第9話 選べない人間が、いる
第9話「選べない人間が、いる」
灰色の空を切り裂くように伸びる、かつての高速道路。アスファルトはひび割れ、剥き出しの鉄筋が錆びた牙のように虚空を噛んでいる。
天城盤は、その高架の上を、風を切る音だけを友に歩いていた。
三メートル後ろには、神楽坂澪。互いの死角を埋め、不測の狙撃に対応するための最短距離。それは「戦友」というよりは、高度に最適化された、血の通わぬ「布陣」に見えた。
「盤。……待って」
澪の掠れた声に、盤の思考が停止する。
視線を追った先、断崖のような欄干の端に、二人の人影が寄り添うように立っていた。
小川涼太と、山下彩。
クラスの喧騒から少し離れた場所で、いつも静かに、聖域を守るように手を繋いでいた二人。この泥沼の戦場にあっても、彼らの制服だけは、まるで昨日の放課後のまま時間が止まっているかのように清潔だった。
「小川くん! 山下さん!」
澪が叫び、駆け出す。盤もまた、反射的に筋肉を駆動させた。
だが、二人はこちらを振り返らなかった。
ただ、強く。壊れ物を扱うような優しさで、互いの指を絡め合った。
小川が何かを囁き、彩が小さく頷く。次の瞬間、二人の体は重力に従い、吸い込まれるように灰色の闇へと傾いた。
――鈍い、重い音がした。
肉と骨が、無機質なコンクリートに叩きつけられ、この世界から永久にログアウトする音。
澪は欄干を掴んだまま、その場に崩れ落ちた。
「……ああ、っ、嘘、でしょ……。なんで、逃げたって言わせないほど、あんなに綺麗に……」
盤は、風が吹き抜ける欄干の端に立ち、冷徹に眼下を見下ろした。
十数メートル下。並んで横たわる二人の姿は、遠目には、ただ寄り添って昼寝をしているようにさえ見えた。そこには憎しみも、戦略も、勝利もない。ただ、この狂った盤面に対する、絶対的な「拒絶」だけがあった。
盤の足元で、一枚の紙が風に踊った。彼はそれを、汚れの目立つ靴底で静かに踏み、拾い上げた。何度も折り畳まれ、角が毛羽立った便箋。そこには、死を前にした人間のものとは思えないほど、穏やかな文字が並んでいた。
『僕たちには、誰かを傷つけることができません。でも、傷つけられることも、怖いです。どちらも選べないなら、一緒に終わりにしようと決めました。これは逃げかもしれない。でも、彩と二人で決めたことです。二人で決められたから、後悔はないです。 小川涼太』
余白には、震えるような、だが凛とした筆致で。
『涼太がいてくれたから大丈夫です。さよなら。 山下彩』
盤は、その手紙を無言で見つめ続けた。
将棋の定跡に、投了以外の自滅はない。自分の王を自分で討つような手など、盤上の理屈では「エラー」でしかない。だが、この紙に宿る重みは、どんな必至の局面よりも重く、彼の胸を圧迫した。
「……止めるべきだった?」
澪が、幽鬼のような顔でこちらを見上げていた。
盤は即座に回答を用意する。生存本能という名のアリゴリズムが、冷酷な正解を弾き出す。
「……止めたところで、彼らは明日、別の誰かの駒にされるだけだった。生存者が減ったのは痛手だが、彼らにとっては、これが唯一の『自意識の守り方』だったんだろう」
「……あんた、本当に……自分以外は全部数字なのね」
盤は答えず、手の中の手紙をゆっくりと折り畳んだ。そして、制服の胸ポケット――自分の鼓動が最も近くに聞こえる場所へ、それを丁寧に差し込んだ。
「捨てるんじゃないの。……非効率でしょ、そんな死に損ないの遺言なんて」
「……ノイズとして、持っておく」
盤は、澪の手を強引に引き、立ち上がらせた。
「誰かがこれを持っていなければ、彼らが『人間』として生きた証拠が、この盤面から消える。……俺には、これが必要なんだ。自分という駒が、ただの鉄クズに変わらないための、重石として」
澪は目を見開き、盤の淀んだ瞳の奥にある、剥き出しの「揺らぎ」を捉えた。
「……あいつらは、まともだったのね」
澪は、高架の向こう、見えないカメラに向かって唾を吐き捨てるように言った。
「まともだから、自分たちの心を汚す前に降りた。……この世界じゃ、まともな人間から死ぬようにできてるんだ。私たちは、狂ってるから、立っていられる。そうでしょ」
盤は、ポケットの上から手紙の感触を確かめ、短く応えた。
「狂っていようが、なんだろうが。俺は……まだ、この手を離さない」
二人が歩き出すと、胸ポケットの中で小さな紙片が微かな音を立てた。
それは、二人の若者が最期に守り抜いた、祈りに似た拒絶の証。
盤はその微かな重みを、自分の皮膚の一部であるかのように強く意識した。
【システム通知:生存者、残り28名。小川涼太、山下彩――除駒】
画面の外では、二人の死が「退屈な自滅」として一瞬で消費されていく中で。
天城盤という一人の少年の心に、決して消えない「不合理な棘」が、深く、深く、突き刺さった。




