第五十四話 ほどけない靴紐
長谷部透が白くなった手紙を持ち帰ってから、六日後。
午後の店に、一人の女性が古い舞台靴を持って来た。
足首へ巻く細い紐が、結び目もないのにほどけないという。
「切ってしまえばいいんです」
女性は鋏を取り出した。
「でも、切ろうとすると手が動かなくなるんです」
◇
水島郁子、五十八歳。
若い頃、舞踊団で踊っていた。
主役になったことはない。
それでも、群舞の端から端まで音を渡すように踊るのが好きだった。
三十二歳で舞台を降り、小さな教室を開いた。
生徒の足首へ触れ、重心を直す。
できなかった回転が一度だけきれいに決まると、自分のことのように喜んだ。
十年前から膝が痛み始めた。
見本を見せる回数を減らした。
五年前には、跳ぶ動きをやめた。
生徒には、先生は見るのが仕事になったのだと笑った。
先月、医師から手術を勧められた。
回復しても、以前と同じようには動けないかもしれない。
郁子は教室を閉じると決めた。
長く通う生徒の奈々は、椅子に座ったままでも教えられると言った。
『踊れない先生に、何を教わるの』
郁子は思わず言い返した。
奈々は黙った。
その日の稽古は、いつもより早く終わった。
生徒たちは鏡越しに郁子の顔をうかがい、声をかけずに帰った。
床へ残った足跡を一人で拭きながら、郁子は自分が守りたかったものを考えた。
教室だと思っていた。
けれど本当は、何でも見本にできる先生という姿だった。
手本を示せなくなれば、これまで教えてきた言葉まで薄くなる気がした。
奈々に向けた言葉は、その恐れを隠すためのものだった。
閉室の知らせを出した夜、押し入れから最後の舞台で履いた靴が出てきた。
紐は何重にも絡み、引いても緩まない。
鋏の刃を当てると、右手が震えた。
修理店へ持っていこうと歩いているうち、知らない石畳へ出た。
◇
「紐を切れば、終われるのでしょうか」
店主が尋ねた。
「もう終わっています。身体ができないと言っているんです」
「郁子様は、何をできなければ踊れないのでしょう」
「跳ぶこと。回ること。舞台へ立つこと」
答えはすぐに出た。
店主は棚から、一本の細い木の棒を持ってきた。
傷だらけの指揮棒だった。
郁子の父が使っていた物だ。
父は中学校の音楽教師だった。
脳梗塞のあと、右半身が動きにくくなった。
「なぜ、これがここに」
郁子は指揮棒へ手を伸ばした。
退院後の父は、音楽を聴こうとしなかった。
郁子が練習する部屋にも来なくなった。
ある日、幼い奈々を連れて実家へ寄った。
奈々は振りを覚えられず、泣いた。
父は椅子に座ったまま、左手で机を叩いた。
一、二、三。
少し遅れて、四。
奈々はその不揃いな拍に合わせ、足を動かした。
「父は、もう指揮者ではありませんでした」
「あの日も、そうでしょうか」
郁子は指揮棒を握れなかった父の右手を思い出した。
そして、机を叩いていた左手を思い出した。
「以前と同じにできないなら、別のものです」
「別のものになってはいけませんか」
郁子は靴を見た。
舞台靴の踵には、何度も補修した跡があった。
革を替え、底を張り、紐を結び直してきた。
新品の頃と同じ部分は、もう半分も残っていない。
それでも郁子は、その靴を偽物だと思ったことはなかった。
以前と同じ自分へ戻れないことを、終わりと呼んでいた。
終わらせたかったのは教室ではない。
変わった身体を、生徒に見られる時間だった。
「できない姿を見せるのが、怖いんです」
店主は頷いた。
答えの代わりに、指揮棒を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
父が亡くなる少し前。
郁子は、なぜ音楽をやめたのかと尋ねた。
父は笑った。
『やめたつもりだったんだけどな』
左手の指が、膝の上で拍を刻んだ。
『身体の方が、勝手に続きを考えてる』
郁子は、その言葉を慰めだと思った。
だが父は、元に戻ったとは言わなかった。
できなくなったことを数えながら、それでも今の身体で音を探していた。
郁子が置いてきたのは、若い頃の踊りではなかった。
変わった身体と、踊りを結び直す心だった。
◇
舞台靴の紐が緩んだ。
郁子は結び目をほどき、鋏を鞄へ戻した。
手術を受けた。
退院後、教室へ奈々を呼んだ。
「あの時は、ごめんなさい」
奈々は、閉めないでほしいとは言わなかった。
代わりに、椅子を鏡の前へ置いた。
郁子は座ったまま、腕だけで短い振りを見せた。
奈々が同じように動く。
足が使えない分、指先の遅れがよく見えた。
「そこ、先生ならどう跳びますか」
奈々が尋ねた。
郁子は一瞬だけ言葉に詰まった。
以前なら、立ち上がって見せていた。
今は、床を指でなぞり、踏み切る位置と着地する場所を示した。
奈々が跳んだ。
一度目は軸が流れた。
二度目は、郁子の指が刻む不揃いな拍に合わせた。
着地の音が、軽く一つだけ響いた。
郁子は父が机を叩いた左手を思い出し、初めて今の自分の教え方を笑わずに受け取った。
教室は週に二日だけ続けることにした。
入口の案内には、以前と同じ教室名の下へ「身体に合わせて踊り方を探します」と書き足した。
書いた文字を見て、郁子自身が最初の生徒なのだと思った。
その考えは、不思議と嫌ではなかった。
跳ぶ見本が必要な時は、奈々が前へ出た。
郁子は、できない動きを隠さなかった。
できる動きまで、昔と同じに見せようとしなかった。
最後の舞台靴は、紐を外して箱へしまった。
空いた靴には戻らない。
それでも踊りは、別の身体へ渡っていった。
◇
帳簿。
預かり品 昔と同じ踊り
一本線を引く。
預かり品 変わった身体と踊りを結び直す心
所有者 水島郁子
返却 済




