第二話 嫌いだったはずのカレー
宗一郎が妻の声を受け取ってから、四日後。
美咲は、母が作るカレーがあまり好きではなかった。
少し甘くて。
玉ねぎは、形がなくなるまで煮込まれていて。
じゃがいもは、いつも妙に大きかった。
子どもの頃の美咲は、それが嫌だった。
「またカレー?」
食卓に並んだ皿を見て、美咲は何度そう言っただろう。
母は怒るでもなく、決まって笑った。
「いいじゃない。カレー好きでしょ?」
「好きだけど、お母さんのは甘いんだもん」
「子どもが食べるんだから甘くていいの」
「もう子どもじゃないよ」
「十分子どもです」
そんなやり取りを何度も繰り返した。
友達の家で食べたカレーは、もっと辛かった。
具も小さくて、少し大人っぽい味がした。
それが妙に羨ましかった。
だから美咲は母に言った。
「うちも普通のカレーにしてよ」
「普通って何よ」
「もっと辛いやつ」
「そのうち食べられるようになったらね」
「今でも食べられるもん」
「じゃあ次は辛くしようか」
そう言いながら。
次に出てきたカレーも、やっぱり甘かった。
そして美咲はまた文句を言った。
――結局、一度も。
「おいしい」
とは、一度も言わなかった。
◇
母が亡くなって、八か月が経った。
三十二歳になった美咲は、仕事帰りのスーパーで足を止めていた。
目の前には、棚いっぱいに並んだカレールー。
甘口。
中辛。
辛口。
スパイスを強調したもの。
野菜の甘みを売りにしたもの。
見慣れた箱が、いくつも並んでいる。
美咲はその中から一つを手に取った。
「……これだったかな」
箱を裏返す。
違う気がする。
別の商品を手に取る。
「こっち?」
それも違う。
そもそも、母が何のルーを使っていたのか覚えていなかった。
昔は台所なんてほとんど見ていなかったし、母が料理している横で手伝った記憶もほとんどない。
料理は母がするもの。
食べるのは自分。
それが当たり前だった。
「……どうでもいいのに」
美咲は小さく呟いた。
カレーなんて、どれを使ってもそれなりにおいしい。
母の味を再現する必要なんてない。
分かっている。
それでも最近、どうしても食べたくなる。
母のカレーを。
八か月前。
母は病気で亡くなった。
入院した時には、すでに長くないと聞かされていた。
それでも半年くらいはあるのだと思っていた。
あるいは一年。
勝手にそう考えていた。
実際には、入院から四か月も経たなかった。
あっけないほど早かった。
葬儀。
役所の手続き。
実家の片付け。
親戚への連絡。
やることが多すぎて、泣く暇さえなかった。
ようやく全部が終わった頃には、母のいない生活が始まっていた。
そして不思議なことに。
その頃から、カレーが食べたくなった。
最初は近所の店で食べた。
違った。
次はレトルトを買った。
違った。
自分でも作ってみた。
やっぱり違った。
味が不味いわけではない。
むしろ、店のカレーの方がずっと本格的でおいしかった。
それでも何かが足りない。
母が作っていた、あの甘いカレー。
あれを食べたい。
けれど。
「レシピなんて、聞いたことなかったな」
手にしていたルーを棚へ戻す。
結局、何も買わずにその場を離れた。
◇
自宅へ帰ると、部屋は静かだった。
美咲はバッグを床へ置き、冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水。
卵。
昨日買った総菜。
半分残ったキャベツ。
「……何食べよう」
答えはない。
スマートフォンを取り出し、宅配アプリを開く。
ピザ。
ラーメン。
丼。
そして。
カレー。
指が止まる。
まただ。
「もういいって」
自分に言い聞かせるように画面を閉じた。
その時。
棚の上に置いてある小さな箱が目に入った。
母の遺品だった。
実家を片付けた時、自分が持ち帰ったもの。
写真。
古い手帳。
使っていなかった財布。
何となく捨てられなかったものばかりだ。
美咲は床へ座り、箱を開けた。
写真を一枚ずつ眺める。
旅行へ行った時のもの。
成人式。
中学校の入学式。
ずっと昔の運動会。
どの写真にも母がいる。
いつも笑っている。
「……若いなぁ」
思わず笑った。
