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【>>短編置き場<<】

メドゥーサ

作者: 滝岡尚素

 長い黒髪を靡かせる少女は整った容姿をしていた。道を行けばすれ違う者が抗い難く振り返る。特に、この世のものとは思えぬほど透き通った漆黒の瞳が印象的だ。

 ところが当の女の子は誰が話しかけても素っ気なく返答は常に一言。あからさまに非友好的な態度をとるのが常で、初めは笑って話しかけていた人もやがて避けるようになる。

 要するに、わざと人を寄せ付けないようにしている。おかげで高校生になって初めての夏休みが近いと言うのに只の一人も友達が居なかった。


 彼女は月に一度、学校を休んで病院で診察を受けている。

 この日も診察室で椅子に座り、 藤原(ふじわら)という医師と対面していた。彼は穏やかな物腰の五十代で、この患者を子供の頃から診ている。

「調子はどうかな」

 藤原は『三角(みすみ)はるか』と患者名の入った検査結果をざっと眺めている。A四の紙に、項目名と数値が羅列されていた。

「いい感じです。特に変わったことはないです」

「そう。まあ、検査の値は問題ないよ」

「そうですか、良かったです」はるかはほっと息を吐く。

「で、高校はどうなの」どこか父親のような言葉遣い。

「別に、普通です」相変わらずの素っ気ない応答。

 慣れているのか、藤原は戸惑うことなく続ける。

「三角さん。これ、前にも言ったことあると思うけどさ、友達は作った方がいいよ。身体は大丈夫なんだから」

「いえ、一人が好きなので」諦めた笑いで椅子から立ち上がった。

「お大事に。薬は朝晩、食後にきちんと飲むこと、いいね?」

 頷くと診察室を出た。すこし心配そうに藤原が見送る。

 彼女は、普通の人と同じ暮らしをするには薬を飲み続けなければならない。きちんと飲んでいるうちは大丈夫だと分かってはいる。何となく恐ろしくて他者を遠ざけている。距離を保っていれば、迷惑を掛けることはないから。


 病院からの帰り道、とある民家の前を通りかかる。

 一階部分、ガレージのシャッターが上がっていて中が見通せた。奥、壁に向かった長い作業机に男が座り、こちらからは丸まった背中だけが視認できた。金属と金属がぶつかるような甲高い音がリズミカルに聞こえる。

 気配に気付いたのか男が振り返った。立ち止まっていた女の子と目が合う。彼は特段驚いた様子もなく、人影(はるか)を認めると口を開いた。

「こんにちは」良く通る声。若い男だ。短くした黒髪の下に優美な容貌があった。

「ど、どうも」

 驚いた為か、はるかの声は掠れていた。近所付き合いのつもりだったのか、男は挨拶は済んだとばかりに首を戻し、また壁に向き直ろうとした。

「あの! 何をしてらっしゃるんですか」

 考えるよりも早く科白が口をついていた。自分でも驚いた。いつもは人を遠ざけ、接触を避けていたと言うのに。

「ああ、見ますか?」

 改めて振り返った男は訝ることなく自然だった。上体を逸らして身体を開き、キャスター付きの椅子を巡らせてガレージの入口で立ち尽くす女子高生と向き合う。

 これはきっと入れってことだよな、と恐る恐る足を踏み入れる。歩き、彼の隣に立った。手元を覗き込み感嘆の声が漏れた。

 銀細工だった。掌にのるほどの大きさ。アゲハ蝶だ。羽の模様、目や触覚に至るまで生きていると紛うほどの精密さ。それを手に持った電動の工具で磨いている。羽に工具の先端が触れる度、高い音が鳴って削れ、解像度が上がっていく。

「綺麗……」かそけく呟いた。

 手を止めた男は顎を上げた。彼女をじっと眺めると何度か瞬きをして作業に戻った。

「アクセサリーなんですか?」

「いや、そんな風に機能を持ったようなものじゃないよ。これは、これ。ただのアゲハ蝶。これを作りたいから作ってる」

 オブジェと言うことなのか。長机の上には今までの作品がずらりと並んでいる。カミキリムシ。カマキリや、クワガタ。昆虫ばかりだ。どれもが今にも動き出しそう。未知のテクノロジーで実物が無劣化で銀にされたような精密さだった。

