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忘れもの預かり所  作者: 空乃真芽


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第二十五話 満ちない貯金箱

大橋拓海の目覚まし時計が静かになってから、一週間後。


買い物袋を両手へ提げた女性が来店した。


袋の中には、見切り品のシールが貼られた食品が詰まっている。


女性は、陶器の貯金箱をカウンターへ置いた。


「いっぱいになるはずなんです」


底から、硬貨の音がした。


けれど投入口を覗くと、中は真っ暗で空だった。


◇


川瀬文子、六十九歳。


夫を亡くしてから、五年。


一人で暮らしている。


年金と、夫が残した貯金があった。


家のローンは終わっている。


息子からも、困ったら言ってほしいと言われていた。


文子は困っていなかった。


朝は、前日の味噌汁を温める。


昼は食パンを一枚。


夕方、スーパーの値引きが始まる時間に買い物へ行く。


照明は一部屋だけ。


冷房は三十度を超えるまでつけない。


穴の開いた靴下は縫った。


贅沢が嫌いなのだと、自分では思っていた。


先月。


七十歳の誕生日に、息子夫婦が温泉旅行を贈ると言った。


文子は断った。


『そんなお金があるなら、孫のために貯めなさい』


息子は困った顔をした。


『母さんのために使いたいんだよ』


『私は何もいらない』


本当は。


旅行の写真を見た時、行きたいと思った。


窓の大きな部屋。


季節の料理。


山を見ながら入る露天風呂。


けれど値段を見た瞬間、胸が苦しくなった。


その夜。


文子は押し入れから、豚の貯金箱を出した。


子どもの頃から使っているものだった。


硬貨を一枚入れる。


音はする。


振れば重い。


それなのに、底の蓋を開けても何も出ない。


翌日も入れた。


十枚。


二十枚。


貯金箱は重くなるのに、決して満ちなかった。


交番へ相談する話ではない。


骨董品店を探して歩くうち。


見覚えのない路地へ入った。


◇


「壊して、中を確かめてください」


文子は言った。


「壊してもよろしいのですか」


「古い物ですから」


「大切ではありませんか?」


「貯金箱は、お金を貯めるための道具でしょう。出せないなら意味がありません」


店主は貯金箱を持ち上げた。


ずしりと重い。


「何のために、貯めておられますか」


「何かあった時のためです」


「何があれば、使えますか?」


「病気とか。家が壊れた時とか」


「文子様が行きたい場所へ行くことは、入りませんか」


「そんなことに使ったら、減るでしょう」


言ってから。


文子は、自分の答えのおかしさに気づいた。


お金は、使えば減る。


減らさないために貯めている。


それなら、いつ満ちたと言えるのだろう。


店主は棚から、小さな布袋を持ってきた。


口を赤い紐で結んである。


中には、十円玉が三枚。


幼い文子が、母から持たされた小銭入れだった。


「遠足の日の」


文子は呟いた。


「おやつを買わなかったんです」


三十円まで買ってよいと言われた。


友達は飴や煎餅を選んだ。


文子は何も買わなかった。


家へ帰り、母へ十円玉を返した。


母は文子を抱きしめた。


『ごめんね』


なぜ謝られたのか、分からなかった。


「うちは、貧しかったんです」


父は病気がちだった。


母は内職をしていた。


給食費の封筒を、すぐ出せない月もあった。


文子は欲しい物を言わない子どもになった。


褒められた。


『文子は我慢ができて偉い』


その言葉が、家族を助ける方法だった。


「困らないようにしてきたんです」


「はい」


「夫も、よく働いてくれました。息子にも迷惑をかけていません」


「それでも、まだ足りませんか?」


文子は答えられない。


数字なら足りている。


通帳を何度も確認した。


けれど胸の中では。


十円玉が、今も足りなかった。


「これを思い出したら、無駄遣いをするようになりますか」


「私には分かりません」


「困るのは嫌です」


「はい」


「でも、何も欲しくないまま終わるのも、少し嫌です」


店主は布袋を差し出した。


「本当に、思い出してもよろしいですか?」


文子は赤い紐をほどいた。


◇


遠足の朝。


母は、十円玉を三枚くれた。


『全部使っていいの?』


『文子のお金だからね』


母は笑った。


けれど指には、内職でできた傷があった。


文子は店の前で、飴を手に取った。


苺味。


赤い包み紙がきれいだった。


買おうとした。


母の指を思い出した。


棚へ戻した。


帰宅して十円玉を返すと、母は泣いた。


『お母さんは、文子に我慢してほしくて渡したんじゃないよ』


『でも、お金ないでしょう』


『ないけど、文子が嬉しいものを買うためのお金だったの』


母は三十円を受け取らなかった。


文子と一緒に駄菓子屋へ戻った。


苺味の飴は売り切れていた。


代わりに、二人で一つのラムネを買った。


店先で半分ずつ食べた。


貧しかった。


それでも、使ってよいお金はあった。


文子が忘れていたのは。


足りなかった記憶ではない。


足りない中でも、自分の喜びを受け取ってよいと言われたことだった。


◇


貯金箱の底から、硬貨が落ちた。


一枚。


また一枚。


数え切れないほどではない。


文子が入れた分だけだった。


「満ちてはいませんね」


文子が言う。


「はい」


「でも、空でもない」


店主は頷いた。


◇


文子は息子へ電話した。


「旅行、まだ間に合う?」


息子は大きな声で喜んだ。


文子は慌てて続けた。


「全部出してもらうのは落ち着かないから、半分は私が払う」


『贈らせてよ』


「じゃあ、夕飯の飲み物は私が出す」


二人でしばらく押し問答をした。


最後には、宿代を息子が、交通費を文子が払うことになった。


旅行の日。


文子は値段を見て、一番安い料理を選びかけた。


それから、食べたかった栗の菓子を一つ買った。


家へ帰ったあとも、節約は続けた。


安い時間に買い物へ行き。


靴下の穴も縫った。


ただ、暑い日は冷房をつけた。


孫と食べたい果物を、自分から一つ選んだ。


通帳の数字は少し減った。


文子の暮らしまで、減ったわけではなかった。


◇


帳簿。


預かり品  蓄え


一本線を引く。


預かり品  喜びを受け取ってよい安心


所有者   川瀬文子


返却    済

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