第三十七話 減らない砂時計
店の奥で紙を破るような音がしてから、一週間後。
雨の夕方。
夫婦が、一つの砂時計を挟むようにして来店した。
砂は上から落ち続けている。
けれど、上の砂は少しも減らない。
「いつ終わるのか、分からないんです」
妻が言った。
夫は、黙って砂時計を見ていた。
◇
秋山佳奈、三十五歳。
夫の直樹、三十七歳。
結婚して七年になる。
四年前から、不妊治療を続けていた。
最初は二人で説明会へ行った。
分からない言葉を帰りの電車で調べた。
次こそは、と笑い合った。
やがて生活は、病院の予定を中心に回り始めた。
薬を飲む時間。
診察の日。
採卵の日。
結果を聞く日。
佳奈は仕事の会議を断った。
直樹は出張を調整した。
旅行は延期した。
友人の出産祝いへ行った夜は、二人とも明るく振る舞った。
帰宅すると、別々の部屋で泣いた。
話せば相手を傷つける気がした。
話さなければ、同じ方向を向いているふりができた。
治療を始める前、二人は夕食のたびによく話した。
直樹の仕事の愚痴。
佳奈が電車で見かけた犬。
休日に食べたいもの。
今では食卓でも、次の予定ばかり確認した。
体調はどうか。
薬は足りるか。
休みは取れるか。
大切な話をしているはずなのに、二人のことを話す時間は減っていた。
三か月前。
医師から、次の治療法を提案された。
身体への負担も、費用も大きかった。
『少し考えます』
佳奈が答えた。
帰り道、直樹は言った。
『やるなら、早いほうがいいんだよな』
佳奈は『そうだね』と返した。
本当は、もう一度治療を受けるのが怖かった。
直樹は、佳奈が望むなら支えようと思った。
本当は、休んでほしいと思っていた。
互いを思いやる言葉が、互いの本音を隠した。
昨日。
診察の待ち時間を測るため、直樹が砂時計をひっくり返した。
砂は落ちるのに、減らなかった。
看護師へ見せようと廊下へ出た。
二人で角を曲がると、病院ではなく古い石畳があった。
◇
「時間を止めたいのでしょうか」
店主が尋ねた。
「逆です」
佳奈は答えた。
「急がないといけないんです」
「何をでしょう」
「決めることを」
「どちらへ進むか、です」
直樹が初めて口を開いた。
店主は棚から、二枚の紙切れを持ってきた。
動物園の入場券だった。
結婚して最初の春。
二人で出かけた日のものだ。
急な雨で、ほとんど見られずに帰った。
「どうして、これが忘れものなんですか」
佳奈が尋ねた。
「分かりません」
店主は言った。
「お二人は、何を忘れたと思われますか」
直樹は苦笑した。
「子どもが欲しいと思った理由でしょうか」
二人は家族を作りたかった。
その気持ちは、今も嘘ではない。
だからこそ、やめたいと言うことは相手の願いを捨てることに思えた。
「佳奈が続けたいなら、僕は続けたい」
「直樹が諦めたくないなら、私は頑張れる」
二人の言葉が重なった。
店主は、しばらく黙っていた。
「お二人のお気持ちは、どこにございますか」
佳奈は唇を噛んだ。
直樹も答えなかった。
相手のためという言葉の後ろへ、それぞれの気持ちを隠していた。
「休んだら、間に合わないかもしれません」
佳奈が言った。
「はい」
「続けても、叶わないかもしれない」
「はい」
店主は、どちらも否定しなかった。
「正しい選択は、どちらですか」
「私には分かりません」
佳奈の目に涙が溜まった。
答えが欲しかった。
誰かに、もう十分だと言ってほしかった。
あるいは、あと少し頑張れと言ってほしかった。
どちらを選んでも後悔するかもしれないから。
自分で決めるのが怖かった。
店主は二枚の入場券を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
佳奈と直樹は、一本ずつ端を持った。
◇
雨の動物園。
二人は屋根の下で、空の展示場を見ていた。
『何も見られなかったね』
佳奈が笑った。
『もう帰る?』
『せっかく来たし、雨が止むまで待とう』
二人で温かい飲み物を買った。
将来の話をした。
子どもがいたら。
どんな家に住むか。
名前は何にするか。
そして直樹が言った。
『予定と違っても、二人で相談できれば大丈夫だよ』
その日、雨は止まなかった。
動物は一頭も見られなかった。
それでも二人は、あの日を楽しかったと覚えていた。
望んだ場所へ着くことだけが、二人でいる理由ではなかった。
忘れていたのは、答えではない。
相手のためではなく、自分の言葉で立ち止まる時間だった。
◇
砂時計の上側から、砂が減り始めた。
最後の一粒が落ちるまで、二人は黙って見届けた。
「私は、少し休みたい」
佳奈が言った。
「僕も、休んでほしい」
直樹は答えた。
「でも、子どもを諦めたわけじゃない」
「僕も。休んだあとに、また違うことを言うかもしれない」
今の答えを、永遠の約束にはしなかった。
◇
二人は病院で、次の治療をすぐには受けないと伝えた。
医師から選択肢と期限を聞き、三か月後にもう一度相談することにした。
帰りに、延期していた旅行の予約をした。
子どもができるまで我慢していたことだった。
旅先を決める時も、二人の希望は合わなかった。
その夜は決めず、翌日に話し直した。
佳奈は海を見たいと言った。
直樹は山の温泉へ行きたいと言った。
結局、海の見える町に泊まり、翌日に低い山を歩くことにした。
どちらかが譲ったのではない。
二人とも、少しずつ予定を変えた。
旅行の朝、佳奈は薬を飲む時刻を確かめようとして、必要がないことに気づいた。
寂しさと安堵が同時に来た。
直樹へそう言うと、直樹も同じだと答えた。
急がなくても、話は終わらなかった。
◇
帳簿。
預かり品 決断の時間
一本線を引く。
預かり品 自分の言葉で立ち止まる時間
所有者 秋山佳奈・秋山直樹
返却 済