「凄いですね」出せる讃辞は限られていた。

「大したことないよ。どう頑張っても」

 本物には敵わないからね、蝶から目を離すことなく、諦念を滲ませた。


 彼の名前は上総(かずさ)(あきら)。調べたら美術界では有名な彫刻士だった。通称メドゥーサ。本物を銀で固めたような精解な作品を生み出すことから呼ばれるようになったらしい。

 はるかは下校途中などに頻繁に上総のアトリエであるガレージに訪れるようになった。自分のことを彼がどう思っているのかは分からなかったが、取り敢えず拒まれたりはしないので深くは考えないことにしている。友達、という感覚ではなかった。職人と見学者、その表現が最も近い。

 ルーペを頭に掛けた上総が、小さな蝶の羽を削っている。シャッターを上げたガレージの入口から熱い大気が流れ込んでくる。今日は風があって、暑さはあまり感じなかった。

「三角さんは銀細工に興味があるの?」

 男は手を止めずに訊いた。はるかはガレージの隅に転がっていた丸椅子を勝手にマイチェアとして所有権を取得し、隣に置いて座っている。

 彼の指はピアニストのように長く、凛としていて爪は綺麗なアーモンド形。迷いなく工具を操る。彼の手の中でそうとしか思えないモンシロ蝶がリアルタイムにレンダリングされていく。舞い上がる鱗粉さえも見えるようだった。

「こうして作業を眺めるのは、好きです」膝に手を置き、顎を引いて答える。「どうして昆虫ばかりなんですか?」と、続けた。

「機能的で緻密、だからかな。必要なものだけが小さな身体に無駄なく収まっている。その整然さが好きなんだ」

 はるかにはぴんと来ない。

「あたしはちょっと苦手です。蝶とかは、美しいと思いますけど」

 上総が手を止め頭を上げた。心なしか笑んでいて、彼女をどぎまぎさせる。

「出ようか」ルーペを外し、机に置いた。

「え……ちょっと待って下さい」

 戸惑う女子高生を残して男は立ち上がり外に出て行く。慌てて後を追い掛けた。


 裏に回り、そこから少し歩くと空き地に出た。一面に背の低い草が生えており、季節柄か青々と風に揺れている。遠くからうんざりするほどの蝉の鳴き声が聞こえた。大気に乱反射して必要以上に大きくなっている鳴き声は、浮足立つ夏の雰囲気を掻き立てた。

 ──何だか、不思議。

 気付けばあたしは彼と空き地に立っている。心の説明しづらい部分がふわふわとした。

「ほら、ここ」

 上総が指差す(くさむら)。一匹のトンボが止まり羽を休めていた。淡青色の身体に透明な羽。黒い頭をあっちこっちに回し、どこかコミカルな動きだ。

「シオカラトンボだよ。どう? 美しいでしょ」

 上総がそっと腰を下ろす。はるかも続いた。機嫌が良かったのかトンボはそこを離れなかった。

 二人で鑑賞する。

「ああやっぱり、僕の作品はまだまだだね」

 ちっとも悔しくなさそうに上総が呟く。はるかは目の先にトンボを捉え、記憶の中の上総の作品と照合してみる。違いが認識できない。少なくとも、材質以外、両者に差異はないように思えた。

 そっと、隣の男を窺った。うっとりとトンボを眺める彼は、隣の女子高生のことなど忘れているかのように油断しきった表情。

 ──確か、二十三歳。

 ずっと幼く思えた。自分より七つも上だなんて信じられない。どうして昆虫の銀細工を作り続けてるんだろう。どうして私がアトリエに来ても拒まないんだろう。

「どうかした?」トンボから目線を切らずに彼が言った。きっと最初から、隣の女子高生の視線には気付いていた。

 不意を突かれ「いえ、何でもないです」と慌てて口にし、音に驚いたトンボがどこかに飛んでいった。


 今日は一時間目が始まる前から憂鬱だった。薬を飲み忘れたからだ。しかも鞄に入っていると思っていた予備の薬もなかった。分かった時点で早退しようかと思ったものの、まずいことに今日は昼から化学の小テストがあった。成績上位を己に課している身としては落とせない。医師の藤原からは一度くらい飲み忘れても問題ないと言われてはいるが、周囲の視線が気になった。頻繁にハンドミラーで自分の顔を確かめる。兆候があれば、それで分かる。

