第一話 ー 金のメダリオンの客
朝の霧は、まだ森に残っていた。
工房の小窓から差し込む光は灰白色で、それがかえって好きだった。色が少ないほど、作業に集中できる。
私は棚から羊皮紙を一枚取り出し、作業台に広げた。指先で表面をなぞる。厚さ、繊維の向き、魔力の吸いやすさ。言葉にできないが、手がわかる。この一枚は使える。
封印用の魔導書には、密度の高い皮紙が要る。薄すぎると魔力が滲んで、数回の使用で劣化する。量産品がすぐ駄目になるのは、素材の選定を省いているからだ。
インクの調合に取りかかる。銅鉱の粉末、夜露で溶いたヴェルナ草の汁、乾燥させた月花の粉。今日の気温と湿度を手で感じながら、配合をわずかに変える。インクは生きている、と師匠に言われたことがある。正直あの人の言葉で、正しかったと思うのはそこだけだけど、今でも感謝している。
◇
正午近くに、突如扉が叩かれた。
「イリ、ラベンダー持ってきたよ。今年のはいい香りだから」
モーナおばあさんだった。村の端に住む、私のことを勝手に孫だと思っている人だ。
「ありがとうございます。そこに置いておいてください」
「いつも作業中ね。少しくらい休みなさいよ」
「休んでいます。手が動いているだけです」
彼女は笑った。大きな、遠慮のない笑い方をする。
ラベンダーは薬草インクの材料になる。治癒系の魔導書に加えると、効果の持続時間が伸びる。私がここに引っ越してきたとき、最初に声をかけてくれたのもモーナさんだった。
――それだけで、十分だと思った。
◇
モーナさんが帰って間もなく、また扉が鳴った。
今度は、違う叩き方だった。強く、間が均等で、迷いを感じなかった。
「どうぞ」
入ってきた人を見て、私は手を止めた。
背が高くて黒い外套を着て、フードを下ろしている男の人がいた。年は三十前後だろうか。無表情で、室内を一度だけ見渡してから、私に視線を戻した。
その胸元に、金のメダリオンが光っていた。
(金位。王国に七人しかいない、大魔術師の証だ)
私はあえて立ち上がらなかった。立ち上がるべきか考えたが、ここは私の工房だ。
「……魔導書工房で合っているか」
「はい」
「製本師は、あなただけ?」
「そうです」
彼は少し室内を見回した。棚の本、インク壺、乾燥中の羊皮紙。視線が棚の上段で一度止まった。何があるか気になったが、聞かなかった。
「封印用の魔導書を一冊頼みたい」
どうやら普通のお客様として訪ねてきたようなので、席に案内した。
「そこに座ってください。詳しく聞きます」
◇
依頼の内容は、とてもシンプルだった。封印対象は上位の魔物か術式かとだけ確認したら、「術式だ」と返ってきた。それなら、高密度の皮紙に三層刻みで十分だ。
「素材の指定は」
「ない。任せる」
任せる、という客は今までも数人いたが、信頼というより、ほとんど無関心の場合が多かった。
しかし、この人の言い方は違った。何かを決めたうえで、そう言っている気がした。
「五日いただきます。取りに来られますか」
「来る」
「わかりました。注文書を書くので名前を教えてください」
「ライナルト・クロイツ」
◇
「自家製の薬草茶です。よかったら、どうぞ」
彼が立ち上がりかけたとき、私は薬草茶を出した。依頼が終わったあと、いつも客には一杯出すようにしているが、その食欲を激減させる見た目のせいで断られることも多かった。
「……もらおう」
予想外に、断られなかった。
私が注文書を書いている間に、彼はカップを両手で包むようにして、窓から外を見ていた。霧の森が、午後の光で少し白んでいた。
しばらくすると、彼が口を開いた。
「一つ、聞いてもいいか」
羽根ペンを置く手が、ほんの一瞬止まった。
「……どうぞ」
「なぜ、辺境にいる」
(──注文以外のことを聞く客は、初めてかも)
私は答えを探した。嘘をつく気にはなれなかったが、全部話す気にもなれなかった。
「静かだから、です」
正確には、誰にも見つからないから。でもそれは、言わなかった。
彼はしばらく黙った。カップを机に戻して、また窓の外を見ていた。
「そうか」
それだけだった。
まるで、答えをとっくに知っているみたいに、それ以上聞かなかった。
◇
帰り際、彼は扉の前で少し立ち止まった。
「また来てもいいか」
五日後に取りに来ると言ったばかりだ。それとは別の意味で、そう聞いていた。
「……構いません」
そして、扉がゆっくり閉まって、足音が遠ざかった。
私は羽根ペンを持ったまま、しばらく作業台を見ていた。
任せる、と言った客は、過去にも何人かいた。でもあの言い方は、少し違う確信があった。
(なぜ、そう思ったんだろう)
自分でも、よくわからなかった。
外では、霧がまた濃くなりはじめた。




