思わぬ邂逅(1/4)
暦の上では秋だというのに、未だ強烈な日差しが照りつける9月のある日。
大通りから一本外れたオフィスビルの一室は、キーボードの打鍵音と幾多のため息に満ちていた。
「……あー、だめだ! やっぱり通らない……」
進捗が遅れに遅れひりついた空気の中、窓際に腰掛け黒いディスプレイに向かうのは、座っている粗末な椅子が可哀相に思えるほどがっしりした体格の青年だ。
雑に刈り上げられた黒髪、額の右側からは眉に向かって三本の太い傷跡が走っている。シャツが張り裂けそうな程分厚い胸板と相まって実に屈強な印象を与える青年は、しかし今は大きな体躯を極限まで縮こまらせて画面を睨みつつ、必死の形相でマウスを握りしめていた。
「おい毘奈、そっちどうなった?」
「っ、すみません!! 最後のテストがまだ通らなくて……」
「はぁ? 昨日からずっとそれやってるだろ、まだ終わってないのか!? 今日の14時には検証環境に上げないと、また社長からどやされるぞ!」
「うう……門脇さんお願いします、これ俺じゃ無理ですっ手伝って下さい……」
「無茶言うな、こっちも本番障害でそれどころじゃねえよ! 大体お前、もう4年目だろうが! そのくらい自分で何とかしろ!!」
「……っ、はい……すみません……」
通りがかった先輩は苛立った様子で怒鳴りつけるだけで、助けてくれる気配はない。そもそも誰かを教えサポートする余裕なんて、この職場には入職したときから一ミリたりとも存在しないのだ。
青年はがっくりと肩を落とし、くっきり隈が刻まれ淀んだ瞳を再び画面に向ける。
こういう煮詰まったときは、とかく機器の扱いに気をつけなければならない。ただでさえ目標未達で社長は苛立っているのだ、やらかせば待っているのは――
パキン
「!!」
コードを追うのにのめり込みすぎたせいだろう、つい力の入った右手から、嫌な音が聞こえてきた。
さっと顔を青くした青年が慌ててマウスをクリックすれど、案の定画面の矢印はびくとも動かない。
(あああやっちまった! やばいやばいやばい!!)
……有線だから意味が無いと分かっていても、怯える頭はついつい接続状態を確認してしまう。
「毘奈君、何をしてるんですか?」
「ひっ、し、社長! あのっ……その、これは」
「はぁ……またですか。これで今年何度目だと? 全く、これほどうちの備品を破壊する社員など前代未聞ですよ!」
「も、申し訳ありませんっ!!」
焦る背中にかけられた声に飛び跳ねて恐る恐る振り向けば、そこにいたのはこめかみに青筋を立てた、このベンチャー企業の若き社長だ。
途端に弾けるように席を立ち、直立姿勢で謝罪を叫ぶ青年に「そういう何の役にも立たない脳筋仕草はいりませんから」と彼は眉を顰め、最も聞きたくない沙汰を下すのだった。
「備品の損害は給与から引いておきますから、後で報告書をあげておくように。それと、さっさと不具合を解決して検証環境に上げて下さい。他のタスクも毘奈君のせいで止まっているでしょう? これ以上クライアントの機嫌を損ねないで欲しいものですね。――ああ、この件は今日の集客ネタに使わせて貰いますから、後でしっかり読んで反省しなさい」
◇◇◇
毘奈新太26歳。
それなりの大学を卒業後、OBの誘いで入ったベンチャー企業に勤めること4年目の若手プログラマーである。
――まあ、そのOBは新太が入社して2ヶ月もしないうちに「飛んだ」のだが。恐らく自分は彼の交換要員、悪く言えば人身御供だったのだろう……そう気付いたところで、全ては後の祭りで。
「うぅっ、酷い書かれ方……いや俺が悪いんだよ、社長の言うとおりなんだけどさ……」
新太がようやっと業務を終え、報告書を出して帰途についた時には、時刻は既に23時を回っていた。
それでも今日は、馬鹿力でマウスを破壊したにしては良い日だ。なんたって駅まで歩いて行っても、終電に間に合うのだから。
家に帰るのは一体何日ぶりだろうと、どこか詰まったような頭でぼんやり考えながら駅への道を急ぐ新太は、いつもの癖でSNSを開いてしまい……止せば良いのに社長のアカウントを確認してしまう。
そこには、今日の新太のやらかしを晒し上げる投稿が載せられていた。
いつの間に撮影したのだろう、ご丁寧にもぼかしをかけた新太の後ろ姿と壊れたマウスの写真付きである。
『またうちの筋肉ダルマ君が備品を破壊。謝罪だけは立派になったけど仕事は相変わらずで、彼のせいでまた納期が1週間ずれ込み……こういう出来損ないでもそう簡単に解雇はできないのが、経営者の辛い所だよね』