一枚だけ、台所で撮られた写真があった。
母が鍋をかき混ぜている。
カメラを向けられていることに気付いたのか、片手で顔を隠そうとしていた。
鍋の中までは見えない。
でも、なぜか分かった。
「カレーだ」
その瞬間。
鼻の奥に、懐かしい匂いが蘇ったような気がした。
玉ねぎの甘い匂い。
煮込まれたじゃがいも。
炊きたてのご飯。
食卓。
「……食べたい」
今度は、はっきり口に出した。
母のカレーが食べたい。
美咲は写真をしばらく眺めたあと、箱へ戻した。
そして翌日。
仕事が終わると、またスーパーへ寄った。
◇
それから一週間。
美咲は毎日のようにカレーを作った。
最初は甘口。
次は中辛。
蜂蜜を入れてみた。
りんごをすりおろしてみた。
牛乳。
チョコレート。
インターネットにある「家庭の味」を片っ端から試した。
結果。
「……違う」
全部違った。
八回目のカレーを一口食べて、美咲はスプーンを置いた。
おいしい。
でも違う。
「そもそも何が違うのよ」
自分でも分からなくなってきた。
味なのか。
匂いなのか。
具材なのか。
母が何か特別なものを入れていたのか。
もしかすると、そもそも記憶の中で美化しているだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、残ったカレーを保存容器へ移した。
冷凍庫には、すでに三種類のカレーが入っている。
「しばらくカレー見たくない……」
そう呟いて。
自分で少し笑った。
子どもの頃と同じだった。
◇
その日の帰りだった。
残業で少し遅くなり、美咲はいつもとは違う道を歩いていた。
大通りを避け、住宅街の中を抜ける。
近道のつもりだった。
「……あれ?」
気付けば、見覚えのない場所にいた。
細い路地。
古い石畳。
街灯の代わりに、古びたランタンが淡い光を落としている。
こんな場所が近所にあっただろうか。
スマートフォンを取り出す。
地図を開く。
自分の現在地は表示されている。
けれど、目の前の道だけがない。
「何これ」
少し気味が悪くなった。
引き返そうと振り向く。
その時だった。
路地の奥に、一軒の店が見えた。
小さな木造の建物。
窓から、暖かな光が漏れている。
入口には看板。
そこに書かれていた文字を見て、美咲は足を止めた。
『忘れもの預かり所』
「……忘れもの?」
妙な名前だった。
落とし物センターだろうか。
こんな場所に?
そう思いながらも、なぜか目を離せなかった。
そして。
カラン――。
店の中から、ベルの音が聞こえた。
「……誰かいる」
少なくとも無人ではないらしい。
道を聞くだけ。
そう自分に言い聞かせ、美咲は扉を開いた。
◇
店内には、不思議なほど静かな空気が流れていた。
壁一面に並ぶ棚。
古い本。
手紙。
写真。
懐中時計。
オルゴール。
用途の分からない小瓶。
骨董品店のようにも見える。
けれど、どこにも値札がない。
「いらっしゃいませ」
声に振り向く。
カウンターの向こうに、女性が立っていた。
若い。
美咲と同じくらいにも見える。
けれど、その穏やかな佇まいには、妙な落ち着きがあった。
「あの……」
美咲は軽く頭を下げた。
「すみません。道を聞きたくて」
「はい」
「ここって、どこなんでしょう」
女性は少しだけ首を傾げる。
「忘れもの預かり所です」
「いや、それは看板で見たんですけど」
「そうでしたか」
真面目なのか冗談なのか分からない。
美咲は困ったように笑った。
「この店、何のお店なんですか?」
「忘れものをお預かりしています」
「財布とか?」
「財布は、あまり来ませんね」
「……じゃあ何を?」
女性は答える代わりに尋ねた。
「今日は、何をお探しですか?」
「私?」
「はい」
「別に何も……」
そこまで言って。
美咲は黙った。
なぜか。
母の写真が頭に浮かんだ。
鍋をかき混ぜながら、カメラから顔を隠していた母。
「……カレー」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
店主は何も言わずに待っている。
「母のカレーを、探してます」
口にすると、急に恥ずかしくなった。