 チャイムが鳴って四時間目が終わった。安堵すると鏡に自分を映し、息を飲んだ。はっきりと、血の気の引く音が聞こえた。

 まずい、薬の血中濃度が基準を下回ったらしい。ストレスや体調の変化で濃度は変動すると藤原も言っていた。化学の小テストは残念だが諦めるしかない。荷物を纏め、そそくさと教室を後にした。


 職員室で先生に早退することを告げる。事情を話してあるためすぐに了承される。いつもの帰り道と違って人通りのない道を選び、殆ど駆け足で下校する。たちまちこめかみを汗が流れた。右肩にぶつかるものがあった。ぎょっとして何が当たったのかを目視した。トンボだった。これはシオカラトンボだと先日、上総に教えてもらった。小さな頭を回している。真っ黒な複眼がはるかと目を合わせた。

 ──しまった。

 右肩に止まったままシオカラトンボの硬化が始まり、ものの数秒で終わった。犬や猫、ましてや人間でなかったことが幸いだろう。摘まんで取り、そっと通学鞄に入れる。これ以上なにとも目を合わせないようにしなくては。

いっそう目を伏せ、駆け、家路を急いだ。


 家に帰って薬を飲み、効いてくるまでは自室に籠もることにした。ベッドで横になって天井を睨む。時々ハンドミラーで確認しては、金色に染まったままの瞳に溜め息をついた。

 ──メドゥーサ、か……。

 上総がそう呼ばれていると知り親近感を持ったものだ。

この病に敢えて名前をつけるなら『特発性視神経異状症』。瞳が金色になった状態で生物と目が合うと対象を石化してしまう理不尽な病気だ。ちなみに、無機物には効かない。

 発症は小学生の頃。石にしたのは野良猫だった。小学校の近所に住み着き、下校時の児童から給食の残りをせしめていた猫。真っ黒で不愛想でクリアイエローの瞳が綺麗だった。いつも、わざと残した食パンの欠片を与えていた。

 朝から頭が重く、どこか熱っぽい日だった。どうにか放課後までやり過ごし、校門を出て友達にさよならを言った。帰り道を少し歩くと猫に出くわした。しゃがみこんで食パンの欠片を取り出し、黒くしなやかなものが悠然と近寄って来るのを待った。目の奥が疼き、瞼を閉じた。やがて違和感が消えたので目を開いた。この(かん)も距離を詰めていた黒猫と間近で対面する。

 パンをかざし、微笑んだ。黒猫は食事にありつこうと体勢を低くした。

 滑らかな黒い体毛が身体の中心から波紋が広がるように灰色に変色する。猫だったものは石と化し、首を屈めたモーションのままごとんと言う音を伴って横に倒れた。地面と平行になった肉球が可愛かった。

 パニックになりながらも逃げ出した。後から考えればよくあの場から動けたものだと思う。もしそこに留まっていれば、沢山の被害者を出したはずだ。尤も、発症したばかりのはるかに人間などの大きな生物は石化させられなかった。せいぜい頭痛や眩暈、吐き気を起こさせるくらいだった。

 家に帰って鏡と対面し、恐ろしさの余り泣いてしまった。

 一目、異様だった。鮮やかな金色の瞳だ。両親は気分が悪くなりながら娘を病院に連れて行った。何軒回っても原因が分からず、最後に行きついたのが藤原医師だった。眼科の権威で、女児の視神経の異常に気付いた。

 彼によれば、原因も理由も不明だが眼底からある周波数の電波が出力されており、目が合った生物の分子活動を遅くするか、完全に停止させてしまうのだと言う。医師は試行錯誤の末、症状を抑える薬も探し当てた。

 以来、今日まで誰も、何も石に変えることなく過ごすことが出来ていた。

 さっき、あのシオカラトンボに出会うまでは。


 学校から帰って一時間後。

 もう一度ハンドミラーで瞳を確かめる。ようやく普段の色に近づきつつあった。ひどい頭痛がする。薬の副作用と言うよりは病気じたいの影響に思えた。いつだったか、藤原が言っていたことを思い出す。

