第五十七話 閉まらない引き出し
岸本美穂が表彰状を持ち帰ってから、五日後。
昼過ぎ、一人の男性が小さな木の引き出しを抱えて来店した。
何も入っていないのに、奥まで閉まらないという。
「父の机から外してきました」
男性は言った。
「空っぽなら、せめてきちんと片づけたいんです」
◇
松原修、五十一歳。
二か月前、父が亡くなった。母は十年前に亡くなっている。
実家を片づけることになり、妹の智子と週末ごとに通った。
父の服。古い工具。母が集めていた食器。
残す物には付箋を貼り、売れる物は査定へ出した。
修は兄妹で公平に分けようとした。
智子が食器を欲しいと言えば、修は同じくらいの値段の時計を選んだ。
修が工具を引き取れば、智子へ現金を多く渡す計算をした。
最後に父の机が残った。
一番下の引き出しには何もなかった。それでも閉めると、指一本分だけ戻ってくる。
智子は机ごと処分してよいと言った。修は反対した。
父は長男の自分へ机を譲るつもりだったはずだと言った。
『また、お兄ちゃんだけ』
智子が呟いた。
修は腹を立てた。
子どもの頃、父から厳しくされたのは自分だ。家業の手伝いもした。進学先も父の意向へ合わせた。
智子は好きな町へ出て、好きな仕事を選んだ。父から自由をもらったのは妹の方だった。
二人は言い争い、その日から連絡を取っていない。
修は引き出しだけを外し、家具店へ向かった。曲がり角の先に、見覚えのない店があった。
◇
「何を入れれば、閉まると思われますか」
店主が尋ねた。
「何も入れたくありません」
「空であることが、大切なのですか」
「分け残しがあれば、また揉めますから」
店主は棚から、赤と青の二色鉛筆を取り出した。赤い側だけがひどく短い。
父が家計簿をつける時に使っていた物だった。
「これは要りません。父は、何でも金額で決める人でした」
店主は鉛筆の青い側を指した。
『修 自転車修理』
薄い字が残っている。その下に、『智子 迎え』とあった。
「父の日記でしょうか」
「私には、分かりません」
修には覚えがあった。
中学二年の雨の日、自転車の鎖が外れた。父は仕事を抜け、学校まで直しに来た。
同じ日、小学生だった智子は熱を出した。父は修の自転車を直したあと、智子を迎えに行った。
「同じ日に、両方したんです」
「同じだけ、でしょうか」
修は答えを探した。
時間も金額も違った。受け取った二人の感じ方も違う。
父はいつも公平ではなかった。
修には家を継ぐ期待をかけた。智子には女の子だからと家業を教えなかった。
どちらも愛情と呼べる部分があり、傷と呼ぶしかない部分もあった。
「父が私を大切にしたと言えば、智子の傷を否定することになります」
「智子様の傷を認めれば、修様の傷はなくなりますか」
「では、どう分ければ公平なんです」
「お気持ちも、同じ量に分けるのでしょうか」
修は閉まらない引き出しへ手を置いた。
公平に分けようとしたのは、争わないためだけではない。
父の愛情に差があったかもしれないと確かめるのが怖かった。
数字を揃えれば、兄妹は同じだけ愛されたことにできると思った。
店主が二色鉛筆を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
父の机の前。
高校生の修は、進学したい学校を諦めると伝えた。父は家から通える学校がよいと言った。
隣の部屋で智子が泣いていた。美術の学校へ行きたいと話し、父から役に立たないと笑われたのだ。
修は智子へ言った。
『お前は好きにすればいい』
励ましたつもりだった。
智子は怒った。
『お兄ちゃんが我慢した分まで、私に自由にしろって言わないで』
修は、その言葉を忘れていた。
兄の犠牲も、妹の自由も、本人たちが望んだ形ではなかった。
父は二人を大切にした。そして二人を別々に傷つけた。
同じ量ではなかった。比べて一方を消す必要もなかった。
修が置いてきたのは、公平な分け方ではない。
公平にできなかった愛を、兄妹それぞれの言葉で認める勇気だった。
◇
引き出しが、音を立てて閉まった。
修は実家へ戻った。
智子へ、机は自分がもらうつもりだったと話した。
長男だからではない。父へ従った時間まで捨てるようで、手放せなかったからだと認めた。
智子は机そのものは要らないと答えた。
ただ、また兄だけが父の気持ちを分かったように話すのが嫌だったと言った。
二人は仲直りの言葉を急がなかった。
修は机を引き取った。代わりに同額の現金を渡す計算はやめた。
智子が欲しがった、値段のつかない二色鉛筆と父の古い家計簿を渡した。
残った物をすべて公平には分けられなかった。それぞれが欲しい理由を一つずつ聞いた。
実家を空にする最後の日、智子は机の引き出しを閉めた。今度は戻らなかった。
◇
帳簿。
預かり品 公平に分けられた父の愛情
一本線を引く。
預かり品 公平にできなかった愛を認める勇気
所有者 松原修
返却 済
店主は帳簿を閉じた。
隣に置いていた小さな古い鍵を、初めて上着のポケットへ入れた。
壁の向こうから声はしなかった。通路も現れない。
ただ、普段は壁しかない場所へ、扉ほどの細い影が浮かんだ。
店主が一歩近づく。影は消えなかった。
もう一歩近づくと、ポケットの中で鍵が温かくなった。
店主は手を入れたが、取り出さなかった。
影は息を一つ数えるあいだだけ残り、静かに壁へ戻った。
店主は追わなかった。
怖くなくなったわけではない。
それでも鍵を、棚へ戻そうとは思わなかった。