「何言ってるんでしょうね、私」
苦笑する。
「忘れものって、そういう意味じゃないですよね」
けれど。
店主は笑わなかった。
「少々お待ちください」
「え?」
店主はそのまま棚の奥へ消えていった。
美咲は呆然とその背中を見送る。
「……あるの?」
返事はない。
数分後。
店主が戻ってきた。
持っているのは、一枚の小さな紙だった。
少し黄ばんだ、手書きのカード。
それをカウンターへ置く。
「こちらです」
美咲は紙を見る。
そこには、たった数行。
玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
豚肉。
カレールー。
「……え?」
裏を見る。
何もない。
「これだけ?」
「はい」
「いや、これじゃ普通のカレーですよね」
「そうですね」
「隠し味とかは?」
「書いてありません」
「分量は?」
「ありません」
美咲は思わず笑った。
「これ、レシピじゃないじゃないですか」
「はい」
店主は静かに頷いた。
「レシピではありません」
「じゃあ何なんですか?」
「美咲様が忘れてしまったものです」
美咲の笑顔が止まった。
「……私の名前」
「はい」
「言いましたっけ?」
「いいえ」
店主はそれ以上説明しなかった。
美咲は紙へ視線を戻す。
何の変哲もない材料。
見覚えがあるような。
ないような。
「これを持って帰ればいいんですか?」
「その前に、一つだけ」
店主が静かに言う。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「美咲様は、本当にカレーの味を探していらっしゃるのでしょうか」
美咲は眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「忘れものは、本人が思っている形とは違うことがあります」
「……」
「味を探していたはずなのに、そこに残されているのが味ではないことも」
美咲は紙を見る。
「これを見れば分かるんですか?」
「おそらく」
「おそらく?」
「忘れものが何であるかを決めるのは、私ではありませんから」
変な店だ。
変な店主だ。
そう思う。
なのに。
帰ろうとは思わなかった。
「……どうすればいいですか?」
「お持ち帰りください」
「それだけ?」
「はい」
店主は少し微笑んだ。
「そして、もう一度作ってみてください」
店主は材料の紙を、美咲の前へ差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
美咲は少し迷ってから、紙を受け取った。
「はい」
◇
翌日。
美咲は紙に書かれていた材料を買った。
特別なものは一つもない。
玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
豚肉。
そして、何となく母が使っていた気がする甘口のルー。
「何回作れば気が済むんだろ」
そう言いながら、包丁を握る。
玉ねぎを切る。
にんじん。
じゃがいも。
豚肉。
鍋で炒める。
水を入れる。
煮込む。
ルーを溶かす。
それだけ。
今まで作ったものより、ずっと適当だった。
隠し味もない。
工夫もない。
完成したカレーを皿へ盛る。
「……普通」
見た目も普通だった。
スプーンを持つ。
一口。
「……違う」
やっぱり違う。
母の味ではない。
「何なのよ」
期待していた分、腹が立った。
あの店は何だったのか。
くだらない紙を渡されただけではないか。
もう一口。
その時。
ふいに。
記憶が蘇った。
◇
『どうしたの?』
小学生の自分が、ランドセルを背負ったまま玄関に立っている。
泣いていた。
学校で友達と喧嘩した日。
『別に』
『そう』
母は、それ以上聞かなかった。
その日の夕食はカレーだった。
『またカレー?』
『またカレーです』
『昨日も似たようなの食べた』
『昨日は肉じゃがです』
『じゃがいも入ってるじゃん』
『じゃあ、食べなくていいよ』
『食べる』
母は笑った。
『お腹いっぱいになったら、ちょっと元気になるから』
次の記憶。
高校受験。
第一志望の模試で、ひどい判定を取った日。
『もう無理』