『どうやら君が成長するにつれ力は強くなっていくようだね。万がいち抑えきれなくなったら薬の量を増やして対応しよう』

 ふと考える。

 薬で抑えられている内はまだいい。しかし、自分の力が上回ってしまったら一体どうなるのだろう、と。


 数日が経った。

 明日から始まる期末テストに備えて四時間目で授業は終了した。素早く下校する。上総のアトリエの前を通りかかり、足を止めた。奥にいつもの背中があってほっとする。

 あんなことがあった後なので念のため鏡で目の色を確認してから中に入った。

「あれ、何だか久しぶりだね」隣に立ったはるかに笑いかけた。

「ちょっと用事がありまして」

 頭を掻いて、隣に置きっ放しになっていた丸椅子に腰を下ろす。今日、上総の手元にあるのは銀色に光るトンボだった。恐らく、空き地にいたシオカラトンボがモデルだ。相変わらず怖いくらい実物。だけど彼には物足りないのだろう。どこか腑に落ちないような顔でトンボを様々な角度から確認していた。やがて工具を取り、削り始める。

 あ、そう言えば。

 鞄に入れっぱなしだったことを思い出す。床に置いてあった通学鞄を膝に乗せると中味を確認した。例のトンボは原形を留めたまま鞄の隅で仰向けに転がっていた。あたしに遭遇しなければ生きていたものだ。捨てるのは気が引ける。部屋に置いて来ればよかったな。そっと手に取ってみた。生きていた頃の名残があるように思えた。

 ごめんね、と小さく詫びた。鞄に戻そうとして、ふと悪戯心を起こした。

「これ、どう思いますか」石トンボを彼の目線に運んだ。彫刻士が頭を上げる。石像を一瞥して、狼狽えたような、たじろいだような表情をした。小さな像を震える指で差す。

「見せてもらってもいいかな」

 彼はゆっくりとトンボの像を摘み上げた。おお、とか、ああ、とか言って、黙り込んだ。

 掌にのせたトンボを自分の目の高さに捧げ持ち、静かに、涙を流す。

 困惑する。正直、それほどの事なのかと。とは言え気持ちは分かる気がした。はるかがうっかり石化してしまった像は彼にとってそれほどの価値を持ったものなのだ。たとえ、他の誰に無価値であっても。

「どこで……これを?」依然、目線はトンボに向けたまま。

「あ、それは、ですね」

 返答に詰まる。まさか泣くだなんて。はるかの予定では内緒にするか、道に落ちていたことにして、軽い感じで終われるはずだった。

「道で拾った、なんて言わないよね」

「ええと……その」目を泳がせる。

 別に病気のことは秘密ではない。ただ、説明しても分かって貰えるのか、いっさい信じて貰えないのではないかと恐ろしさの方が先に立つ。

「もしかして、君の目と関係があるのかな」

 驚く。同時に、なぜ自分がアトリエに入るのを拒まれなかったのか腑に落ちた気がした。

「今から話すこと、信じてくれますか」

 勿体ぶるのは嫌いだったが、事前に確認しておきたい。

「きっと、これの前ではどんな話でも真実に聞こえるよ」

 上総は頷いて視線をまたトンボに戻す。言葉に勇気を得て改めて口を開き、自身の体質を説明した。


 子供の頃から、上総は昆虫を捕まえて眺めるのが好きだった。カブトムシの腹を飽きるまで何時間も眺めたり、葉脈のようなトンボの翅をスケッチしたり。

 彼が銀を彫るのは昆虫の構造を確認する作業だ。生み出されるものは副産物でしかない。無論、どれだけやっても本物を作ることなどできないと理解している。限りなく近づけることは出来ても、それらはしょせん偽物だ。最近では、永遠に納得などできはしないと諦めるようになってもいた。

 それがどうだ。今、自分の手の中に本物がある。聞けば、瞳から出る電波で石化させたのだと言う。

 笑ってしまう。笑うしかない。まさかこんな近くに『本物の』メドゥーサがいたなんて。自分はただの紛い物でしかなかった。おまけに力が足りず不完全で、昆虫たちを苦しめている。

 ところが、そんな奇跡の目を持つ少女は悲しそうだった。想像するに、目の所為で色々と制限があるのだろう。生き辛いことは想像に難くない。で、なければ、こんなアトリエの存在には気付きもせず、今頃、彼女の春はもっと青かったはずだ。


