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神様は愛し子を餌付けしたい  作者:
第六章 泡沫の交わり
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泡沫の交わり(4/6)

 最後に太陽と月を知ったのはいつだったか、もう、思い出せない。

 全てが朧げで、途切れ途切れに明滅するもやのかかった世界の中、ヴィナと過ごすひとときだけが輪郭を伴い……私に命を吹き込んでくれる。


 カシャンと何かが鳴る音と、己を「かみさま」と嬉しそうに呼ぶ声。

 私はずっと、その二つだけを楽しみに崩れかけた心をかき集め、どこかを揺蕩い続けているのだ。


 けれど、何故だろうか。

 騎士としてのヴィナと、異なる世界のヴィナ、私に途方もない安寧と幸せの味を教えてくれるのは、後者の——私がかつて求めていた方ではない、ヴィナだけであるのは……



 ちゃり、ちゃり、ちゃり……



 今日も規則的な何かの音が、遠くから聞こえてくる。


「……ヴィ……ナ……」


 どこかで聞いた言葉が、喉を震わせる。


 分からない、何も、分からない。

 ただ……胸の中に灯る温かさは……まだ、消えていない……


 月の光も差し込まない暗闇に覆われた部屋の中、粗末なベッドに腰掛けたままのムシュカが、そっと胸に手を当てる。

 その瞳は既に、何も映していない。その唇は渇き、口の端には一筋の涎が伝い、ぼんやりと開かれたまま。


(……ヴィナ…………)


 何かの呪文のように、認識出来ない言葉を呟いたその時、ふわりと腰の下に敷かれたブランケットが淡い光を放ち――


「…………ぁ……?」


 次の瞬間、ムシュカは知らない洪水に巻き込まれた。



 ◇◇◇



「な……え…………!?」


 眼前に叩き付けられた光景に、ムシュカの瞳孔がキュッと縮む。

 それは、最早自分と同一化したのではないかと思うほど単調な白い壁や天井ではなく、ましてほどけた記憶の欠片にあった気がする懐かしい城下の風景でもなく――見知らぬ、何かだった。


 けたたましい音、音、音。

 黒い石畳のようなものが無限に敷かれた地面を、馬のない奇天烈な形をした……あれは車輪が付いているから馬車だろうか、謎の物体が恐るべき速度で通り過ぎていく。

 青い空の下に林立するのは、どこまでも高く伸びゆく樹木……ではなく、石とガラスで出来た面妖な建物だ。


 色とりどりの看板が明滅し、それどころか喋っている。

 右を向いても、左を向いても、色と音と光が溢れかえっていて、ムシュカの全身を撃ち抜いていく――


「ひ……っ……!!」


 その衝撃に苦痛と恐怖に顔を歪めたムシュカは、咄嗟にその場にしゃがみ込み、ぎゅっと目を閉じて耳を塞いだ。

 分からない、これが何なのかはまったく分からないが、ここは私を傷つけるだけの地獄に違いない――!

 頭の中に錐を打ち込まれ、のみで削られ、錆び付いたのこぎりをぎこぎこと引かれるような形容しがたい不快感に、ムシュカはただ打ち震えることしか出来ない。


(あ……うぁ……いや……いやだ…………)


