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忘れもの預かり所  作者: 空乃真芽


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第27話 返ってくる回覧板

影を失った古い鍵は、その後、何の変化も見せなかった。


店主は理由を帳簿へ書かなかった。


分からないことを、分かった形で残したくなかった。


六日後の朝。


一枚の回覧板を抱えた老人が来店した。


「隣へ回しても、玄関に戻ってくるんです」


表紙には、町内清掃のお知らせ。


透明な板の下で、押印欄だけが空白だった。


◇


三宅信夫、七十二歳。


妻を亡くして、二年になる。


息子夫婦は遠方に暮らしていた。


毎週、電話をくれる。


信夫は毎回、元気だと答えた。


実際、一人で暮らせていた。


食事は作る。


洗濯もする。


病院へは自分で行く。


困ることはない。


ただ、一日に声を出すのが、テレビへ相槌を打つ時だけの日が増えた。


向かいの佐藤さんは、会うたびに声をかけた。


『お茶でもどうです?』


信夫は断った。


『用事もないのに悪いから』


隣の若い夫婦が、余った煮物を持ってきたこともある。


翌日、信夫は同じ値段ほどの菓子を返した。


借りを作りたくなかった。


世話を焼かれる老人になりたくなかった。


妻がいた頃は、玄関先の立ち話を待たされるのが嫌だった。


今は買い物から帰っても、靴を脱ぐ音しか迎えない。


それでも信夫は、静かなほうが気楽だと思うことにした。


冷蔵庫には一人分より少し多い煮物が残り、新聞の地域欄には赤い丸が増えた。


誰かに話そうと思って覚えたことだった。


だが、話す相手を作るところまでは考えなかった。


先週。


町内会の回覧板が届いた。


判を押し、隣家の郵便受けへ入れた。


翌朝。


回覧板は、信夫の玄関へ戻っていた。


もう一度入れた。


その日の夕方には、食卓の上に置かれていた。


隣人へ尋ねると。


『回覧板? 届いてませんよ』


信夫の判も消えていた。


町内会長の家へ直接持っていこうと歩き出した。


けれど曲がった先にあったのは、知らない石畳だった。


◇


「ここで預かってもらえませんか」


信夫は回覧板を差し出した。


「町内会の物を、私が預かってもよろしいのでしょうか」


「どうせ誰にも届かない」


「信夫様には、届いています」


「私のところで止まるんです」


店主は押印欄を見た。


「止めておきたいのでしょうか」


信夫は眉を寄せた。


「回したいから困っているんです」


「人との間を、でしょうか」


「何の話です」


店主は棚から、縁の欠けた湯呑みを持ってきた。


薄い緑色。


底に、小さな梅の絵がある。


信夫の家にあった客用の湯呑みだった。


妻が亡くなったあと、処分したはずのもの。


「一つだけ残ってたのか」


信夫は呟いた。


妻は、人を家へ招くのが好きだった。


近所の人が来れば、急須いっぱいに茶を淹れた。


信夫は茶の間を通りながら、よく言った。


『用もないのに、よく話すことがあるな』


妻は笑った。


『用がないから、お茶なのよ』


「私は妻みたいにはできません」


「同じようにする必要があるのでしょうか」


「話すこともない」


「話すことがなければ、会ってはいけませんか?」


信夫は回覧板の角を指で押した。


「寂しい老人だと思われたくないんです」


「寂しくはありませんか」


「……困ってはいません」


「同じことでしょうか」


店主は答えを求めなかった。


欠けた湯呑みを、信夫の前へ置く。


「触れたら、妻が戻るんですか」


「戻りません」


店主は静かに答えた。


「では、何が戻る」


「私にも分かりません」


信夫は苦笑した。


「頼りない店だ」


「申し訳ありません」


その返事が、妻の言い方に少し似ていた。


信夫は湯呑みへ手を伸ばす。


「本当に、思い出してもよろしいですか?」


「はい」


◇


妻の葬儀から、一週間後。


佐藤さんが訪ねてきた。


手には、何も持っていない。


『何か必要な物、あります?』


『ないです』


『食べられてます?』


『はい』


会話はそこで終わった。


佐藤さんは帰りかけた。


信夫は呼び止めた。


『お茶でも、飲みますか』


佐藤さんは振り返った。


『いいんですか』


『客用の茶葉が余ってるから』


二人で向かい合った。


信夫は茶を濃く淹れすぎた。


話題もなかった。


しばらく、湯呑みを置く音だけがした。


やがて佐藤さんが言った。


『奥さん、うちの梅が咲くの、毎年楽しみにしてくれてたんですよ』


信夫は知らなかった。


妻の話を、一時間した。


佐藤さんが帰る時。


『また、用がなくても来ていいですか』


信夫は答えた。


『私も、そちらへ行っていいですか』


その約束を。


信夫は一度も使わなかった。


誰かを訪ねたくなるたび。


用がないことを理由に、忘れたふりをした。


◇


回覧板の押印欄に、信夫の名字が戻っていた。


「私が忘れたのは、約束ですか」


「そうかもしれません」


「でも、二年も経った」


「二年経つと、訪ねてはいけませんか?」


信夫は首を横へ振った。


◇


店を出たあと。


信夫は回覧板を隣家へ届けた。


今度は戻ってこなかった。


それから向かいの家へ行った。


呼び鈴を押す。


佐藤さんが驚いた顔で出てきた。


信夫は用意していた言い訳を忘れた。


「用はないんですが」


佐藤さんは笑った。


「お茶、ありますよ」


茶の間へ通されると、窓辺の梅はもう葉ばかりだった。


信夫は花の時期を見逃したことを詫びた。


佐藤さんは「来年も咲きます」と言い、濃すぎない茶を淹れた。


二人は町内清掃の集合時間と、最近値上がりした豆腐の話をした。


どちらも、訪ねるほどの用事ではなかった。


帰る頃には、次に話せることが二つ増えていた。


信夫は毎日通うようにはならなかった。


一人でいたい日も多かった。


ただ、町内清掃には参加した。


隣の夫婦から煮物をもらった日は、すぐ同じ値段の物を返さず。


空になった器へ「おいしかった」と書いた紙を入れた。


借りは残った。


その代わり、次に会う理由も残った。


◇


帳簿。


預かり品  近所づきあい


一本線を引く。


預かり品  用がなくても訪ねる心


所有者   三宅信夫


返却    済

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