第二十一話 届かない拍手
柴田亮介が店を訪れてから、一週間後。
青いファイルを抱えた女性が来店した。
扉が閉まると。
店のどこかで、拍手の音がした。
けれど女性には聞こえていないようだった。
「この資料、作った人の名前が消えたんです」
表紙の作成者欄は、白紙だった。
◇
宮本玲奈、三十三歳。
広告会社で企画を担当している。
半年前から、大きな案件の提案を準備してきた。
市場を調べ。
顧客へ話を聞き。
何度も資料を作り直した。
チームの責任者は、先輩の三浦だった。
三浦は人前で話すのがうまい。
玲奈は数字をまとめるのが得意だった。
会議で言葉に詰まった同僚へ、玲奈はいつも資料を一枚追加した。
誰かの案が通れば、自分のことのように嬉しかった。
目立たなくても、仕事は見ている人がいる。
そう信じていた。
役割分担だと思っていた。
提案は採用された。
会議室に拍手が起きた。
役員は三浦へ言った。
『さすがだな』
三浦は笑って頭を下げた。
『チームで頑張りました』
玲奈の名前は出なかった。
会議のあと、三浦は次々と握手を求められた。
玲奈は使い終えた資料を集め、テーブルの水滴を拭いた。
役員の一人が玲奈へファイルを渡しながら言った。
『三浦君は、いい部下を持ったな』
褒められたはずなのに、胸の奥が冷えた。
同僚が小声で言った。
『宮本さんの案なのにね』
玲奈は笑った。
『採用されたなら、それでいいよ』
そう言うのが大人だと思った。
褒めてほしいと言えば。
幼く見える。
手柄を欲しがれば。
感じが悪い。
翌朝。
保存していたすべての資料から、作成者名が消えていた。
直しても、また白紙になる。
社内のシステム担当へ見せに行く途中。
エレベーターを降りると、知らない路地だった。
◇
「名前を戻してほしいんです」
玲奈はファイルを置いた。
「資料へ、でしょうか」
「他にどこへ戻すんですか」
店主は棚から、小さな金色の星を持ってきた。
厚紙へ、金紙を貼っただけのもの。
裏には。
『れなちゃん すごい』
弟の字で書かれている。
玲奈が中学生の時。
夏休みの工作で、弟の貯金箱を手伝った。
ほとんど玲奈が作った。
学校では弟が賞を取った。
弟は帰宅して、賞状より先にこの星をくれた。
『お姉ちゃんが作ったから』
玲奈は怒った。
『自分で作ったって言いなさい』
弟のためだと思っていた。
けれど本当は。
自分の仕事が見えなくなることが、悲しかった。
「私は、目立ちたいわけじゃありません」
「はい」
「評価されるために仕事をしたんでもない」
「評価されたいと思うことと、評価だけのために働くことは、同じでしょうか」
玲奈は眉を寄せた。
「自分から言わなければ伝わらないことは分かっています。でも、言った瞬間に、全部が手柄目当てに見えそうで」
「伝えずにいると、玲奈様にはどう見えますか」
「私がやった仕事じゃなかったみたいに」
口にした途端、店の拍手が近くなった。
一人分ではない。
大小の手が、ばらばらの速さで鳴っていた。
「それでも、受け取りたいものがありますか?」
玲奈は金色の星を見つめた。
拍手の音が、もう一度した。
今度は、玲奈にも聞こえた。
「戻れば、先輩から仕事を取り上げることになりますか」
「戻ったあと、どう伝えるかは玲奈様が選べます」
店主が星を差し出す。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
玲奈は受け取った。
◇
提案前日の会議室。
玲奈は一人で数字を直している。
三浦が缶コーヒーを置いた。
『この企画、宮本がいなかったら形にならなかった』
『じゃあ、明日ちゃんと言ってください』
冗談のつもりで答えた。
三浦も笑った。
『もちろん』
当日の朝。
三浦は緊張していた。
玲奈は発表用のメモを整え、想定質問への答えも渡した。
『助かる。終わったらちゃんと紹介するから』
もう一度、三浦は約束した。
会議が成功した時、三浦も興奮していたのだろう。
忘れたのかもしれない。
悪意がなければ、傷ついたと言ってはいけない。
玲奈はそう思い、三浦の事情まで代わりに説明して、自分の気持ちを閉じ込めた。
玲奈は、その約束を忘れたふりをした。
傷つかなかったことにするために。
自分の仕事まで、小さく扱った。
拍手を独り占めしたいのではない。
自分の分を、なかったことにされたくなかった。
◇
会社へ戻った玲奈は、三浦へ言った。
「今回の実績資料に、担当範囲を記載したいです」
声は震えた。
三浦は一度、黙った。
それから謝った。
言い訳もした。
『チームでやったとは言った』
三浦がそう言った時、玲奈は引き下がりそうになった。
けれど、金色の星を握り直した。
「チームという言葉の中に入れただけでは、担当した事実が残りません」
玲奈は、企画立案、調査、資料作成の経緯を一覧にして見せた。
自分だけでなく、デザインを直した後輩や、顧客調査を手伝った同僚の名も書いた。
話は、きれいには終わらなかった。
それでも玲奈は、笑って済ませなかった。
次の全体会議。
資料の最後には、チーム全員の名前と担当が載った。
玲奈は、自分の名前を指でなぞった。
会議のあと、後輩が声をかけた。
「担当を書いてもらえて、嬉しかったです」
玲奈は礼を言った。
拍手は聞こえなかった。
けれど、自分の仕事がそこにあったことは、もう疑わなかった。
◇
帳簿。
預かり品 拍手
一本線を引く。
預かり品 自分の仕事を誇る心
所有者 宮本玲奈
返却 済