 恐慌状態に陥った、光の灯らない瞳から、涙が一筋つぅと流れる。

 ああ、私が壊れる――そう確信を抱いたその時、ムシュカの唇から溢れたのは


「……ヴィナ…………!!」


 ――意味は分からないが、温もりを覚えた、音の連なり。


「ヴィナ……ヴィナ、ヴィナ……」


 何度も、何度も、世界から取り残され消えかけた欠片が、音を放つ。

 ……一体幾度、それを繰り返しただろうか。

 震える身体にふと影が落ち、それにムシュカが気付く前に、柔らかさと温かさがそっと彼を包み込んだ。


「ぁ…………?」

「神様!! 大丈夫ですか! うわー駅前はヤバかったか、スタート地点はもうちょっと静かなところにするべきだったなあ……」


 恐る恐る瞼を開ければ、そこには短く刈り上げた黒髪の生え際から額に三本の傷を刻んだ青年が、心配そうに自分を見下ろしていて。



 ああ これは ぬくもり



「……ヴィナ」

「はい! ほんとすみません、ちょっと喧しかったですよね! ああでも、もう大丈夫です。俺が一緒にいますし、ここは車にだけ気をつければ安全ですから!!」

「…………ヴィナ……」

「……はい、神様。あなたのヴィナはここに……ずっといます」


 優しい眼差しで微笑む青年の熱が、じんわりと恐怖を溶かしてくれる。

 気がつけばムシュカは譫言のように「ヴィナ……ヴィナ……」と繰り返しながら、己を抱き締める胸に頭をもたせていた。



 ◇◇◇



「……様…………神様?」

「っ……!?」


 はっと気がつけば、周囲の景色はがらりと変わっていた。


「……ここ、は……」

「あ、神様ちょっと戻ってきました? んー……でもまだぼんやりかな……」

「ヴィナ……」

「はい、俺はヴィナです。えっと、細かい説明は後でするんで、取りあえず食べましょ!」

「たべ、る……?」


 先ほどよりはマシになった喧噪の中、どうやら自分はどこかの食堂で食事を摂ろうとしていたようだ。

 目の前に座るのは、先ほど謎の状況で自分を包んでくれたぬくもり――そう、彼はヴィナだ。私がかつて愛した……そしてその幸せを誰よりも願う愛し子だと、泥のような頭がようやくピースを一つ繋ぎ合わせる。


「……ヴィナ……私は……」

「大丈夫です。神様は今日も麗しい、俺の最推しの神様のまんまですから!! あ、来た来た」


 状況を尋ねようと口を開きかけたその時「お待たせしました-!」と威勢の良い声と共に、ことん、ことんと目の前に大きな鉢が置かれる。

 途端に鼻をくすぐるのは……まろやかな、けれど全く記憶にない不思議な香り。


「……んん? 白いスープの……麺?」


 鉢の中を覗き込んだムシュカが目をぱちぱちと瞬かせる。

 そこに盛られていた麺料理は、これまでムシュカが味わってきた多種多様な麺のどれとも異なる、まさに謎の物体であった。


 クリーム色の濁ったスープから少しだけ顔を覗かせているのは、黄色い麺だ。

 だが、見慣れた麺よりはずっと細い。というか、このような細さの麺など見たことがない。一体どうやって作っているのであろうかと、味より先に製法が気になってしまう。


 表面を彩る具も、不思議なものばかりだ。

 見慣れた形の三枚肉や半分に割れたゆで卵、どっさり載せられたネギはともかくとして、短冊状の茶色い物体は生姜にしては少々柔らかそうに見えるし、黒い細切りの食材も初めて見る。

 謎の黒い紙に至っては、それは口にして良いものなのか? と疑問しか浮かばない。


 これはラーメンって料理なんですと、新太は戸惑いを隠せないムシュカに、すりおろしニンニクの入った容器を渡す。

 良く見れば彼の鉢にはたっぷりとニンニクが入っていて、なるほどヴィナがそうするならきっとその方が美味いと、ムシュカの手は自然と容器を手に取っていた。


 ――そうだった、ヴィナは何よりも食べることが、そして美味しいものが大好きで……その気持ちの良い食べっぷりを見ているだけで、こちらまで幸せになって自然と頬が緩むのだ。


「じゃ、伸びないうちに食べましょ! ……いただきます」

「…………」


 いつものように手を合わせ、箸を片手に額に汗を浮かべながら豪快に麺を啜るヴィナ。

「かーっ!! やっぱここの豚骨は濃厚で美味い!!」と満面の笑みで叫ぶ様を見ていたら、くぅ、と腹の中から音が聞こえるのを感じて。


(……私の腹も、鳴るのか)


 その思考が泥の中から浮かび上がるのと、ヴィナに手渡されたフォークで麺を掬い、そっと口に含むのはほぼ同時だった。


「ん…………ん? ……んんっ!?」


 歯に触れるのは、知らない麺の硬さ。

 こんなに細いのに、今まで食べたどの麺よりも芯のようなものを感じて、けれど噛み切れないわけではない。

 もぐもぐと噛めば小麦だろうか、ほんのり甘く香ばしい香りが口の中に広がっていく。

 そして


(知らない……何だこの、ふくよかで獰猛でありながら、どこか優しさを纏った美味さは――!!)


