喜連川少年院 その⑥(一級上生)
四学寮で一級上生(白バッチ)は俺しかいなかったので、優越感もあったが不安も大きかった。
来月になったら一人で六学寮に行かなくてはならなかったからだ。
長沢も一緒だったら心強かったのに残念で仕方がなかった。
復寮ホームルームであんなに
「一緒に」
連呼してたのに、何であなたが遅れてるんですか?
と思った。
この頃、俺と長沢は四学寮でかなりの古株だった。
もういったい何人に抜かされたか分かったものではない。
現に六学寮にいる院生達はほとんど俺らより後に入ってきた人達ばかりだった……。
六学寮に行けば生活内容が違うだろうから、古さは関係ないだろう……。
新入生がやって来て、俺が十日間を教えた。
約一年前は俺が教わる立場だったので、色々と考えてしまった……。
三田という真面目で芯が強そうな見所のある男で、今後の四学寮を背負って行ってくれるような気がした。
とにかく出来る限りしっかり教えて、この三田という新入生には少しでも頑張って生活していってもらいたいと思った。
この寮には長い事いたが、基本的に十日間は一級上生が教えるので俺が教えたのはこの三田一人だけだった……。
この一ヶ月間は、俺が決まりその物と言っても過言ではなかった。
みんな決まり事は俺に聞いてくるし
「決まりのノート」
というのを渡されるので俺が管理していたからだ。
もちろん決まりを変えるには先生の許可を得て印鑑をもらわなければ書き換える事は出来ないし、変えた場合には寮のみんなに呼び掛けなくてはならないが、一番把握しているのは俺だった。
これはけっこう前からだが、なので当然俺に注意してくる院生はほとんどいなかった……。
このまま出院出来るなら最高に楽しい一ヶ月となったであろう……。
この少年院に来て二回目の運動会がやってきた。
去年は入院してきたばっかりで何の思い入れもない運動会だったが、今回は長い事一緒に生活してる人達ばかりなので、楽しみだった。
俺は当然、障害物競争に立候補した。
それと一級上生の俺が応援団長に任命された。
応援の仕方は四学生のみんなから募集をかけた。
さすが関東のあちこちから来ているだけあって、聞いた事もない応援の仕方ばかりだったので驚いたし新鮮味を感じた事を憶えている。
運動会の一週間前に小便をしたら血が混ざっていた。
いわゆる血尿というヤツだが、俺は生まれて初めてなったので驚いた。
先生に報告したら大事を取って二学寮で休養になった。
さすがにその辺は無理をさせないようだった。
三、四日で戻ったが運動会の競技には参加させてもらえなかった。
この年の運動会の日は雨だったので、体育館でやった為、どのみち障害物競争は出来なかったのであまりショックはなかった。
それに応援団長はそのまま俺だったので充分楽しかった。
月末、俺の転寮ホームルームが行われた。
俺はみんなの前でこの一年間を振り替えって語った。
この時のホームルームの担当の先生が俺が入院してきた時の事を憶えていてくれて、俺の話に花を添えてくれた。
みんなから激励の言葉をかけてもらった。
長沢からも言葉をもらったが、この後自分が沢山話さなければならないので緊張していた為か、この時の内容は憶えていない。
今度は俺が個人的に一言ずつ声を掛けていった。
半分くらいに言葉を贈ったが長沢にはあえて何も言わなかった。
理由は単純で、ずっと長い事一緒に生活してきたから知ってるが、転寮ホームルームで全ての院生から長沢は言葉をかけられていたのが羨ましかったので俺は声をかけなかった。
声を掛けられない事の切なさを感じてもらいたいという意味の分からない理由で、この時は本気で長沢の為だと思ってそうした。
円になっていて端から声をかけていくので、飛ばされた人間はすぐに分かるのだが、俺が長沢を飛ばした時、
え?
何で?