「──だから、トンボはあたしが石にしちゃったんです」

 話し終えた少女の瞳。深海の暗闇のように青く、黒い。これに、惹かれた。

「トンボ、貰ってもいいかな」

「はい、どうぞ」彼女は微笑んで応じた。感慨深げに言葉が繋げられる。

「昔、学校の先生に話した時はぜんぜん信じて貰えませんでした。医者の診断書もあるのに、疑われて、変な奴だと思われて」

 彫刻士は石像をそっと机の上に置き、彼女に向き直った。

「でも、上総さんは最初から最後まで普通でした。嬉しかったです」

 今日はもう帰ります、とガレージを去って行った。

 遠くなっていく後ろ姿。改めてトンボの石像を手に取った。驚嘆する。恐るべきことに複眼の一つ一つまでが綺麗に揃っていた。当たり前だと思い直す。これは、本物なのだ。

 長く息を吐く。そうか、ここまでやらなくてはならなかったのだ。幸福だった。いつの間にか己に限界を感じていた。そうではなかった。

 ──まだ、僕には出来ることがある。

 知れず、上総は拳を握っていた。


 暫く、はるかはアトリエには行かなかった。行けなかった。軽はずみに差し出したあのトンボの石像がひょっとして彼の仕事を冒涜したのではないか、と後になって気付いたからだ。「本物があるのにどうして彫刻なんてやるの?」と言ったに等しい。

 激しく後悔した。彼が生み出す銀細工は本物でないからこそ価値があると言うのに。

 体調が優れないことも原因の一つだ。ここ数日、鉛を入れられたように頭が重い。幸いにも期末テストは終わっており、高校はテスト休みに入ったから終業式までは登校しなくてもいい。とは言えじっとしていても体調は戻らない。迷った末、病院に行くことにした。


 診察室に入った時、嫌な予感がした。いつもと違って空気が重苦しい。

 予感を抱いたままに丸椅子に腰を下ろすと、血液検査の結果に目を落としていた藤原が口を開いた。

「三角さん、非常に言い難いんだけどね。君の石化能力はどんどん力を増している」

 彼によればこのまま行けばいずれ薬でも力を抑えることは出来なくなるかもしれないとのこと。

 絶望的な宣告だ。この力は眼鏡やサングラスなどでは防げない。つまり、将来だれとも目を合わせることが出来なくなる可能性がある。だけでなく、突発的な事故が起きることも想定すれば外出さえも難しくなるだろう。

