東雲の織物(1/5)
「……あなたが、神か……!」
「…………はい?」
――どうやら私は、一介の王太子から神へと格上げされたらしい。
しかも、かつての恋人によって。
目の前に広がるのは覚えのない、殺風景な部屋。
そして己の前に跪くのは、どこかあの頃の面差しが残る、けれどもやつれ果てた愛しい人の成れの果て……とおぼしき男だ。
己を仰ぎ見る瞳は消耗しきった雰囲気とは裏腹に、キラキラと……いや、これはむしろギラギラと、と評した方がいいだろうか。とにかく輝いていて、どこか鬼気迫るものを感じさせる。
そうして、互いの間に置かれた湯気の上がるどんぶり二つと、こちらを交互に見やる彼の口からは、今にも涎が垂れそうな勢いで。
(これは一体、どういうことなのだ……!?)
「あっ、あのっ、これ、食べても……?」と恐る恐る、しかしどこか有無を言わさぬ口調で尋ねる屈強な男の腹から響く轟音に、ムシュカは目眩を覚え心の中で叫びつつも「…………たんと食え」と震える声を絞り出した。
◇◇◇
話は3ヶ月ほど前に遡る。
「ムシュカ殿下、本日もご機嫌麗しゅう。実は折り入ってお話が」
「ああカルニア公か。すまぬ今は少々急いでおってな、また後日にしてくれ」
「え、あ、はぁ……」
政務の終わりを告げる鐘の音が聞こえるや否や、ここ神聖クラマ王国の王太子であるムシュカ・クラマは足早に階下の詰所へと向かった。
艶やかな黒髪に王族の証である金色のメッシュと琥珀色の瞳を合わせ持つ青年は、目を輝かせ明らかに浮ついた様子で白と青を基調にし金の刺繍が施された装束をひらめかせ、王宮の廊下を軽やかに駆け抜けていく。
今日は朝から大量の書類に忙殺されていたお陰で、窓からこっそり訓練風景を眺めることも出来なかったのだ。すれ違う臣下への挨拶すらおざなりになるほど気が急くのも、致し方ないだろう。
先ほどまで視界を白くしていたスコールも上がり、年中変わることの無い焼け付く暑さを和らげてくれた。そう、まさに今日は、絶好のデート日和というやつだ。
「ヴィナ! 鐘が鳴ったぞ、今日はどこに食べに行くのだ!?」
「ちょ、でっ、殿下、しーーーっ!! そっそんな大声で、お忍びの予定を暴露してはいけませぬ!!」
「そんなもの、今更であろう! 第一、我が騎士団の面々がこの私を止めるとでも?」
バン! と大きな音を立てて王宮近衛騎士団の詰所へと突撃したムシュカは、扉が開くや否や意中の人に向かって満面の笑みを湛え、弾んだ大声で誘いをかける。
その視線の先にいたのは、近衛騎士団の装束に身を纏い銀髪を短く刈り上げた大男だ。
分厚い胸板に逞しい腕、長年剣を振るっていることが一目で分かるゴツゴツした手。その額には三本の太い傷跡が残り、彼が歴戦の勇士であることを物語っている。
ムシュカの声を聞くや否や、ギョッと目を丸くし唇に人差し指を立てた男は、その体躯からは想像も付かない気弱な口調で己が仕える主君であり恋人であるムシュカを諫める。しかし、数時間ぶりの再会にすっかり盛り上がっている彼の耳に、愛しい人の忠告はいつも通り届くことがない。
むしろ「お主も楽しみにしていたであろう?」と無邪気な笑顔で返されてしまえば、男は「そ、そりゃ、まぁ……」と真っ赤になってもじもじ俯いてしまう始末である。
「ということで、今日はヴィナと夕餉に出かけてくるからな」
「かしこまりました! というか殿下、俺ら本当は止めなきゃいけない立場なんですけどね!」
「止めたら副団長がしょげてため息ばかりつくようになるから、十日に一度だけならって目こぼししてるだけですよ!」
「ははは、分かっておる! では身代わりを頼んだぞ!」
「あ、ええとその、すみません……」
こやつは私と美味い飯がないとどうにもならんからな! とご機嫌なムシュカにバンバン背中を叩かれ、ヴィナは恥ずかしさでますます縮こまってしまう。
――これが「魔熊殺し」の二つ名を持ち神聖クラマ王国最強の武人と名高い王宮近衛騎士団副団長、ヴィナ・ヤーナイの素顔だなんて誰が信じるであろうか。
(全く、私の愛しい人は今日も可愛いものだな)
ムシュカは内心にんまりしながら「ほら、さっさと着替えて行くぞ」とその無骨な手をぎゅっと握りしめた。
◇◇◇
我が国の王位継承順第一位であるムシュカ王太子殿下は、奴隷上がりながら武において国内に並び立つもののいない、異国の風貌をした年上の偉丈夫に熱を上げている――これは、クラマ王国に住まう者なら誰もが知る公然の秘密だ。
婚姻において性別の区別のないこの国において、庶民のみならず王族や貴族が同性を伴侶に娶ることは珍しい事ではない。
だが、王位に最も近い者が正室に世継ぎを見込めない相手を選ぼうとするのは前代未聞の珍事で、しかも王太子は器量よし、性格良し、政務においても有能と非の打ち所のない青年ときたものだ。
お陰で、いつもは貴族としてお高くとまっている正室候補やその家の者が筋肉ダルマに振り回され王宮は大変なことになっているのだが、お家騒動も端で見ている分には実に痛快らしく、市井では良い酒の肴、娯楽の種と化していた。