『わかる、てかそれでも見捨てず雇ってあげてる社長さんえらい』
『うちならさっさと仕事取り上げて追い出してるわww』
『むしろそれでも会社にしがみつく筋肉ダルマ君がやべぇ、その筋肉使いどころを間違えてるだろ』
フォロワー数万人、業界でも毒舌で有名な社長の投稿には、次々と賛同のコメントが書き込まれる。
その辛辣さに新太はぐっと唇を噛みしめ「……もうやだ」と呟きながら、そっとスマホの画面を消してポケットにしまった。
◇◇◇
『間もなく……に…………の電車がまいります。……ですので……まで…………』
聞き慣れた音楽と共に、電車到着のアナウンスが流れる。
終電を待つ駅のホームは意外と混んでいて、陽気にはしゃぐグループと死んだような目で遠くを見つめるくたびれた社会人とが入り交じり、混沌とした雰囲気を醸し出していた。
外は夜になっても昼間の熱気が引かず、淀んだ空気にぐっしょり汗に濡れたシャツが纏わり付くお陰で余計に気持ち悪さは増すばかりだ。
ついでに、さっきから時折ぐわんと視界が回っている。アナウンスの音も所々言葉の意味が分からなくなっていて、これはいよいよまずいな……と消えかけた思考の片隅で新太は己の限界を感じていた。
(今日の俺、生きて家に辿り着けるのかな……)
188センチ92キロと周りから頭一つ飛び抜ける恵まれた体躯を扉近くの壁に持たせかけ、新太はぼんやりと興味も無い広告を見上げる。
さっきから明滅する視界は、電車の照明が切れかけているせいでは無い。一瞬意識が飛んでいるからだ。
(にしても、こんなに眠いのに……何で寝られないんだろう)
新太はここ数ヶ月、酷い不眠症に悩まされていた。
病院に通いたくても平日は毎日午前様、下手すればオフィスに寝袋で泊まり込みの生活ではどうにもならず、コンビニで買える睡眠ドリンクはいくら飲んでも効く気配がない。
家に帰ったところで、疲れた身体の悲鳴など知らぬと言わぬばかりに眠りは訪れず、ゴロゴロと無意味な寝返りを繰り返すうちに陽が昇り(……また会社に行かなきゃ)と絶望するだけ。
少しでも新太にまともな思考が残っていれば、根本的な原因は職場での多大なストレスと運動不足だと気付けただろう。だが、ただでさえ寝不足で鈍った頭に日中詰め込まれるのは同僚や上司の罵声と嫌み、そしてクライアントの怒号だけともなれば、己の置かれた状況が如何に異常か気付くことすら困難になるのは、想像に難くない。
(ああ……せめて飲みに行きたい……一緒に飲む相手なんていないけどさ……)
就職して以来、まともな休日も取れない生活のせいで、友人とは早々に縁が切れた。
恋人? そんなもの、学生時代からできたためしがない。ガタイこそ立派だが色恋沙汰となると途端に臆病になってしまうから、好きになっても声すらかけられないままで……意中の人が他の男とくっつくのを、何度愕然と眺める羽目になっただろうか。
強いて言うなら右手が永遠の恋人だが、それすらここのところはとんとご無沙汰で、そろそろ右手にすら振られそうな気がしてくる……なんて、もう重症がすぎる。
(とにかく、家に帰って……倒れるのは、それから…………)
一体俺はどこで人生を間違えたのだろうかと、新太は淀んだ心に問いかける。
そもそも進路を選ぶにしても仕事にしても、大したトレーニングをしなくても衰えることのない立派な筋肉を活かす方が良いだろうと周囲からは思われがちだが、残念ながら新太は運動神経がからきしで……つまりこれはいわゆる「見せ筋」でしかないのだ。
そんな見かけ倒しで要領も悪い自分は、どこに行っても結局同じ運命を辿るに違いない。それならあのコメントの通り、こんな自分でも見捨てずに雇ってくれるこの会社にしがみつくしか無いじゃないか――
弱り切った心と朦朧とした頭は、新しい思考の道を見つけられない。
どこか色を無くした世界を焦点も合わさず見つめながら、落ち込むばかりの思考を手放すことも出来ず電車に揺られていれば、不意にガクンと身体が揺れた。
「あ」
手すりを握っていなかった身体が、ぐらりと傾く。
あ、まずい。ここで倒れたらまた額の傷が増えてしまうと思うも、咄嗟に身体は動かなくて。
(ああ、こりゃ次の駅で降りて病院行きかな……)
痛みを覚悟しぎゅっと目を閉じた新太はしかし、次の瞬間がっしりとその身体を掴まれていた。




