泡沫の交わり(6/6)
夢の中とは言え、ちゃんとお腹はいっぱいになるらしい。
そう言えばいつもは新太に与える事を優先していて、ここまでたらふく食べたのは初めてかも知れないなと、ムシュカはすっかり陽の落ちた街を新太と仲良く手を繋いで散策していた。
……もう、その横顔に照れを見出せない事への寂しさは感じない。
目一杯の笑顔と優しさで自分を受け入れてくれる新太は確かに私の愛し子だと、きゅうと胸が甘い痛みを覚えている。
問題があるとすれば、ここで昔のように直截な愛を囁けばたちまち真っ赤になって、しどろもどろのヴィナが出来上がってしまうことくらいか。
(……いいや、そこもいつかお主は育つのであろう?)
王国とは比べものにならないほど明るい夜を通り抜け、二人の足は住宅街へと向かう。
それはムシュカの希望で、新太にとっては心臓が夜空に打ち上がりそうなほどの大変な事態だということに、この神様は全く気付いていない。
「あの、神様……ほんっとうにいいんですか? 俺の家に来るだなんて」
「むしろ何の問題があるのだ? まだ夜明けのあらあむとやらも鳴らぬし、慣れたとは言え喧噪の中は疲れるから少し休もうと言ったのはお主であろう」
「いや、それは確かにそうなんですけどっ! そんな前世にも無かった突発リアイベは、いや夢だけど、とにかくっ心の準備という奴が」
「……お主の世界の概念は、時々訳が分からぬな……」
そうして歩くこと15分、郊外のありふれた単身者用アパートの2階。
階段を上がりながら「……どうにも嫌な予感がするのだがな」と顔を強張らせるムシュカの懸念は、見事的中する。
「殿下、ここで靴を脱いで下さい。えっと電気電気……あれ? 今日は枕カバーが光ってないな……流石に夢には再現出来なかったのか」
「……な…………!?」
ムシュカの国は、未だ蝋燭と小さなランプを灯りとして使うような世界だ。だから月明かりがあれば、灯りなどなくとも部屋の中は十分見渡せる。
そして彼の国は人口に対して国土は広く、土地も安い。庶民だろうが、風が通り抜ける広々とした住宅を持つのが常識で。
――つまり扉が開いた瞬間、目の前に飛び込んできた風景にムシュカが叫ぶのも、後から思い返せば致し方なかったのだ。
「お主、やはりこの世界でも奴隷身分だったのではないか!!」
「へっ」
「へっ、ではない!! ああ、何と狭苦しい家なのだ! これでは私が幽閉されている塔と何の変わりも無い! 一体お主、どんな業を積めばこのような部屋に詰め込まれるのだ!?」
「いやこれでも1DKだからそこまで狭いわけじゃないんですよ、この国じゃ……ほら、電気着けたら広く見え」
「うぎゃあぁぁ!! 目が、目が焼ける!! なぜ家の中に突然太陽が出現するのだ!? やはりここは修羅の国っ」
「おっ落ち着いて下さい神様! あわわ……だめだこの文明差、俺の脳筋じゃ埋められない!!」
突然の太陽(偽)は、どうやらようやく正気を取り戻したばかりのムシュカには、少々どころでなく刺激が強かったようである。
すったもんだの末、月明かりで過ごすことになった新太は「俺、ブルーベリーたくさん摂った方がいいかな……」とぼやきながら手探りで探し出したジュースをムシュカに振る舞うのであった。
◇◇◇
「きっとな、現実の私が壊れるのはもう、防ぎようがない」
「神様……」
いくら神様と一緒とは言え、暗闇のリビングで向き合っていては会話もままならず。
シングルベッドに大男と二人、どう考えても無茶だというのに「ベッドとは共に寝るものであろう?」と当然のごとく誘われてしまった新太は、夢のベッドの耐久度に賭けてそっとその身を横たえる。
……胸元に埋まる神様の美しい髪が時々顎をくすぐって、素数を数えていないといろんな意味で切なさが天元突破してしまいそうだ。
そんな新太の内なる葛藤に気付いているのかいないのか、時折広い胸に頬を擦り付けながらムシュカは静かに語り始める。
その表情は落ち着いていて……それだけに、新太から見れば痛ましさが際立っていた。
新月の塔に幽閉された者が生きたまま解放された例は、あの塔が完成してから百余年、一度たりとも記録にない。
ここでどれだけ正気を取り戻したとしても、夢から醒めた途端に……いや、正確には醒めることも出来ずに、あの身体はただ機械的に食べ、息をするだけの人形と化す。
――もしかしたら既にそうなっているのかもしれない、それすら今の自分には知覚出来ない可能性は高いのだから。
「……っ…………」
抱き締める太い腕に込められた力が、少し強くなる。
その圧力すら愛おしいと胸に迫るものを感じつつ、ムシュカは「大丈夫だ」と穏やかな笑顔を新太に向けた。
「約束は守る。どれだけ壊れようが、お主のことが万が一分からなくなろうが……私は必ずここに来る」
「……はい」
「お主と同じなのだ、私も。……どんな私であれ生涯推し続けると言ったお主の気持ちは、きっとどんな私であってもその存在だけでお主を幸せにできる、そのことがたまらなく嬉しくて……お主が愛おしくてしょうがない、私の気持ちと変わらないのであろう」
「…………!!」
(……殿下、俺は…………!!)