「……で、今日は麺か。お主は本当に麺が好きだな、ヴィナ」
「いやぁ、米もパンも肉も魚も全部好きっすよ? ですが麺は別格! 毎日6食麺でも飽きませぬ! ずずっ……はふっ……うむ、やはりここの激辛米麺は魚の出汁が効いていて、ほのかな甘味と酸味の後に熱さと痺れが……はぁっ、喉から胃に落ちていく感覚が……くうぅ、実に美味い!!」
「それは美味いという表現なのか……? いや、確かにこの辛さは病みつきになるが」
「でしょう? きっと殿下はお気に召すと思ったんですよ!」
軽装で身分を隠し、城下を視察するという名目で街中に繰り出した二人は、活気に溢れた屋台街の一角で小さなテーブルを囲み、額に汗を浮かべふぅふぅと麺を啜っていた。
――残念ながら本気でお忍びだと思っているのは王太子だけで、ヴィナは麺に舌鼓を打ちつつもずっと周囲に目を光らせているし、街の人たちも気付かないフリをしながらそれとなく全国民公認のカップルを見守っているのだが。
(ほんっと羨ましい、あんな美しい王子様を独り占めなんてさ)
(ああやって二人で街にいらっしゃるようになって3年……そろそろ4年? だっけ。早く正式に結婚しちゃえば良いのに! まあお若い二人だし、夜はもうがっつり仲良くしているんだろうけど)
(いや、あの騎士様の体格じゃムシュカ様は大変そうだな)
(……何言ってるのよ、そこは王子様が騎士様を組み敷いているんじゃないの?)
下世話な噂をひそひそと囁く彼らの声が届くこともなく、二人はいつものように夕餉を堪能している。
喉を焼く辛さに滴る汗を拭いながら、ムシュカはそっと目の前の男に目を向けた。
(……はぁ、本当に……いい男だなお主は)
三杯目のおかわりを豪快に平らげる恋人の幸せそうな顔が、ムシュカはいっとう好きだ。訓練の時の獰猛な眼差しもそれはそれで背筋がゾクリとするほど美しいと思うが、こんな恍惚に満ちた顔で食べられる麺は幸せ者(?)に違いない。
だと言うのに、この男ときたら……ふと過る羨望に、ムシュカの口からはつい本音がポロリと溢れてしまう。
「あ、殿下。まだ陽も落ちていませんし、デザートも頼んでいいっすか? この尖った辛い麺のシメには、やはりさっぱり甘いものが」
「それもよいがヴィナよ。お主の目の前には、もっと美味しそうなものがあるであろう?」
「へっ? ああこのジュースも結構美味しいっすよね、絞りたてで」
「そうではない。私も来月には19になる。……なぁヴィナ、そろそろ食べる気は無いのか?」
「っ、ブフォッ!?」
頬杖を突きこてりと小首をかしげて誘う、麗しい恋人の真意に気付いたヴィナは、一休みとばかりに含んだ水を盛大に噴き出し、ゲホゲホとむせ込んだ。
どうやら運悪く、唐辛子が気管に入ってしまったのだろう。まともに息が吸えていなさそうである。
(ちょ、聞いた!? 今、ムシュカ様から誘ったわよ!!)
(というかあの言い方じゃ、あの騎士様まだ手を付けてなかったのかよ! あんなにお盛んそうに見えるのに、意外だ……意外すぎる……!)
ゲホゲホと真っ赤な顔で咽せるヴィナの様子に、周囲の民衆はちらちらとこちらを伺っているようだ。しかし、今日こそはと色よい返事を期待し鷹揚に構えるムシュカにとっては些末事である。
そのまま待つこと数分。成り行きをワクワクしながら見守る視線を浴びながら、ようやく落ち着いたのであろうヴィナはプルプル震えながらか細い声を上げた。
「……殿下ぁ……」
果たして背中を小さく丸めたまま涙目でムシュカと目を合わせた偉丈夫の顔は、耳まで真っ赤に染まっていて。
……これは唐辛子のせいではなかろう。全く、今日も脈なしかとムシュカは少々落胆を覚え、しかしそれも愛らしくてたまらないと口元が緩んでしまう。
「そ、その……あの、そういうえっちいのは……せっ正式な婚儀のあとに……」
「何を固いことを言っておるのだ? 今どき好き合っている若人が婚前交渉も無し、口付けすら交わさぬままとか、天然記念物にも程があろう」
「いやっそうは仰いますが……その、俺の心の準備というものもありまして……」
「ふむ、毎夜隣で見ている限り身体は準備できていそうなのだが」
「そっ、その突っ込みは勘弁して下さいっ! あ、ほらっ、あまり遅くなるとまたバレて叱られますよ! さぁ戻りましょう!!」
(え、もしかしてあの二人……まさかのキスすら未経験!?)
(というか騎士様、あの風体なのにあんなふるふる震えながら「えっちい」って! 何あのギャップ! ……はっ、まさか王子様はギャップ萌え)
(おいやめろ、流石に不敬だぞ! 聞かれたら騎士様に連行されかねない)
もうこれ以上赤く出来るところが無いくらい狼狽したヴィナは、慌てて立ち上がりムシュカのすらりとした手をそっと握る。
そのまま王宮の方へと駆けていく二人を、民衆は呆然と見送り……そして屋台街は新たな酒の肴が出来たとすっかり盛り上がるのである。




