ゾヌリの選択
カエサルの娘、ユリアが暗殺された。
これによって再び政局が動き出す可能性を持っていた。
ユリアが凶刃に倒れたその夜のこと。
カルビエンヌの邸宅に黒い細い影が現れた。
暗殺者、ゾヌリだった。
静かに邸宅に入ると、カルビエンヌの個室に姿を表す。
数人いるカルビエンヌの部下たちの前を通り抜けて本人にユリア殺害の報告を行った。
報告を受けてカルビエンヌは満面の笑みを見せる。
「よくぞやり切ってくれた。どれ褒賞を払わなければな。それよりも今、ちょうど高級な酒を手に入れたんだがお前も飲むか?」
ゾヌリは冷たく、いらない、と答えた。
「残念。時々は良いものを食べ良いものを飲むことも大切だぜ。まあいい、今後もお前に頼むことがあるだろうがよろしく頼む。」
ゾヌリは市内での反応も知っていたが表情も変えずに返事をした。
「ああ。」
「お前がその気であれば、私の部下にしてやってもいいぞ。」とカルビエンヌなりに最大限の褒賞の話をした。だが、ゾヌリにその気はないようだ。
「部下にはならない。今までどおり、だ。」
「そうか、それは残念だ。」とカルビエンヌは本当に残念そうに言う。
ゾヌリは、この男の部下になればひたすら汚れ仕事をさせられるのは眼に見えていた。
それよりも
ゾヌリは自分の暗殺で珍しくちょっとしたミスがあったことを気にしていた。
ターゲットの胸に刺さるはずの短剣の軌道がずれた。
何かが短剣にあたったようにも一瞬感じられたが、それは何か今やわからない。
もしかしたら暗殺という仕事に自分自身が拒否反応を示しているのかもしれない。
それとも大物の娘という対象者が今までにない人物だったことや、警備の間をくぐっての暗殺に緊張をしたのかもしれない。どちらにせよこのままカルビエンヌの使いとして暗殺をしていくのは危険だと感じていた。
少し雑談をしていたところで、カルビエンヌの部下が袋いっぱいの金貨を持ってきた。
そのままカルビエンヌに確認したうえで、ゾヌリに渡される。
袋に入った金貨がずっしりと重いのを感じてゾヌリはうれしい気持ちになった。
だが、そのままでは素早く動くことが難しいため、背中の袋に入れなおしてカルビエンヌに挨拶をして立ち去ろうとする。
そこで、少し距離があるところからカルビエンヌがゾヌリに言う。
「わしが暗殺者を雇ったということがわかったら、ポンペイオスの怒りはすさまじいことになる。」
ゾヌリはそれは当然だろう、と思い立ち去ろうとする。
「だから、証拠は残してはならないのだ。」
危険を察知したゾヌリは走って逃げだそうとしたその時。
カルビエンヌの部下たちがゾヌリに切りかかってきた。
寸前で身をひるがえして剣を交わし、逃げようとするゾヌリの足に矢が刺さり、動きが止まる。
その瞬間、痩せた乞食のような凄腕の暗殺者は身体に矢が刺さるのを感じた。
痛い、と思った瞬間、剣で身体を切られていた。
「俺の金。」
それだけ言ってゾヌリは絶命した。
「よし、後片づけをしておけ。」カルビエンヌの声。
「はい。まだローマ市内は暗殺事件でばたついている。争ったような跡をつけて、こいつを川沿いに捨てて来い。」
「了解です。」
こうして暗殺事件は闇に葬られた。
翌日の朝、ゾヌリの死体がテヴェレ川沿いで水死体となってあがってきて市民は大騒ぎになった。死体の持っていた短剣こそ毒のついた短剣で、どうも仲間内で争いがあったようだ、という。すでに死体にあった金は盗まれていた。
暗殺を指示された暗殺者だが、これでは跡をおいかけることも難しい。
ローマ市内はカエサルの娘ユリアとユリアを殺した犯人の死亡でざわついた。
ゾヌリの死体は、金がすべて取られているところから、盗賊の可能性が高いとも言われた。
