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忘れもの預かり所  作者: 空乃真芽


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第十七話 切れない赤い糸

黒田和彦の名刺を返してから、四日後。


若い女性が、右手へ赤い糸を巻きつけて来店した。


細い糸は路地の向こうまで伸びている。


「これ、切っても戻るんです」


女性は疲れた顔で言った。


◇


井上麻衣、二十八歳。


三か月前、婚約を解消した。


相手は大学時代から付き合っていた健太。


優しい人だった。


嘘をついたわけでも。


裏切ったわけでもない。


ただ。


結婚式の日取りを決めるたび、息が苦しくなった。


住む場所。


仕事。


子どもを望むか。


大切なことほど、二人の答えは違った。


話し合えば、どちらかが我慢した。


我慢した方は「大丈夫」と笑った。


やがて麻衣は。


健太からの電話を見るだけで、胸が重くなった。


『嫌いになったの?』


そう聞かれた。


『嫌いじゃない』


それは本当だった。


だから別れてはいけないと思った。


けれど最後には。


二人で婚約をやめた。


周りは理由を求めた。


『浮気?』


『何か隠してたの?』


誰かが悪くなければ、終わることを納得してもらえない。


麻衣自身も納得できなかった。


式場へ払った予約金は戻らなかった。


二人で選んだ食器は、箱に入ったまま麻衣の部屋へ残った。


友人からは、時間を置けばやり直せると言われた。


母からは、長く一緒にいれば意見が違うのは当たり前だと言われた。


どれも間違いではない。


だからこそ麻衣は、自分の決断だけが間違っているように感じた。


健太との写真を消せず、かといって見返すこともできない。


思い出を大切にすれば未練と呼ばれ。


前を向こうとすれば薄情に思えた。


職場では、婚約を知っていた同僚が気を遣った。


昼休みの結婚式の話題が、麻衣が席へ戻ると途切れる。


左手を見られるたび、説明を求められている気がした。


麻衣は指輪を外した理由を、忙しかったから、とだけ答えた。


誰にも責められていないのに、自分で自分へ判決を下し続けた。


昨夜。


左手の薬指から、赤い糸が伸びていることに気づいた。


鋏で切った。


朝には元へ戻っていた。


糸をたどって歩いた。


健太の家へ続くと思った。


けれど着いたのは、この店だった。


◇


「縁を切るお店ではありませんよね」


麻衣は尋ねた。


「少なくとも、看板にはそう書かれていません」


「私が何か忘れたから、この糸が出たんですか」


「その可能性はあります」


「でも、忘れたいことなら、思い出さない方がいいんじゃないですか」


「それも、麻衣様がお決めになることです」


店主は糸へ手を触れなかった。


「こちらで切れば、楽になりますか」


「私には切れません。仮に切れたとしても、それが麻衣様の望む終わり方かは分かりません」


麻衣は右手を握った。


糸は痛いほど食い込んでいるのに、血は出ていなかった。


店主は棚から、小さな裁縫箱を持ってきた。


中には、縫い目の曲がった布の指輪が二つ。


大学の文化祭で。


麻衣と健太が、ふざけて作ったものだった。


『本物はいつかね』


笑いながら、互いの指にはめた。


「幸せだったんです」


麻衣は言った。


「だったら、終わらせたのは間違いですか」


「幸せだった時間は、終わると間違いになるのでしょうか」


「でも、八年も一緒にいたんです。もう少し我慢すれば、うまくいったかもしれない」


「お二人は、我慢について話されましたか」


「何度も」


「それでも出した答えを、今の麻衣様は信じられないのですね」


麻衣は頷いた。


決めた日の自分たちより、事情を知らない人の『もったいない』を信じようとしていた。


「嫌いになれれば、楽だった」


「嫌いになるまで、続ける必要があったのでしょうか」


麻衣の指へ巻きついた糸が、強く締まった。


「戻るのは、相手を嫌う気持ちではないかもしれません」


店主が布の指輪を差し出す。


「本当に、思い出してもよろしいですか?」


「はい」


◇


婚約をやめると決めた夜。


健太も泣いていた。


『俺たち、失敗したのかな』


麻衣は答えられなかった。


健太は続けた。


『麻衣といた八年を、失敗だったことにしたくない』


『私も』


二人はそのあと、夜が明けるまで話した。


どちらが飼うか決めていた犬の名前。


結婚したら買おうと笑った大きな食卓。


実現しない予定を一つずつほどいていった。


健太は途中で言った。


『好きだったから、結婚しなきゃいけないと思いすぎたのかもしれない』


麻衣は、その言葉に頷いた。


好きであることと、同じ暮らしを選べることは別だった。


『でも、このまま結婚したら、いつか麻衣を嫌いになる気がする』


麻衣も、同じだった。


二人は憎み合う前に。


大切だった時間を、大切だったまま終わらせた。


それは逃げではない。


約束を破った罰として。


思い出まで捨てる必要はなかった。


◇


麻衣の指から、赤い糸がほどけた。


切れたのではない。


小さな輪になり、布の指輪の隣へ収まった。


店を出たあと。


麻衣は健太へ、借りていた本を郵送した。


手紙は一枚だけ。


『幸せだったことまで、謝らないでおきます』


返事を求める言葉は書かなかった。


布の指輪は、店へ置いてきた。


数日後、健太から短いメッセージが届いた。


『俺も、謝らないでおく。元気で』


麻衣はすぐには返さなかった。


夜になってから、『元気で』とだけ送った。


送信したあとも寂しさは残った。


それでも、その寂しさはもう、決断を責めるためのものではなかった。


週末、麻衣は箱に入った食器を二枚だけ出した。


一枚は自分で使い、もう一枚は棚へしまった。


捨てるか、誰かへ譲るか、今は決めない。


決めないことも、やり直すための猶予ではなく、自分に許した時間になった。


◇


帳簿。


預かり品  縁


一本線を引く。


預かり品  終わらせる権利


所有者   井上麻衣


返却    済

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