属州ヒスパニア・ウルキオルの想い出
カエサルの部下になったバルブス。
ヒスパニア属州統治を振り返る。
赤みがかった茶色い肌をさすりながら男は、必死にローマの貴族のしきたりを覚えようとしていた。
綺麗な緑、黄などの色みが付いた装飾のカップに口を付けて、中の緑色の、貴族の女性達の間で流行っているという甘味のないハーブティーを喉に流す。
雑草を煮詰めたお湯だ。
吐き出しそうになるのを我慢して飲む。
自分はヒスパニアで、主と決めたカエサルに連れてこられて、カエサルの手伝いをするために来たはずだった。
しかし、主からの指示はハーブティーを楽しめ、ということだった。
泣きそうになりながら、カエサルとの出会いを振り返る。
ローマに来て、その街の造りに圧倒されていた。
街の周囲を巡る巨大な城壁、そしてその入る前から何階にもわたる高い建物が所せましと並び立体的な街を作っていた。そして何よりも膨大な資源をつぎ込んで作られた多くの公共の建造物、街路からも見える丁寧に育てられた緑の木、商売も1階にとどまらず2階にもさまざまな店が軒を連ねていて、店の中でも食べ物飲み物を楽しんでいる風景も見られた。人が重なり合うくらいに混雑した道路と、立体化された水道。ヒスパニアには存在しないものだった。
最も感心させられたのは人々の行動だった。市民集会が行われて、護民官が提案をする。話は聞いていたが、実際に行われているのを見ると感動である。
書物や伝聞では聞いていたローマ市民権を持つ市民が参加して国政が成されていることが実際にどのようにされているか、あれこれ想像していた市民集会を実際に見て、ローマ市民の知識の深さを感じて鳥肌が立っていた。
この素晴らしい国で私は成り上がってやる。
そのためにも借金王カエサルに執政官になってもらわなければならない。
彼の考えの全てを自分は見通せない。だから信じて飲もう。
改めて心に誓いながら、出会った時を思い出して、気合いを入れてハーブティーをのみあげた。
バルブスは雑草の味しかしないハーブティーを飲み干して、直ぐに葡萄酒で口直しをした。
着いていく人間を間違えたか、そう思ったがぼやけてきた頭は過去を思い出させる。
なけなしの金を使いきってギリシャ留学まで行い、ギリシャ語を修め、様々な哲学、修辞学、地理学、歴史、法など学びを深めて意気揚々とヒスパニアに戻ってきた若かりしころの自分。
その知識を生かしてヒスパニア属州で官僚として活躍しようとした若きバルブスの前に立ちはだかったのは、何年も前のローマの属州総督の部下達だった。ただ属州から富を奪おうとする奴らに反論し、議論で相手を退けたバルブスは、意気揚々と帰っているところを襲われ一方的に殴られ、財産を奪われた。
それから暴力に恐怖を覚え、ローマ軍と出来るだけ関わりを避けてひっそりと暮らしてきたバルブスだったが、まだ夢を捨てきれずに街のはずれで生活をしていたところで、気さくな痩身のローマ人が現れて、ローマやエフェソス、はたまたアレキサンドリアの世界の富について話をしてきた。
最初、ローマから来た能天気な貴族を相手にしなかったバルブスだった。
しかし、新しい属州総督は、属州税を改革するつもりだ、というその男の一言でバルブスは男の話を聞くことにした。
何てことはない。
気さくな人物こそ、主であるカエサルだった。
自分の構想をこっそり話して、手伝える人間を探していた、という。
「君の手を借りたい。」
その一言は魅力的だった。
しかし、その構想はバルブスを驚かせた。いや、バルブスは最初、理解ができなかった。
やってみればいい。
そんなことが効果を上げるものか。
私が本当に仕えるべき主であるか試してやろう。
そう思って、属州の豪族達、徴税役人達に周知するため簡単な手伝いをする。
誰もその効果をあまり理解しないままに始まった単なる周知だった。
税を上げるとか、新しい税を作るというのではなかったため、官僚たちも地元の豪族も誰も反対せずに始まった単なる総督通達は、税制を何も変えず、それだけで民衆の税を軽減してみせたのだ。