 麺に絡んだ豚骨スープの風味が口の中を満たし、鼻を駆け抜け、泥濘んだ脳をかき混ぜる。

 その味は決して鮮烈ではない。辛味も、甘味も、塩味さえも食べ慣れた料理と比べれば実に淡く……なのにどこにも物足りなさがない。


 いや、それどころか……美味さが波のように何度も打ち寄せてきて、その度に私が形を取り戻していく――!


「はふっ……むぐ……はぁっ、ふーっふーっ……ちゅるっ……」


 ムシュカは一心不乱に麺を、具を、スープを口に運び続ける。

 額にはほんのり汗が滲み、生気の無かった顔には赤みが差して、ときおり「……はぁ……っ……」と吐息を漏らしながら、けれど食べることを止められない。


(美味い……そう、これは美味い、だ。……だが、私はこの美味さを…………言葉に、出来ない……!)


 ほんのり甘い豚の角煮が、シャキシャキのネギが、半熟の煮卵が、あらゆる角度からムシュカに旨みを差し出してくる。

 得体の知れなかった生姜もどきは随分歯ごたえのある食材で、噛めば噛むほどその塩気と共に広がる味が、まろやかなスープにちょっとしたアクセントを加えて――


「…………ヴィナ……」

「んぐっんぐっ、はぁっ、んっ……どうしました? 神様」

「……美味い…………美味いのだ……ああ、そうだ」


 ……そうだった。

 ここは全てを失った自分にただ一つ残された、色の付いた夢の中。

 目の前で汗だくになりながら「美味いっすよね? 良かったぁ、神様なら絶対好きになると思ったんです!」と無邪気な笑顔を見せる青年は、この夢の中でしか逢えない、かつて私が愛した青年の成れの果て。


 そう、こんな壊れかけた私すら神様と尊び、その幸せを、心からの笑顔を願ってくれる、私の愛し子、私のヴィナだ――


「ヴィナ……お主と食べるものは、何だって……何だって美味いに決まっている……!!」


 ぽたり、ぽたりとテーブルに涙が伝う。

 一粒溢れる度に、ムシュカを覆っていた霧が晴れ……ようやくムシュカは、自我崩壊の危機から己を取り戻したのである。



 ◇◇◇



「ヴィナ、その……すまなかった。無様なところを見せてしまって」

「え? 大丈夫っすよ! ラーメン美味かったって言ってくれただけで俺はもう……はぁあ幸せが過ぎる、推しとこの味を共有出来た喜びで今なら空も飛べそうな気が」

「夢とは言え、お主の筋肉は空を飛ぶようには出来ておらぬぞ、やめておけ」


 ムシュカの突っ込みにええーと口を尖らせながらも、新太は実に嬉しそうだ。

 ここしばらくはずっと濁ったままだった瞳にようやく光が灯り、先ほどまでとは一転して神様らしさを取り戻した推しに大いなる安堵を覚え、ついでに(やはりこの作戦はいける!)と心の中でぐっと拳を突き上げている。


「それはそうと……ここは夢ではないのか?」と時折顔を顰めながら辺りを興味深そうに見回すムシュカを、途中で耳栓でも買ってきた方がいいかな? と案じつつ、新太はこの状況の種明かしを始めた。


