第五十二話 消えない待ち番号
石原達夫が空になった箱を持ち帰ってから、一週間後。
閉店間際、背広姿の男性が番号札を持って現れた。
札には百二十七と印字されている。
電光掲示板が何番まで進んでも、彼の番号だけは呼ばれないという。
「待つのをやめた途端に呼ばれそうで、帰れないんです」
◇
榊原稔、四十七歳。
十八年前、弟の圭介と小さな会社を始めた。
稔が営業し、圭介が製品を作った。
二人は何度も衝突したが、仕事は少しずつ増えた。
五年前、海外企業から買収の話が来た。
稔は会社を大きくする機会だと考えた。
圭介は断った。
『俺たちが作りたかった会社じゃなくなる』
話し合いは怒鳴り合いになった。
圭介は会社を辞め、故郷へ戻った。
最後に、落ち着いたら連絡すると言った。
連絡は来なかった。
稔から送ったメールにも返事はない。
それでも電話番号を消さなかった。
買収は成立した。
会社は成長し、稔は役員になった。取材では、弟と始めた会社だと必ず話した。
圭介が読めば、いつか連絡をくれると思った。
先週、健康診断の待合室で百二十七番の札を受け取った。
百二十八番が呼ばれた。
百三十番も呼ばれた。
受付へ尋ねると、百二十七番は存在しないと言われた。
札を捨てても、翌朝ポケットへ戻った。
稔は圭介の故郷へ向かうことを考えた。
だが、連絡すると言ったのは弟だ。
駅へ歩いていたはずが、古い看板の前に立っていた。
◇
「呼ばれるまで待ちたいのですか」
店主が尋ねた。
「約束しましたから」
「稔様が、待つと約束されたのでしょうか」
稔は番号札を裏返した。
店主は棚から、金属製の小さな呼び鈴を取り出した。
会社を始めた頃、事務所の受付に置いていた物だった。
圭介は昼食を買って戻ると、誰もいない受付でふざけて鳴らした。
『社長、お客様です』
稔は奥から出て、『お待たせしました』と頭を下げた。
二人しかいない会社で、何度も繰り返した。
「待っていれば、弟さんの気持ちが変わるのでしょうか」
「私から行けば、あいつが戻る機会を奪います」
「会いに行くことと、戻るよう求めることは同じですか」
稔は唇を結んだ。
圭介を待っていた。
同時に、圭介から先に謝るのを待っていた。
自分から動けば、自分だけが悪かったと認めることになる気がした。
「もう会いたくないと言われるかもしれません」
「その答えを聞かずに待つ限り、会いたい稔様の気持ちも、ここに置いたままです」
店主は呼び鈴を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
会社を始める前の夜。
二人は何もない事務所の床へ座っていた。
稔が弱音を吐いた。
『客が来なかったらどうする』
圭介は呼び鈴を鳴らした。
『来ないなら、こっちから行けばいい』
翌日、二人は試作品を抱えて町中を歩いた。
待つことを知らなかったのではない。
待つだけでは届かない時、自分から扉を叩く勇気を、二人で持っていた。
稔が忘れていたのは、弟を待つ誠実さではなかった。
返事を選ぶ権利ごと相手へ渡すため、自分から訪ねる覚悟だった。
◇
番号札の百二十七が薄れた。
代わりに、小さく『窓口へ』と浮かんだ。
稔は故郷へ向かった。
圭介の家の前で、一度だけ呼び鈴を押した。
出てきた圭介は、以前より痩せていた。
稔は会社へ戻ってほしいとは言わなかった。
買収を急いだこと。
圭介の恐れを、変化を嫌う弱さだと決めつけたこと。
それでも自分は、会社を大きくした選択を後悔していないこと。
全部話した。
圭介は許すとも、また会おうとも言わなかった。
ただ、連絡すると言ったまま黙っていたことを謝った。
玄関先で二十分話し、稔は帰った。
二か月後、会社に小さな荷物が届いた。
圭介が作った新しい試作品だった。
手紙には、仕事を一緒にするつもりはない、と最初に書かれていた。
最後に、感想だけ聞かせてほしい、とあった。
稔はすぐに電話をかけなかった。
試作品を最後まで使い、自分の言葉で感想を書いた。
待つ時間は、ようやく相手を縛らないものになった。
◇
帳簿。
預かり品 弟からの連絡
一本線を引く。
預かり品 自分から答えを渡しに行く覚悟
所有者 榊原稔
返却 済
帳簿を閉じたあと、店主は長い間、奥の壁を見ていた。
声が聞こえるのを待つことと、扉を探すことは同じではない。
その夜、通路は現れなかった。
店主は初めて、小さな古い鍵を棚から下ろした。
鍵は冷たかった。
握っても、何も起こらなかった。
それでも店主は、元の棚へ戻さなかった。