自分を見上げる優しい眼差しは、いつ再び輝きを失うか分からない。
そして既に壊される恐怖を、そしてそこから正気を取り戻す苦痛を知りながら、それすらも甘受して逢瀬を誓う言葉を口にすることがどれだけ恐ろしいことか、新太は身をもって知っている。
――世界の全てが灰色になって、逃げ場がないほど狭まった絶望の谷に、今一度突き落とされるだなんて……新太なら考えただけで恐怖で叫んでしまいそうだから。
そして、実際穏やかに見える笑顔とは裏腹に……ムシュカの身体は少し震えているのだから。
だから
(この方に……ぬくもりを……明日を生きる、灯火を……!)
新太は決意する。
今こそ、前世の頃にも出せなかった全ての勇気を振り絞るときだと――
「……? どうした、ヴィナ」
もぞもぞと背中を向けた新太に気づき、ムシュカはいつもと変わらない優しい声をかける。
そっと広い背中に触れて、その温かさを味わって……ああ、今日は随分と心臓の音が喧しい。そういえばこんな夜も――当然ながらその後は何も無かったけれど――幾度も越えてきたなと少しだけ懐かしさを覚えた、その時。
「…………殿下」
背中を通して聞こえた、小さな、くぐもった音は
「……夢であれば……あなた様と熱を交わすことを、許して頂けますか……?」
「…………っ、ヴィナ…………それ、は……!」
幾年もの間、ムシュカが待ち続けた――生まれて初めての瞬間を告げたのだ。
◇◇◇
「………………」
「…………」
エアコンの音だけがそっと響く部屋の中、静かに時は過ぎていく。
(あああ!! 言ってしまった! というかよく考えたら、このタイミングで何てことを!! 神様今それどころじゃないよね! うわあぁぁ俺のバカああぁ!!)
沈黙は、見事なまでに新太の思考を暴走させているようだ。
だめだこれ、土下座して謝らなきゃと冷や汗だらだらで口を開きかけたその時「ふふっ」とどこか愉快そうに笑う声が背中に響いた。
「……あ、え、っと……」
「ヴィナよ」
「はひっ!!」
「そういう事はな、ちゃんとこっちを向いて、私の目を見つめながら言うものだ」
「あっはっはいっ!! って、えええええ!!?」
てっきり断られるものだと思い込み、謝罪の言葉を必死に頭の中で反芻していたところに、これである。
流石殿下、最初から致命傷しか与える気が無い! と新太は半ば涙目でもそもそとムシュカに向き直る。
変わらぬ笑顔で新太を見つめる神様は、月明かりに照らされていつも以上に幻想的で、それでいて煌々と輝く琥珀色の瞳は艶やかに濡れていて……
新太の中にぞくりと、何かが走った。
「……耳まで真っ赤では無いか」
「っ、そっ、そりゃ真っ赤にだってなりますっ!! あっでもっその俺、こんな時にとんでもないことを」
「何を言っておる。またとない食べ頃であろう?」
「ひょえぇ!」
お主も知っての通りだ、私はずっと、散々、呆れかえるほど言い続けてきたであろう? と悪戯っぽく笑うムシュカの鼓動も……これまでに無く痛い。
(私が受け入れたいのは、この熱だ)
あわあわと言葉を失っている新太の手をそっと取り、ムシュカは己の胸に押し当てる。
――どうか、この想いが真っ直ぐに伝わりますようにと願いを込めて。
(……そうだ、私が欲しいのは……アラタ、お主の温もり)
「ほれ、分かるであろう? ……私はいつだって食べ頃だ。お主の目にもずっと美味しく見えているであろうに」
「あ、あわ、あわわわ……」
「騎士に二言は存在せぬよな? ヴィナよ。……ここまで待たせたのだ、さぁじっくりと味わうが良い!」
「ちょ、そんなときだけ騎士ワード出すの反則です神様ぁ!!」
泣きそうな声を上げながら、しかし瞳を閉じたままこちらを見上げるムシュカの意図など分からないはずがなく。