という雰囲気が全体に広がったが、そこは俺の自由なので先生も含めて誰も何も言ってこなかった……。
次の日の進級式の後、俺は六学寮へと移った。
今度こそ長沢が進級するかと思ったが十一月になっても長沢はなぜか進級しなかった。
これによって一級下生活が俺より二ヶ月も長い八ヶ月間が確定した。
六学寮に移ると農業科になるのだが、教科生だけはそのままなので、寮内生活以外は大して変わらなかった。
寮内の決まりは、三学寮と四学寮と五学寮の決まりが混載した形になっていたので、違う点がけっこうあった。
これは俺の勝手な予想だが、この三つの中間寮の決まりの混載の割合は、その時のパワーメーターによって変動すると思われた。
三日間だけ六学寮の決まりを同じ部屋の一番古い院生に教わった。
ちなみに寮内の作りは中間寮とほぼ一緒だった。
唯一違ったのは、ホールと居室の間にもう一つ部屋があって教科生は全員就寝後、一時間弱くらいそこで勉強をしなければならなかった。
机が窓や壁側にぐるりと並んでいた。
大きく違った決まりをいくつか紹介しておく
……チャイムがなっている時は話してならない。
……注意されて謝る時は「すみません」でもよい。
……ホール内で話していいのは一人のみ。
……「かまわない」という言葉は禁止。
中でも一番驚いたのが、自由時間以外は日直に許可を取らないと何の行動も取れない事だった。
例えばボールペンを床に落としてしまった時は
「日直さん失礼します!」
と言って手を挙げ
「三頭脳さん」
と言われたら
「ボールペンを落としてしまったので拾ってもよろしいでしょうか?」
と訪ね
「どうぞ!」
と言われて初めて動けた。
誰かに注意する時も同じ手順で
「誰々さんに指摘してもよろしいでしょうか?」
と日直に許可を取らなくてはならなかっので、四学寮よりかえって面倒だった。
あとはなんと言ってもホームルームの発言がやたらと長かった。
ホームルームの内容は大して変わらなかったのだが、質問と意見がセットになっていたので、質問だけで逃げるという手が使えなかった。
俺は就寝後の勉強時間をこの為に使ってひたすら毎日ホームルームで言う事を考えた。
みんな六学寮生とは言え、よくあんなにぺらぺらとアドリブで話す事が出来るなと感心していた。
日直の順番もすぐに回ってきたので、日直の発言内容も同じように就寝後の勉強時間に考えた。
日記を書くのもみんな慣れているから早いので、日記後にテレビを見せてくれる時があったが、教科生はテレビ禁止だった。
なので教科生にとっては集中力を妨げる物でしかないし、集中してないと他生に注意されるので、かえってない方がよかった。
朝の全体号令も日直とは別の順番で回ってきたが、壇上に上がって号令をかけるだけなので、散々号令をかけてきた六学寮生には大して難しい事ではなかった。
SSTというのをやったが、これはなかなか面白かった。
少年院によってはロールプレイングとも呼ぶらしいが、社会に出た時のあらゆる問題をどのように回避するかを練習する時間だった。
例えば地元の不良仲間に会ってしまった時にどうするか?
とか、仕事で失敗した時にどのように謝るか?
