許さなければ。


そう思うたび。


怒りは、さらに奥へ押し込められた。


「僕は、怒ってよかったんですね」


蓮が言う。


店主はすぐには答えなかった。


「どうでしょう」


「そこも分からないんですか」


「怒ることと、傷つけることは同じではありません」


「……」


「怒りを感じることが正しいかどうかを、誰かに許してもらう必要はないのではないでしょうか」


蓮は黙った。


店主はそれ以上言わない。


「母に会ったら」


蓮は黄色いボタンを見る。


「怒ってもいいでしょうか」


「それを決めるのは、蓮様です」


「許さなくても?」


「はい」


「話を聞いて、それでも許せなかったら」


「その時に、また考えればよいのだと思います」


蓮は目元を拭った。


「答えを出してから会わなくてもいいんですね」


店主は小さく微笑んだ。


「会う前に答えが分かるのであれば、話をする必要はないのかもしれません」


蓮も少し笑った。


「確かに」


カウンターへ置いた黒い傘を見る。


先ほどまで、あれほど強く握っていたもの。


今は、ただの古い傘に見えた。


「これは、どうしますか?」


「持って帰ります」


「かしこまりました」


「でも」


蓮は傘を手に取る。


「次に雨が降ったら、少しくらい濡れてもいいかな」


店主は答えず、穏やかに微笑んだ。


◇


店を出ると。


街には雨が降っていた。


細い雨。


街灯の光を受けて、銀色に見える。


蓮は黒い傘を開いた。


一滴。


雨粒が布へ落ちる。


ぱたん。


小さな音。


もう一滴。


また一滴。


傘は、普通の傘のように濡れていった。


「……直った」


蓮は呟いた。


少し考えて。


「違うか」


傘を閉じた。


雨が髪へ落ちる。


頬を伝う。


冷たい。


けれど。


嫌ではなかった。


蓮は軒下へ入り、スマートフォンを取り出した。


母からのメッセージ。


返信欄を開く。


今度は、消さなかった。


『会います』


そこまで書く。


それから、もう一文。


『ただ、先に伝えておきたいことがあります』


指が止まる。


少し怖かった。


それでも続けた。


『僕は、あなたに怒っています』


送信する。


すぐに既読はつかなかった。


返事もない。


それでよかった。


蓮は初めて。


母の事情でも。


父の気持ちでもなく。


自分の気持ちを伝えた。


許すかどうかは、まだ分からない。


会って何を聞くのかも。


話し終えたあと、もう一度会いたいと思うのかも。


何一つ決まっていない。


ただ。


大丈夫ではなかった九歳の自分を。


今度は置いていかないと決めた。


蓮は傘を開く。


雨音が頭上へ広がる。


その音を聞きながら。


ゆっくり歩き出した。


◇


忘れもの預かり所。


店主は帳簿を開いていた。


万年筆を取り、文字を記す。


預かり品  母の答え


そこで手が止まった。


「……違いますね」


一本線を引く。


預かり品  怒る権利


所有者   相沢蓮


返却    済


インクが乾くのを待つ。


その時。


ぽつり。


帳簿の上へ、水滴が落ちた。


店主は顔を上げる。


天井からではない。


屋根にも雨音はない。


水滴は、黒いインクをゆっくり滲ませた。


怒る権利。


その文字ではなく。


古いページの端。


何も書かれていなかった場所に。


小さな文字が浮かび上がる。


返却    未


店主の表情が変わった。


「誰の……?」


ページをめくる。


けれど、預かり品も所有者もない。


返却の欄だけ。


未。


指先で触れると。


店の奥から、鍵の触れ合う音がした。


ちりん。


店主は振り返る。


棚にある、小さな古い鍵。


揺れている。


誰も触れていないのに。


「……今度こそ」


店主は帳簿を閉じた。


ランタンを手に取り、棚の奥へ向かう。


けれど鍵の揺れは止まり、普段は壁の場所にも通路は現れなかった。


店主は小さな古い鍵を元の棚へ戻した。

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