第三十一話 鳴りやまない呼び鈴
白い糸のような線が鍵穴から消えて、四日後。
店主は、店の外で鳴る呼び鈴の音を聞いた。
扉を開けると、買い物袋を提げた女性が立っていた。
彼女の手の中で、小さな無線式の呼び鈴が鳴り続けている。
電池は抜かれていた。
「母が押しているはずなんです」
女性は息を切らして言った。
「でも、母はもう、家にはいません」
◇
長谷川由紀、五十一歳。
八年前から、母の澄江を自宅で介護してきた。
最初は買い物の付き添いだけだった。
やがて食事を刻み。
着替えを手伝い。
夜中に何度も起きるようになった。
枕元の呼び鈴は、由紀を呼ぶためのものだった。
一度鳴れば水。
二度なら体を起こす。
三度続けば、急いで部屋へ行く。
由紀はパートを辞めた。
兄は遠くに住み、費用を送ってくれた。
夫も家事をした。
それでも、母の声にいちばん早く気づくのは由紀だった。
施設へ入ったあとの母の部屋を、由紀は片づけられなかった。
枕元には水差しを置いたまま。
箪笥には季節外れの肌着が並んでいる。
夫が自分の本を置こうとすると、由紀はまだ早いと言った。
何に対して早いのかは、自分でも分からなかった。
部屋を空ければ、母を追い出したことになる。
そのまま残せば、いつでも介護へ戻れる。
由紀は毎朝カーテンを開け、誰もいない布団へ声をかけた。
半年前。
澄江は介護施設へ入った。
転倒が増え、家では安全を守れなくなったからだ。
施設は明るく、職員も親切だった。
澄江自身も、家より安心だと言った。
由紀は週に三度面会へ行った。
空いた時間で、仕事を探そうと思った。
夫と旅行にも行けると思った。
けれど家を出ようとすると、呼び鈴が鳴った。
母の部屋へ駆け込む。
空のベッドがある。
電池を抜いても、引き出しへしまっても。
玄関で靴を履けば鳴った。
由紀は買い物だけを急いで済ませた。
友人との昼食は断った。
面会のない日も、母を一人にしている気がした。
その朝。
施設から電話があった。
『お母様、今日は皆さんと体操をされていますよ』
安心した直後、呼び鈴が三度鳴った。
由紀は施設へ向かって走った。
けれど曲がった先に、知らない石畳があった。
◇
「母に何かあったんでしょうか」
「私には分かりません」
店主は答えた。
「施設へ電話を」
「さっきしました。元気だって」
「では、どなたを呼ぶ音なのでしょう」
「母に決まっています」
由紀が握る呼び鈴は、もう鳴っていなかった。
静かになるほうが、怖かった。
店主は棚から、青い布の巾着を持ってきた。
中には、二つの木の駒。
幼い由紀が母と遊んだ、すごろくの駒だった。
「どうして、これが」
由紀は片方をつまんだ。
底に、子どもの字で『ゆき』とある。
もう一つには『おかあさん』。
「母を家へ戻せということですか」
「そうは申しておりません」
「施設へ入れたことを、後悔していないと言ったら嘘になります」
「後悔があると、間違いなのでしょうか」
由紀は答えなかった。
母が転倒した夜。
由紀は救急車の中で、もう無理だと思った。
その気持ちを、今も恥じていた。
「施設へ預けた」と由紀が言うたび、夫は「お願いしたんだ」と言い直した。
由紀には、その違いが慰めにしか聞こえなかった。
任せたのではない。
自分ができなくなったから、代わってもらった。
そう考えるほうが、母を大切にしてきた証拠になる気がした。
「楽になったんです」
由紀は俯いた。
「母が入所した夜、朝まで眠れました。嬉しかった。娘なのに」
「眠ると、娘ではなくなりますか」
「母の世話をしない私は、何をすればいいのか分からないんです」
店主は二つの駒を並べた。
「由紀様は、お母様のお世話をする前、何でしたか」
「娘です」
「今は違うのでしょうか」
由紀の指が、子どもの字をなぞった。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
由紀は、小さく頷いた。
◇
八歳の雨の日。
母と二人ですごろくをした。
由紀は負けそうになるたび、駒を一つ先へ動かした。
澄江は気づいていた。
『由紀、ずるしたでしょう』
『してない』
『じゃあ、お母さんも三つ進もう』
『だめ』
二人で笑った。
次の記憶。
施設へ入る前夜。
澄江が言った。
『明日から、由紀は帰るのね』
『お母さんが家を出るんだよ』
『そうじゃなくて。私の世話をする人から、私の娘に帰るの』
由紀は聞き流した。
母を置いていく罪悪感に、その言葉を受け取る場所がなかった。
澄江は続けた。
『遊びに来て。用事じゃなくて』
呼び鈴が鳴る前から。
由紀は、呼ばれなければ母のもとへ行けないと思っていた。
必要とされる役目がなくなったあとも、ただ会いたい娘として訪ねてよかった。
◇
呼び鈴の赤い灯が消えた。
由紀はすごろくの駒を二つとも持ち帰った。
◇
次の面会日。
由紀は洗濯物を持っていかなかった。
職員へ体調を細かく聞く前に、巾着を開いた。
「一回だけ、やらない?」
澄江は由紀の駒を見て笑った。
「ずるしないならね」
二人で、途中まで遊んだ。
澄江は疲れて眠った。
由紀は職員へ任せ、起きるまで待たずに帰った。
帰宅した由紀は、母の部屋の水差しを洗った。
布団を畳み、窓を長く開けた。
部屋をなくすのではなく、母が泊まりたい日に使える部屋へ変えることにした。
夫は本を一冊だけ棚へ置いた。
由紀も、途中で読むのをやめていた旅行雑誌を隣へ置いた。
翌週。
由紀は友人と昼食を食べた。
食事の途中、鞄の中で音がした気がした。
由紀は一度だけ呼び鈴を確かめた。
鳴っていない。
すぐには安心できなかった。
それでも席へ戻り、冷めかけた茶を飲んだ。
◇
帳簿。
預かり品 介護の役目
一本線を引く。
預かり品 任せて娘に戻る心
所有者 長谷川由紀
返却 済