「実はこれ、俺が作ったんです」

「作った」

「はい。ほら、夢の中だと服装も自由に変えられるでしょ? てことは、応用したら夢の中の景色も変わるんじゃ無いかなって思って」

「ふむ」

「なので俺の住んでる街を……今、俺が生きている世界をそのまんま作ってみました!」

「いやいや、応用と言うには少々規模が大きすぎではないか!?」


 新太が思いついた「神様を元気にしようツアー」――それは全てを奪われた塔の中に閉じ込められその心がいつ崩壊してもおかしくない神様に、夢の中でこれまで食べたこともない美味しいものをたっぷり食べさせることで、美味しい幸せを思い出し元気になって貰おうという、実に食いしん坊の発案らしい企画であった。


 とはいえ、元王太子であるムシュカの知らぬ美食など、彼の世界には存在しない。

 強いて言うなら庶民的な美食は王族には無縁――だったのだが、お忍びと称した街歩き(とヴィナによる熱いプレゼン)のお陰で、ムシュカの頭と舌には古今東西の屋台飯からジャンクフードまで、ありとあらゆるレパートリーが記録されてしまっている。まったく、我が前世ながら愛情が食に飛び抜けすぎだ。


「で、思ったんです。……殿下の世界を食べ尽くしたなら、ここは一つ俺の世界の味を知らしめるべきだって!」

「結局食に走るあたり、お主はやはりヴィナであるな……」

「ぐっ……で、でも美味しかったし!! 神様、俺のことも分からなくなるくらいおかしくなってたのに、ラーメン一つで元通りになったし! この作戦は大成功っすよ、ついでに神様も食いしん坊認定ですね!お揃いばんざい!!」

「半分以上はお主のせいだがな!」


 軽妙な掛け合いに何とも言えない心地よさを感じながら、すんでの所で己の心をすくい上げてくれた新太に、ヴィナは心から感謝する。

 そして……こんな時間は「ヴィナ」とは決して取れなかったと、ふと昔を思い起こすのだ。


(……神様とは呼ぶが……今の私とお主は随分と近いところに並び立てているらしい)


 覆しようの無かった身分差と、それ故の自尊心の無さ。

 ヴィナはその命を散らす瞬間まで、恋人でありながらそれ以上に忠臣であった。

 だが……転職を遂げてからの新太に、その面影は微塵も見受けられない。


 ああ、こうやって人は数多の世界を渡り歩き、命を繰り返しながら育っていくものやもしれぬと、ムシュカはなんとも言えない感慨にそっと胸を震わせる。

 ……震わせているのはそれだけが理由ではないという事実にも、薄々気付きながら。


 けれどもう少しだけ見定める時間が欲しいと、愛し子の笑顔を眺めながら、神様はそっと祈るのである。


 それにしても、とムシュカは少し怪訝な顔で周囲に目をやる。

 気のせいか、それとも久しぶりの喧噪ゆえだろうか、どうも周囲の人に見られているような気がしてならない。

 それを新太に零せば、彼は「はっ!!」と何かに気付いたようで途端に両手で顔を覆ってしまった。


「……やらかした…………神様の服……」

「服? いつもの装束だが……特段変わったところは無さそうだぞ?」

「いやその、服のデザインがそもそも問題でして……殿下、周囲を観察して下され」

「…………何とも面妖だが味気がない装束ばかりだな。はっ、もしやここは奴隷達の街」

「いやまぁ社畜という意味では奴隷みたいなものですけど、これがこの世界の一般的な服装なんです! なのでその、神様の服は……コスプレみたいというか……あとその美しい金色のメッシュも……」

「なるほど、この上なく目立っていると」


 すみませんと平謝りで近くの服屋に駆け込もうとする新太を「よい」とムシュカは引き留める。

 けれど、と大柄な身体を丸めてどうにも落ち着かない様子の愛し子に、ムシュカはどこか生き生きした様子で「この方がむしろ、慣れておるからな!」と微笑みかけるのだった。


「実はな、見られれば見られるほど頭の霧が晴れるようなのだ。そう、視線を浴びると気分が良くなって……むしろ昂ぶってくるからな!」

「ちょ、神様しーーーっ!! その言い方は誤解を招きかねないですからっ、大声で言っちゃダメです、あっ、やばいお巡りさんが見てるっ! ね、ほら神様っ、あっち行きましょうあっち!!」

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