第8話 引き金は、優しい
立石美琴が初めて「自分」を手に入れたのは、プログラム開始から三時間が経過した、あの血生臭い午後だった。
指先で冷たい金属性の弧をなぞり、ゆっくりと引き絞る。
狙って、撃って、当たった。
それだけの、あまりに簡潔な物理現象。
なのに――美琴の指先は、産まれたての小鳥のように静かだった。震えの一つすら、そこには存在しなかった。
美琴の記憶の最下層にあるのは、安っぽい芳香剤の匂いと、暗い部屋の天井だ。
何歳の時だったか。もう正確には思い出せない。ただ、自分の肉体が「自分以外の誰か」の所有物であることを、彼女は言葉を覚えるよりも先に、肌の感触として理解していた。
そこに「父親」という概念は存在しなかった。
いたのは、陶器のように冷たく、壊れやすい美貌を持った母親だけだ。
美琴が母親と同じ、あるいはそれ以上に整った顔立ちに生まれたことは、彼女にとって最初の、そして決定的な呪いだった。母親はその呪いを「資本」と呼び、躊躇なく市場へと流した。最初は知人、やがては顔も知らない客。
美琴が幼い手で拒むたびに、母親は香水の混じった吐息を吐きながら、呪文を唱えた。
「美琴がいい子にしてくれないと、ママは死んじゃうのよ。……うちは、ご飯が食べられなくなっちゃうの」
だから、美琴は「いい子」になった。
学校では、クラスメイトの期待する通りに、無害で可憐な笑顔を貼り付けた。誰も気づかなかった。誰も、その制服の下に刻まれた数えきれない「所有印」を見ようとはしなかった。
人間は、弱ければ使われる。
所有されるか、消費されるか、さもなくば廃棄されるか。
美琴にとっての世界は、その三つの選択肢しかない閉塞した盤面だった。
プログラム開始の瞬間、彼女は泣かなかった。
パニックに陥り、獣のように鳴き喚くクラスメイトたちを、彼女は厚い防弾ガラス越しに眺めるような、奇妙な疎外感とともに見つめていた。
首輪が微動し、網膜に一文字の役職が刻印される。
【役職:鉄砲兵】
美琴は、支給された重厚なライフルの、油の匂い立つ銃身をそっと撫でた。
重かった。だが、その重さは決して不快ではなかった。ずっと何かを奪われ、押し付けられるだけだった彼女の両手に、初めて「他者の命を左右する権利」という名の鉄の塊が収まったのだ。
木村太一が彼女を見出したのは、その直後だ。
「お前。……銃に、愛されているな」
振り返ると、そこに死神が立っていた。
感情を去勢し、氷の芯を瞳に宿した少年。太一の視線には、美琴がこれまで浴びてきた、卑屈な欲望も、歪んだ愛着も、反吐が出るような哀れみもなかった。
「撃てるか」
「……指の動かし方は、知っています」
「そうか」
太一は、微かに口角を上げた。それは笑みというより、新しい部品の性能を確かめる職人の満足感に近かった。
「俺の隣にいろ。お前が『壊れる』まで、俺が正しく使ってやる」
その言葉は、一般的には最悪の侮辱だろう。
だが美琴にとって、それは人生で初めて受けた、誠実な「契約」だった。
最初の戦闘。
スコープの円窓越しに、見知らぬ男子生徒の顔が拡大される。
必死に何かを叫びながら、泥にまみれて走る「駒」。
美琴は、肺の中の空気をすべて吐き出した。
心拍が落ち、世界から音が消える。
――引いた。
肩を叩く、力強い、それでいて確かな反動。
次の瞬間、スコープの中の「駒」は、不自然な角度で折れ曲がり、永遠に沈黙した。
「……」
胸の奥には、やはり何もなかった。
罪悪感も、高揚も。ただ、長年自分を縛り付けていた、あの母親の粘つくような声だけが、弾丸の速度で遠ざかっていくのを感じた。
「見事だ。……手が、震えていないな」
いつの間にか隣にいた太一が、彼女の横顔を覗き込む。
美琴は視線を外さず、硝煙の立ち昇る銃口を見つめ返した。
「震える理由が、わかりません。……だって」
彼女は、まるで恋人の手を握るような愛おしさで、ライフルを抱きしめた。
「この子は、私の言うことしか聞かないから。……引き金は、優しいです。私が引けば、必ず、世界を私のために変えてくれる」
太一はしばらく無言で、美琴の長い髪を揺らす廃墟の風を感じていた。
「強くなりたかったか」
「わかりません。……ただ、弱くいることには、もう飽き飽きしていたんです」
その言葉は、この地獄において唯一の真実だった。
今朝の狙撃。久保たちが赤い霧となって消えた瞬間を、彼女は特等席で見守っていた。
太一が引き金を引く際の、機械的な正確さ。
怒りもせず、悲しみもせず、ただ盤上のノイズを消去するだけの所作。
それは残酷ではあったが、美琴にとっては、どんな聖書の言葉よりも清らかに見えた。
「美琴。午後に動くぞ。東の残党を狩る」
「はい、王様」
「遠距離からの『王手』を頼む」
太一の指示に、美琴は静かに跪き、銃を構え直した。
かつて母親の顔色を伺い、客の要望に怯えていた少女は、もうどこにもいない。
廃墟の空は今日も重く、灰色の雲が垂れ込めている。
だが、スコープを覗き込む美琴の視界には、自分を支配しようとするすべての存在を撃ち抜くための、透き通った黄金の道が広がっていた。
「引き金は……本当に、優しい」
彼女が囁くと同時に、二発目の銃声が廃墟に木霊した。
それは、過去という名の檻を壊し、新たな地獄へと駆け出すための、祝福の産声だった。