通達が伝わる度に、様々な方面から問い合わせが入る。人々は、俺はローマ市民権を持っているのか、持っていないのか?という確認に始まり、税の正確な量の確認に至る。
当分の間、バルブスも同僚達も多くの人の質問責めをこなすだけの毎日になった。
総督通達が全てを変えたのだ。
この男は法よりも何よりも「人」を理解している。そう気がついた時に、やっとバルブスは衝撃を受けた。
仕組みは簡単だった。
今までの属州総督は、徴税役人に任せるだけで、徴税役人は好きなだけ税をとる。その契約した地域の住人であれば誰でも。
しかし、ローマの法では、ローマ市民権を持つものは財産に応じた税の支払い、売買に関わることでの税があり、属州民で、ローマ市民権を持たない者には収入の10%が税とされていた。
そのルールを厳密に守るように総督の通達がされた。
従来、人々は徴税役人の言う通りに払っていた税だが、目安が明確にあると疑問を投げ掛けることもできる。ローマ市民権のあるなしで税制が変わってくることを知る。市民権を持つならこれくらい、市民権を持たないならこれくらい。それによって納める必要のない税が明確化された。
当然属州総督のカエサルの懐に入る税も減ったのだが、借金王は金を稼ぐチャンスを自ら投げ出していて、まったく気にしない風だった。
属州の多くの民から感謝され、ご満悦の様子だった。
そして、バルブスがさらに驚いたのはここからだった。
少しして通達が行き渡り、徴税役人は渋い顔をし、属州の民が笑顔で過ごすようになってから、民から新しい総督への寄付が相次ぐ。
税が軽くなり、余裕の出来た民が感謝と信頼の証、そしてこの公平な統治が続くことを祈って持ってきたのだ。
その光景を見ながらカエサルは笑って、
「感謝されて寄付を持ってきてもらう。互いに嬉しいし無駄がないよね。」
と笑って言った。
それ以上深くは言わない主の眼には自信が漲っていた。
その後も、属州民を痛めつけて税をさらに搾り取ろうとする行為が馬鹿馬鹿しくように感謝の寄付は留まることを知らなかった。
属州民からすれば、ローマの税制を初めて正確に理解した。属州の民達は今後も過剰に取られることがなくなったのだ。公正な属州総督にお礼を言いたくもなるだろう。
主と選んだ男はここまで予想していたのか?
偶然か、それとも計算なのか。
笑顔で葡萄酒を美味しそうに口にするカエサルからは何も心は読み取れなかった。
なんとすごい為政者だろうか。
これが初めての属州統治という。
もっとすごいことをするに違いない。
女ったらしの借金王と言う噂だった男は、ローマを、世界を変えるか知れない。
バルブスは自分の直感を信じることにする。
カエサルの部下になった。
その結果がこの雑草煮込み汁だ!
主を間違えたと反省をしていいのか迷いながらバルブスを見ていたジジが言う。
「バルブス、苦いと思うとダメだ。苦味が身体をめぐると思って楽しむんだ。実際に良家の奥様方は身体をめぐる感じを好んでおいでだ。」
理屈はわかるが、煮汁が飲めるようにはならない。
「俺は良家の奥様方とはわかり合えないな。」
と文句を言いながらジジを見た。
この男は小さな頃からカエサルの付き人として活躍してきた。当然信頼も厚い。
しかし、カエサルが少しは出世したものの借金王であることを考えると自立すべき、等と考えないのだろうか?
「カエサルは私が思い描けないことをしてくれる。私はそれが楽しくてしょうがないから彼に一生仕えることに決めている。」
「儲からないだろう?」
「生きては行ける。後は人生をどう楽しむか、だ。」
「それは人ぞれぞれだな。」
ジジの意見はわかった。
せっかく奴隷から解放奴隷にしてもらったのにな。
バルブスにも少しだけ気持ちはわかるが、自分の目標を達成するためには危険な感情だった。目標は彼の田舎町を再興することにあった。そのためにも自分だけが人生を楽しんでいるわけにはいかない。
そう思い、苦いハーブティーを飲み下した。
新しい仲間となったバルブスを加えてカエサルは動き出そうとしていた。