これは意味があるのか分からないが、巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘をテーマにした時もあった。
要は役を一人一人決めて、テーマに沿ってアドリブで演技するというものだった。
水府学院の時はタイミングが合わなくて外出できなかったが、ここでは二回外出させてもらった。
一回目は老人ホームに食事介助に行った。
要は寝たきりの老人に食事を食べさせればいいのだが、俺が担当したおばあちゃんはよく食べる人だったので、とても楽だった。
入浴介助に行く人もいたが、俺は選ばれなかった。
二回目は日光東照宮の掃除という名目で行ったが、掃除が終わるとお偉いさんがわざわざ中を案内してくれるので、他の一般客も話が聞けるからついてきたりした。
外出すると外のご飯が食べられるので、それが何よりの楽しみだった。
十二月の進級式の日、女みたいな顔した長沢がついに一級上生に上がった。
これで俺がいる間に六学寮へ上がって来れるので少し楽しみになった。
この年はなぜか年内に駅伝大会が行われた。
俺は前回と同じく千五百メートルのマラソンに参加し、去年と同じ作戦を試みたが残念ながら一秒差で二位になってしまった。
教科の時にマルチ人間の大西先生から
「今回もラストスパートすごかったけど、残念だったな!」
と言われたけど
「でも前回よりタイムが全然早かったです!」
と言った。
すると、大西先生がニッコリ笑って
「そうか!」
と言われてかなり嬉しかった。
何が嬉しかったかと言うと、前回の俺の事を大西先生が憶えていた事が一番嬉しかった……。
冬前に関東か全国かは忘れたが、少年院の俳句のコンクールがあって一人三つ作らなければならず、俺は俳句の事など季語を入れて五…七…五にするくらいしか知らないので、色々考えたが適当に作った。
それでも
「凧揚げや 風と知己にて 空高く」
だけはなかなかの出来だと勝手に思っていた。
他の二つは本当に数合わせに適当に作っただけだが……。
しばらく経って俳句の事など忘れた頃、朝礼時に、この少年院で俳句で賞を取れた人間がいると先生から言われて、すげえヤツがいるもんだと感心していたら、まさかの俺の名前が呼ばれた。
俺は他人事だとは思っていたが、そこは院生活が身に付き過ぎていたので瞬時に対応し
「ハイ!」
と返事をして壇上に上がった。
俺の作品をみんなに紹介してくれたが、選ばれたのは、俺が勝手に自信作にしていたものではなく、本当に適当に作った残りの二つの内の一つで
「作られて わずかな命 雪だるま」
という俳句だった。
第三席という賞だったが、今いちすごいのかすごくないのか分からなかった。
選ばれたのは俺だけだったので嬉しかったが、ただの運で取ったものなので微妙な気分だった……。
正月明け、長沢が六学寮にやってきた。
何の因果か俺と同じ同室になった。
六学寮に来た院生が七人いたので、俺だけ二人を一気に教える事になった。
長沢が入寮して早々に配食係を希望した為、教えるのが大変だった。
二人揃ってる時が少なくなったからだ。
ホールで一人しか話せないという決まりが物凄くネックになってきたが、俺はどうやら人に教える能力には長けていたのか、他に気を使えなかっただけか、遠慮しないで教え抜いた。
てっきり月末に出院準備に移るかと思いきや、意外と早く中旬には二学寮に移れた。
七学寮に行けなかった院生は二日前(月曜出院の院生はは三日前)に二学寮に移る。
この時に初めて知ったが、最後に俺に激励の言葉と握手出来る人間はこっちから指名出来るとの事だったので、俺は当然長沢を指名した。
彼は六学寮に来たばかりでまだ馴染めていないだろうから、この役は大変だろうと思ったが、一番長く院生活を送ってきた彼以外に該当者などあり得なかった……。
こっちから指名出来る理由は簡単だろう……。
人気がある出院者は取り合いになるし、逆に人気のない出院者は誰がやるの?
って話になるので、確かにこのやり方が一番手っ取り早かった……。
水府学院の時のように出院の前の日は全く寝れなかった……。
出院の日、個室寮の教官室で少し待たされた時に驚愕した事があった……。
全ての部屋の天井に隠しカメラがあって、部屋の様子がモニターに写っていたからだ。
だから、考査期間に布団に寄り掛かっていた事がすぐにバレたんだと思った……。
だが、最後の日に気付いても何の意味もなかった。
それを分かっていて、あえて見せたのかもしれなかった……。
朝礼で壇上に上がって過去を振り返って出院後の誓いを語ったが、内容が飛んでしまって、アドリブで適当に話したので何も憶えてはいない。
あまりの嬉しさと緊張で長沢からの激励も
「三頭脳さんとは、ほぼ同時期にここにやってきて、木工科、教科と共に切磋琢磨して……」
と冒頭だけは憶えているが、その後は憶えていない。
はっきり言って内容なんてどうだってよかったのだ。
最後は長々と一緒に過ごしたこの長沢と握手して終わりたかった。
ただ、それだけなのだ……。
長沢と握手した時
「おめでとうございます」
「あと少しなので頑張って下さい」
俺はそう答えた……さよなら……長沢……さよなら……みんな……さよなら……喜連川少年院……。
こうして俺は、十六ヶ月もいた喜連川少年院を出院した……




