第四十四話 戻れない栞
植田浩二の笛が鳴ってから、五日後。
眼鏡をかけた女性が、文庫本を胸へ抱えて来店した。
栞を挟んでも、頁を閉じると最初へ戻る。
「続きを読みたいんです」
女性は言った。
「でも、同じところから先へ進めません」
◇
森本佳代、四十八歳。
十年以上、月に一度の読書会へ通っていた。
そこで知り合った晴美とは、帰りにいつも喫茶店へ寄った。
好みは正反対だった。
佳代は静かな物語が好きで。
晴美は結末の意外な本を好んだ。
感想が合わないほど、話は長く続いた。
二年前。
読書会で、家族を捨てた主人公の小説を読んだ。
佳代は主人公を身勝手だと言った。
晴美は、逃げなければ生きられない人もいると答えた。
話は小説から、現実の家族へ移った。
晴美は若い頃、幼い子を夫へ残して家を出たことがあると打ち明けた。
佳代は言った。
『私には理解できない』
晴美は黙った。
それきり読書会へ来なくなった。
佳代は何度か連絡した。
返事はなかった。
読書会の仲間へは『少し意見が合わなくて』とだけ答えた。
晴美の過去を守るためでもあった。
同時に、自分が傷つけた言葉を知られないためでもあった。
晴美が座っていた席には、新しい参加者が座った。
佳代は毎月、その椅子を見ないようにした。
自分は感想を言っただけだと思った。
分からないものを、分かるとは言えない。
それでも、二人で読んだ本を開けなくなった。
先月。
書店で、晴美が好きだった作家の新刊を見つけた。
読み始めると、ある頁から先へ進めない。
栞は必ず冒頭へ戻った。
交換しても同じだった。
書店へ相談に行く途中、佳代は知らない路地へ入った。
◇
「本が壊れているのでしょうか」
「私には分かりません」
店主は棚から、押し花の栞を持ってきた。
晴美が最初の読書会で佳代へくれたものだった。
「もう、色が残っていませんね」
「それでも、栞でしょうか」
「形は」
佳代は答えた。
あの日の会話を話すと、店主は尋ねた。
「理解できないと伝えたことを、後悔されていますか」
「嘘をつけばよかったとは思いません」
晴美の選択を肯定することはできなかった。
残された子どもの気持ちを考えると、今も胸がざわついた。
けれど理解できないことと、関係を閉じることの間には、いくつもの言葉があったはずだった。
「では、何が止まっているのでしょう」
佳代は小説を開いた。
晴美の過去を理解できない。
今も、それは変わらない。
けれど『理解できない』という言葉で、相手の話まで閉じた。
なぜ家を出たのか。
その後どう生きたのか。
晴美が何を聞いてほしかったのか。
何も尋ねなかった。
「分からないまま聞くことはできますか」
店主が言った。
「聞いても、賛成できないかもしれません」
「賛成するために聞くのでしょうか」
佳代は押し花の栞を受け取った。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
◇
最初の読書会。
二人は同じ物語へ正反対の感想を言った。
佳代が気まずく黙ると、晴美は笑った。
『同じ感想になるために読むんじゃないでしょう』
『じゃあ、何のため?』
『自分にない頁を見せてもらうため』
佳代は、その言葉が好きだった。
なのに現実の晴美を、一つの頁だけで閉じていた。
忘れていたのは、正しい理解ではない。
分からない相手の続きを待つ姿勢だった。
◇
栞は、読んでいた頁へ戻った。
その先の文章は、佳代が自分で読むしかなかった。
店を出たあと、佳代は公園で本を開いた。
何度も戻った一文を読み、その次の頁をめくった。
主人公の選択に納得はできなかった。
それでも物語は、佳代が下した判決の先へ続いていた。
◇
佳代は晴美へ手紙を書いた。
理解したとは書かなかった。
聞こうとしなかったことを謝った。
返事がなくても、読書会で待っているとだけ伝えた。
三か月後。
晴美から短い連絡が来た。
会う約束ではない。
佳代が読んでいた新刊への感想だった。
二人の感想は、また合わなかった。
佳代は反論を書く前に、なぜそう思ったのかと尋ねた。
返信は、すぐには来なかった。
佳代は催促せず、別の本を読み始めた。
数日後に届いた長い返事を、途中で結論を作らず最後まで読んだ。
晴美は、家を出たことを正しかったとは書かなかった。
今も後悔していること。
それでも、あの時は生き延びる方法がほかに見えなかったこと。
佳代に肯定してほしかったのではなく、友人として知っていてほしかったこと。
佳代は読み終えたあと、すぐ返事を書かなかった。
一晩考え、それでも分からない部分があると正直に書いた。
そのうえで、話してくれたことへの礼を伝えた。
違う感想のまま、二人の会話は次の頁へ進んだ。
◇
帳簿。
預かり品 友人を理解する答え
一本線を引く。
預かり品 分からない相手の続きを待つ姿勢
所有者 森本佳代
返却 済