 俯いて唇を噛む。

「いずれって、どのくらい先なんですか」それを訊くのがやっとだった。

 藤原は腕を組み、考えた末に口を開ける。

「何とも言えない。明日かも知れないし、何十年後かも」

 嘘のない回答だった。頷くことしか出来なかった。


 量を増やした薬を病院で飲み、頭痛はだいぶましになる。もういちど血を採り、再度検査したところ数値は安定しており、少し安心できた。

 帰り道の途中、上総のガレージに差し掛かる。足を止めようかどうしようか迷い、実際に一度は止め、僅かな時間で歩みを再開し、結局は通り過ぎた。

「三角さん」

 呼び止められた。背筋に針金を入れられたようにぴんと立ち止まる。振り返れなかった。自分の目の色は今どうなっているのか、怖かった。

「どうして来なくなったんだい?」

 上総に責める様子はない。理解できないことを確認する口調だ。

「ごめんなさい、あんなことして」

 鞄から取り出した鏡で目の色を確かめ、はるかは踵を返す。

「あんなこと?」ぽつりと彼。謝罪の意図を計りかねているのは明らかだった。

「トンボの石像、見せてしまって」

 彫刻士はにこりと微笑む。

「何も謝ることはないよ。寧ろお礼を言わせて欲しい」

 見せたいものがあるんだ、と女子高生を中に招く。いつもの長机で翅を休めていたのは銀細工のシオカラトンボ。

「わあ……」

 ありきたりな形容詞は全て掻き消える。どんな言葉でもそれには追いつかなかった。

 だって、机の上の姿はもう、ただの、普通の、生きているトンボ。

 ただ、それだけだったから。

「思ったんだよ」上総は椅子に座り、はるかも丸椅子に腰を下ろした。

「本物って、何なんだろう。何で僕の虫たちは本物に敵わないんだろう、とね」

 頬杖をつく。壁に向かったまま言葉を続けた。

「君が持ってきたこいつが」

 小さな石像を手に取る。指先の感覚を研ぎ澄ますように輪郭をなぞった。

「分かるでしょ? ここには紛れもない、純一(じゅんいつ)の生命が封入されている。それが、これを本物たらしめている」

 そんな風には思えなかった。恐らく上総ほどの超絶技工士なればこそ感じ取れる領域なのだろう。強いて言えば、石像の方が艶々と輝いてはいる。

「このトンボが僕に足りないものを教えてくれた」

 彫刻士は微笑む。言葉を隣の女子高生に向けて。

「だから、ありがとう」

 ふわふわと俯いた。誰かに感謝されたのなんて、随分と久し振りだった。

 目の所為で人との接触を避けて来た。厄介な病気だ。ただ、普通の目であったなら自分はここには居ないのも事実だ。複雑な心持ちで、それでも抑えようもなく、嬉しさは込み上げた。

 刺すような頭痛がして眉を顰める。覚えのある痛みだった。伏せたまま鞄から鏡を取り出し、瞳の色を確かめる。

 艶々と、金色に煌めいていた。

「ごめんなさい。あたし、帰ります」

 立ち上がろうとして、彼のトンボと目が合った。

 はるかの目が大きく開かれる。銀のシオカラトンボが瞬く間に石化した。

 有り得ない。生命のないものを石に変えることはできないはずだ。力が強くなっていると言った医者の言葉を思い出す。とうとう、物質まで石化できるようになったのか。

「僕のトンボが……石に?」

 呟く男。二人、戸惑った佇まいを交わした。


 医師、藤原の見解は「分からない」だった。検査結果に基づく事実のみを述べれば現時点で石化能力は昂進も減衰もしていない。故に、物質であるはずの上総のトンボを石化できたはずがないのだ。にもかかわらず能力が発動したのはあの時のはるかの精神状態に左右されたのかも知れない。が、物質を石にできた根拠にはならない。

 藤原は言う。「正直、まったく理由が分からない」。更に、「或いは、本当に銀細工に生命を探知したのかもね」。

 患者の健康状態を管理するのが第一義の医師にとって、彼女の健康が保たれていれば他は些末なことなのだろう。大した興味もなさそうだった。


 何日か経ち、上総のガレージ兼アトリエ。

 彼は長机の上に並んだ二匹のトンボを座って眺めている。

「よく分からないけど。つまり僕のトンボに生命が宿った、ってことなのかな」

 どこか満足そうな口元だった。隣の女の子に目を向ける。

 石になった元は銀製のトンボが彼の姿を複眼で捉えている。横に置かれたはるかが石化したトンボも同様だ。どっちがどっちなのかもう分からない。二つの石像は克明に似通っていた。

「そうだと思います。だから石になったんです」

 男は満足そうなまま、二匹のトンボをそっと脇に置く。

「そっか、そうだといいな」にこりとした。

「あの、ありがとうございました」はるかが頭を下げる。

 上総は不思議そうな様子だ。「どうして君が僕に礼を?」

 少女は微笑む。上総の銀細工に生命が宿ったのかどうか、本当のところは分からない。

 それでも信じたかった。

 真っ白で細く長く、たった一粒の酸素でさえ正確に摘まみ取れそうな繊細な指が、確かに生命を生み出したのだと。だから、メドゥーサの目で石に()ったのだと。

 ──だってその方が、素敵。

 それに、あたしの目が役に立ったのなら、嬉しい。

「さて、と……」

 早くも次の制作に取り掛かる彼の横顔は一心不乱で、子供のような空気を纏っていた。無邪気な雰囲気に思わず目を細める。

 ──あたしを見つけてくれて、本当にありがとうございました。

 考えてみれば上総に引き合わせてくれたのはメドゥーサだ。長いこと、こいつは邪魔なだけで何もいいことはないと思っていたのに、今はどこか愛しい。

 瞳の奥、そこに住んでいる者を呼ぶ。

 ──あんたも、ありがとね。

 彼女(・・)は不機嫌そうに胡坐を掻き、腕を組んでふんぞり返っていた。


<了>

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