農地法
ついにカエサルの今回の目的のひとつであったローマの立て直しのための施策、農地法が取り上げられた。農地法とはどのような法案で、どのような経緯をたどってきたものだろうか?
禁忌の法と言われている。
その法案を進めることで、神聖なる議事場に血が流れ、英雄の子孫が殺されるという凄惨な事件が起きた。
それはローマの階級闘争の最たる証だった。
王政から共和制になり、人々の意見が通るようになってからどれくらいたっただろうか。
最初に提案されたのは遥か昔。
カエサルが生まれる400年も前に遡る。
貴族と平民との絶え間ない闘争のなかで、最も貴族たちが譲らなかった最後の砦だった。
ローマ建国から貴族だったものたちは当然、反対していた。
元老院に入ることができたもともと平民あがりから名を成して貴族や騎士階級となった者たちにとっても触れることを恐れた禁忌。
それは土地の再配分を求める法案で没落した農民たちや無産階級を助けるはずのものだったが、既得権益を持つ特に貴族や騎士階級の者たちが反発をし続けたのである。
それでもローマがイタリア半島に収まっていたころはよかった。
その頃はローマとローマの同盟している都市がそれぞれに自治を行っていたから、平民が活躍できる場所はまだまだあったのだ。
しかし、時代は進み、ローマが巨大化してくると、自分の農地を持っていたはずの農家は広大になったローマの属州とその安い労働力を使った大規模な農園から、安価な作物が大量に手に入るようになったため、今までは何とかやっていけていた普通の農民は没落していった。
土地を担保にいれて、それでも足りず土地を売り払い、小作人や奴隷になる者、身一つで都市にすがる無職者になるか犯罪者になるものがどんどんローマや大都市に流入していった。
それによって郊外の耕地はローマの有権者が不足して、地域を支えていたコミュニティは崩壊しつつあった。どのような苦難の時もローマを支え続けていた誇り高きローマの有権者たち、地域の住人たちの生活が崩壊していった。さらに悪いことに、その元有権者たちが着の身着のままローマを含む大都市に流れ込んでくる。そうすると大都市は過度な人員の増加で、家賃が高騰し治安は悪化、衛生面でも悪化の一途をたどる。福祉政策のための費用がかさみ財政は慢性的な赤字という悪循環に陥っていた。
農地法とは、ローマの土地の再分配を進める法案である。
急速に領地を拡大した領地の活用が、元老院議員の息のかかった裕福な商人や土地の豪族が広大な国有地を借用することで、まるで我が物のように扱うようになっていたことが大きな問題だった。
元老院議員は、自分で商業活動などを実施できないため、代わりに自分の代替えで開放奴隷など家門のものが請け負うことが普通だった。それでも元締めは元老院議員である。多くの元老院議員が広大な土地を持ち小作農、奴隷を大量に従える商人や豪族たちを傘下に収めていた。
だからこそ、誰もが土地の再分配を実施したがらなかったのだ。
先見の明を持っていたカッシウスがこの改善を提案してから400年。状況は悪化の一歩をたどり、拡大して暗部が見えにくくなったローマ市内は歩くことすら危険な裏路地がいくつもあった。
400年前、最初の提案者カッシウスは反逆罪で殺された。
100年前、ポエニ戦争の救国の英雄コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス。その孫でローマ市民にも絶大な人気を誇っていた2人の兄弟が、ローマのために実現しようとした農地法は、元老院の猛反発を経て2人とも殺された。
それからさらに100年が経過。放置され、埃を被っていたその禁忌の法案にユリウス・カエサルが手を付ける。
浮わついた感じで女ったらしの借金王が手を出してしまったのではなかった。
周到な準備をして、誰も成せなかった社会改革を行おうとしていた。
カエサルが執政官に就任して三度目の主執政官になった初日、挨拶と共に、議場「参加したすべての議員に対して、分かりやすく丁寧にローマの現状、問題点を説明した。
そして、問題の根本にある課題と、未来の暗い予想までを説明する。
ここまでについて、理解を示す議員は多かった。皆が集中して聞いている。
順を追って説明した最後に建て直すために、次の法案を提出する、と言った。
諸兄においては積極的かつ前向きに議論に参加してほしい、として。
名前は、ユリウス・カエサルの名を取ってユリウス農地法とした。
しかし、農地法であることに変わりはない。元老院の大半はその名前だけで全面的に反対に回ることになった。
元老院から全面的な反対を受けたカエサルのユリウス農地法。
どのようにして成立させるのだろうか。
ついに、ポンペイオス、クラッススを含む新時代派が元老院に牙をむく。