普通、このような通り魔的な犯罪に対して細かな追及がされることはないが、今回は現役執政官であるカエサルの娘もからんでいるということで役人たちは、さらなる調査をすることになる。
これには門閥派も賛成した。もちろん、自分たちが加害者であることを隠すためなのだが。
門閥派が気にしたのは、カエサルの娘が死んで有利になるのは明らかに自分たちだったため、そういった世論が湧き上がるのを抑えこもうと考えた。
だが、カエサルもポンペイオスも新時代派はそういった論戦にうってでることはしなかった。
ユリアが襲われた事件から数日が経過した日、
カエサル家では、葬儀が行われようとしていた。
ローマの貴人の葬儀は、厳かながらもしっかりと行うのが常だった。
華やかに市民を巻き込んで行うものもあれば、身内だけで静かに行われるものもあった。
この日、カエサル家で行われていたものは、身内だけの静かなものだった。
遠くから見ていた市民たちで事情通は、カエサル家の娘ユリアが亡くなった葬儀だと騒ぎ立てた。
カエサル家の墓に向かうのではなく、故人を入れた箱は力強い職人たちが持ち上げてカピトリーノの丘にあるポンペイオスの邸宅に運び込まれた。
夫婦になるであろう予定だった人の家で数日を過ごして墓に入れられるのだろう。
それから数日、カエサル家とポンペイオス邸の行き来は活発化した。
すでにゾヌリから暗殺に成功したと報告を受けていたカルビエンヌは、自分の笑顔を隠せそうにもないため、元老院にも登場せずに自分の邸宅で過ごす。
実力行使に出た門閥派は元気を取り戻し、カエサルの法案の再度の見直しを求めて検討をする会議を開催しだした。
ユリアの死によって、新時代派、特にポンペイオスとカエサルの間は難しい状況になったのだ。新時代派を追い詰めるとしたら今が千載一遇のチャンスと思われた。
カエサルたちが成立させたユリウス農地法が推し進められてきているなかで、門閥派は再び勢いを取り戻そうとしていた。
それから数日して、久しぶりに元老院に顔をだしたポンペイオスから多くの元老院議員に、式典の催しの報告を受けた。
重大な発表を自邸で行いたいと話があがる。
「私は、近々妻となる女性を迎え入れる予定でした。だが先日、その女性が結婚の準備をしているときに不逞な輩に襲われるという事態が発生し残念な結果になっている。
私は不逞な輩を許さない。そしてそれによって私の予定を変えるつもりもない。同じ志の方々はぜひ我が家にお祝いに赴いてほしい。日付は7月の15日としている。」
結婚式とは言わなかった。そしてその女性が殺されたとも言わなかった。
ローマの上流階級に見られる、言葉の行間を読んで察せよ、ということなのだろう。
元老院の人たちは理解を示し、最も影響力があるとされる男、ポンペイオスの気持ちを慮り、拍手が起こった。
そのあと、ポンペイオスは部下に命じてローマ市内にも同じ用に情報を伝えるように言った。
その前後数日にかけて、健康で執政官になって今まで1日も休んだことがなかったユリウス・カエサルは休みを取っていた。
ポンペイオスとは違いカエサルに好き放題されている元老院の議員たちの中では、悪口を言うものもいた。
「今まで好き勝手をやっていたから罰が当たったに違いない。」
「これで新時代派も空中分解かな。」
「今後の行く末をみないといけませんな。」
そんな声もあがったが、穏健派を中心にカエサルとポンペイオスの状況に同情する声が強く、クラッススも笑い飛ばすことができない空気になり、門閥派も反新時代派として大っぴらに動きづらい状況になった。
ユリアを殺したゾヌリは、味方のはずのカルビエンヌに殺された。
そしてユリアを殺したことで門閥派の中でも発言権を強化していくカピトリヌスだった。