机へ突っ伏した美咲に、母は言った。
『カレーできたよ』
『今いらない』
『じゃあ、あとで温める』
『……』
『でも、食べてから落ち込んだ方がいいよ』
『何それ』
『お腹空いてると、必要以上に人生が嫌になるから』
また。
別の記憶。
大学生になって、初めて失恋した日。
何も言わずに実家へ帰った。
母は何も聞かなかった。
ただ。
『カレーあるけど食べる?』
それだけ。
『……食べる』
『ご飯多め?』
『多め』
『はいはい』
そして。
社会人一年目。
仕事で大きな失敗をして、泣きながら電話をした夜。
『もう辞めたい』
『辞めてもいいんじゃない?』
『簡単に言わないでよ』
『じゃあ辞めなくてもいいんじゃない?』
『どっちなの』
『美咲が決めればいいよ』
『……』
『今度帰ってきたらカレー作るから』
『またカレー?』
『嫌なら作らないけど』
『……作って』
いつも。
そうだった。
悲しい日。
悔しい日。
うまくいかなかった日。
母は何か特別な言葉をくれたわけではない。
正しい答えを教えてくれたわけでもない。
ただ、カレーを作っていた。
温かいご飯と。
甘いカレー。
そして決まって言う。
『とりあえず、食べなさい』
美咲の手から、スプーンが止まった。
「……そうか」
ぽつりと声が出る。
探していたのは。
味じゃなかった。
甘さでも。
隠し味でも。
ルーの種類でもない。
母がそこにいること。
家へ帰れば食事があること。
何も聞かず、自分が話すまで待ってくれること。
あのカレーを食べていた時間そのものを。
探していた。
頬を涙が伝う。
「……ずるいよ」
美咲は泣きながら笑った。
「そんなの、再現できるわけないじゃん」
母がいなければ。
同じ味にはならない。
どれだけ正確なレシピがあっても。
どれだけ同じ材料を揃えても。
きっと無理なのだ。
美咲は目元を拭った。
そして、もう一口食べる。
「……やっぱり違う」
少し辛い。
じゃがいもも小さく切りすぎた。
母のものとは全然違う。
でも。
「おいしい」
初めて。
その言葉を口にした。
母のカレーではない。
自分が作ったカレーに。
「……おいしいよ、お母さん」
誰もいない食卓で。
美咲はもう一口食べた。
そしてまた一口。
気付けば、一皿全部なくなっていた。
◇
翌日の夕方。
美咲は母の写真をテーブルの向かい側へ置いた。
鍋には、昨日作ったカレー。
一晩置いたせいか、少しだけ味が馴染んでいる。
皿へ盛る。
自分の分。
そして。
小さな皿へ、ほんの少しだけ。
「意味ないけどね」
そう言って、母の写真の前へ置いた。
「いただきます」
一口。
「やっぱり、お母さんのとは違う」
写真の中の母は笑っている。
「でもさ」
美咲も笑った。
「これでいいかな」
少し考えて。
「私のカレーってことで」
部屋の中に返事はない。
ただ、湯気だけがゆっくりと立ち上っている。
それを見ながら、美咲はふと思った。
もし母がここにいたら。
きっと一口食べて。
『じゃがいも、小さすぎない?』
と言う。
「うるさいなぁ」
思わず口にして。
美咲は一人で笑った。
もう一杯。
おかわりをよそった。
◇
同じ頃。
忘れもの預かり所では、店主が一冊の帳簿を開いていた。
万年筆の先をインクへ浸し、静かに文字を記していく。
預かり品 味
そこまで書いて。
店主の手が止まった。
「……味?」
少し考える。
そして、その文字へ一本線を引いた。
書き直す。
預かり品 居場所
店主はしばらくその言葉を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
所有者 美咲
返却 済
帳簿を閉じようとした時。
ページの間から、一枚の紙が床へ落ちた。
「?」
拾い上げる。
何も書かれていない。
ただの古い紙。
そう思った。
けれど、裏返すと。
小さな文字が一つだけ記されていた。
名前
店主の表情が、ほんの少し曇る。
「……また」
どこかで見た。
そんな気がする。
けれど、思い出せない。
紙へ指を伸ばす。
あと少しで触れる、その時。
『名前』の文字は、紙へ吸い込まれるように消えた。
店主は何も書かれていない紙を、帳簿へ戻した。