新太はそっとその肩を抱き寄せ……柔らかな口付けを落とした。
……ある意味、期待通りの場所に。
「はぁっ、はぁっ……あわわわ……やった……やってしまった…………!!」
「……ヴィナよ」
「はひいぃっ!!」
「この後に及んで、誰が額への軽い口付けで満足出来ると?」
「うわああ申し訳ございませんっそんなでっ殿下のくくく唇なんてそっ想像しただけで」
「待て、そこは気合いで鼻血を出すな!!」
まったく、これからも毎夜逢うのにそれでは埒があかぬ! とムシュカはぎゅっと新太の右手を握りしめる。
そうして人差し指を立てると、そっと己の口元に持っていって
ぷにょん
「――――!!!」
「ほれ、ここだここ。月明かりでも見えるであろう? ふふっ、心は壊れても食事だけはきちんと摂っておるようだからな。柔らかくて美味しいぞ? ああ、愛しい人の唇とは甘露のようだとも聞いたことがある」
「あ……あ…………」
「…………美味そうであろう? お主のためだけの味だぞ? ……ほれ、がばっといかぬか、がばっと」
「………………」
その瞬間
ぷつん
新太の頭のどこかで、何かが切れる音がした。
「っ!!」
ぎしり、とベッドが鈍い音を立てる。
仰向けで縫い付けられたムシュカが見上げるその先には……まさに獲物を屠らんと言わんばかりの獰猛さが見え隠れする、あの頃の彼を彷彿とさせる新太の真剣な眼差し。
(ああ、やっと……やっとだ。…………いや違うな、ここからだ……)
「……殿下、お覚悟を。……いただきます」
「うむ、たんと食え。ふふ、存分に味わおうぞ!」
(ようやく私は……ヴィナを……アラタを愛して、受け止めて……本当の意味で恋人になれる……!)
温かく、柔らかい感触が、互いの唇に触れる。
初めてのキスは、瞳に宿した猛獣の気配とは打って変わって、とても優しくて、甘やかで……そして、香ばしい醤油の香りと懐かしさを纏わせた温かさに溢れていた。
◇◇◇
胸の奥に、そして身体の芯まで、熱が灯る。
強く、激しく、けれどどこまでも優しく……時々臆病になれば、焚きつけて。
(熱い……)
(一つに、溶けてしまいそうだ……)
甘やかな声と互いの息遣いが、世界を塗り替えていく。
境界が壊れていくのはあんなにも怖かったはずなのに、新太との境目がなくなる感覚はこれまで知らなかった心地よさと至福を、心に、脳に、そして魂の奥底へと注ぎ込んで。
(夢ですら、これほどまでに温かくて、胸がいっぱいになるのだ)
歓喜の涙を零しながら、ムシュカは真っ白な世界の中で、ただ、願う。
(愛しい人の温もりで満たされる……何と幸せな事よ。ああ、ヴィナの……いや、アラタの温もりを現実の身体で感じられたら、どれだけ幸せだろうか!)
その全てを味わい、貪り、余すところなく己が血肉となれと言わんばかりに、溢れんばかりの気持ちを――もう、ごまかしはしない。これは間違いなく愛だ――叩き込みながら、新太もまた祈りを込める。
(ずっと、ずっと……夢だけじゃなくて、現実世界でも殿下といっぱい美味しいご飯を食べて、俺の部屋で一緒のお布団に入ってあのそのあわわわ……とにかく! 俺は神様と寝ても覚めてもずっと一緒にいたい……!)
――いつしか彼らの願いが変わっていることに、気付いたのは……そんな二人をそっと見守る、東雲を模した寝具達だけ。
「はぁっ……ヴィナ、愛してる……ヴィナぁ……っ……!」
「っ……殿下…………!!」
過去は流れ去り、未来は雲を掴むように不確かで。
だからどうかこの「現在」が永久に続くようにと祈りを込めて、二人は夜明けの合図がが届くまで、ただただ互いの熱を交わし続けたのだった。




