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底から出てもそこは底  作者: 三頭脳
二回目の少年院
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喜連川少年院 その④(二級上生)

 

 土、日は基本的に体育と風呂以外は出寮はなく、ビデオを見せてくれる先生もいたが、基本的には一日中ホールで自習をしていた。



 この時期、ちょうど運動会があり、俺は集団寮に来たばかりなので、よく分からないまま参加する事になった。

 何の因果か障害物競争に出る事になった。

 他にも参加したかもしれないが、憶えていない。

 障害物競争は、各寮二人ずつの参加で八人ずつ行われた。

 集団寮に移ったばかりで、知り合いはもちろんいないし、何の思い入れもない状態だったので、参加しているのが不思議な感覚だった。

 でも中学二年生の時にぶっちぎりの一位になった記憶がよみがえり、自信があったので本気でやった。

 

 ……結果は一位だった。

 俺は障害物競争の天才なのかもしれないと思って調子に乗ったのを憶えている……。


 三週間の予科が終わって俺が二級上(緑バッチ)になった頃、俺を十日間教えてくれた白バッチの人が出院準備寮へと移っていった。

 白バッチになってから、一ヶ月すると出院準備寮へ行ってしまうのだ。

 入れ替わりに白バッチになる人が大体いたが……。

 

 三週間経っても、いまいち慣れなかったが、徐々に注意やホームルームでも簡単な発言は出来るようになっていた。


 俺の後に矢板という院生とその後に長沢という院生が四学寮に入ってきた。


 矢板は初日からホームルームで上級生並みに発言出来る男で、いったいこいつは何者なんだ?

 と思っていた。

 真面目過ぎる態度で生活し、人に対して思いやりもあり、こんな人間が犯罪をしてきたとはとても思えなかった。


 長沢は女みたいな顔をしていてナヨッとしているので嫌いだった。

 こいつも矢板とは違った意味でいったいどんな犯罪をしてきたのかと不思議で仕方がなかった。


 四学には、俺の地元の一個上の巨体の仁村先輩と同じように関取みたいな体格の人がいて、俺は好感を持っていたが、気難しい性格だったので近寄りがたかった……。


 二級上(緑バッチ)になると、予科の代わりに実科に配属になった。

 実科は木工科、溶接科、陶芸科、洗濯科、教科とあったが、自分で選ぶ事は出来ず勝手に決められた。

 俺は木工科だった。

 本当は教科に行きたかったが、四月以外で教科に行けるのは、捕まる前に高校生だった者だけなので無理だった。

 二月くらいに、通信制高校の授業を受けたい人は申請出来るようなので、その時に駄目元で申請しようと決めていた。

 駄目元というのは、俺と同じ考えでどうせ捕まってるのなら勉強したい!

 という者が沢山いると聞いていたからだ。


 木工科に行くと、最初に軽い朝礼があった。

朝礼では一番古い人が指揮を取って

 「呼び掛けたい事や意見のあるひと?」

 と聞くので、あれば手を挙げた。

 個人的でも全体でもいいのだが、例えば全体だと

 「寒い時期になって手がかじかむと思いますが、怪我しないように気を付けましょう!」

 とか、作業に関する事なら何でもよかった……。


 最初の数週間は、先生が切った立体パズルをひたすらヤスリで研いた。

 こういった単純作業は嫌いではなかった……。

 選択肢があるなら別だが、選択肢がないなら、何も考えなくていいので楽だったというわけであった。


 数週間経つと、今度はカンナの刃を研いて真っ直ぐになるまで研かせられた。

 ここからは自分の腕との勝負だった。

 カンナの刃を真っ直ぐにし、先生に合格をもらうと、次の課題に進めた。

 まずは直方体の木を、全て直角になるようにカンナで削った。

 これは意外と簡単に出来たのだが、次の課題は幅三十センチくらいの板を正方形に切り、それを四等分にするというものだった。

 四つ全て直角にするのはもちろん、一ミリの狂いもなく全て同じ大きさにしなくてはならなかったので、俺はここでかなりつまづいた。

 三つ同じにする事は何回か出来たのだが、最後の一個が削り過ぎて合わなくなると、残りの三個も直さなければならないので、とても難しかった……。

 元々小学生の頃から図工は得意ではなかったが、本気で頑張ったけど結局出来なかった……。

 

 木工科のメインの先生は三学寮の先生だったので、なんとなく三学生が仕切っていた。

 五学生もけっこういて、四学生が少なかったので、なんとなく四学生は形見が狭かった。

 四学寮の先生はほとんど溶接科と教科の担当だったのだ。


 俺の後に四学に入ってきて女っぽい顔した長沢も木工科だった。

 長沢は朝礼の時に頑張って何度か発言していたので目を付けられなかったが、俺は一度も発言をしなかったので、ある日、五学生から

 「三頭脳さんに対してあるんですけど!」

 とついに個人で名指しされた。

 俺はいつか言われると分かっていたので、対策を練っていた。

 「三頭脳さんは、木工科に来てから一度も発言してないけど、何を考えてるのですか?」

 と言われたので、対策通り

 「特に意味はないです」

 と答えた。

 俺は何を言われてもこう答え続けるつもりでいた。

 案の定、そう来るとは思ってなかったみたいで

 「意味がないってどういう事ですか?」


 「そのままの意味です」

 はっきり言って誰が聞いても単なる屁理屈だから、先生から突っ込まれたら終わりなのでヒヤッとしたが、何事もなく回避した。

 今思えば、そんな対策を考えるくらいなら適当に発言した方が楽なのに何を考えるのだろうと思う……。

 それからも意地で一度も発言しなかったが、その後は誰からも何も言われる事はなかった……。

 

 金曜日の午後にはクラブ活動があり、他は何があったか忘れたが俺は囲碁クラブだった。

 出院してから趣味を持たせようという方針によるものだった。

 囲碁は子供の時に母から教わってやり方くらいは知っていたがほぼ初心者だった。

 日記にうちのじいちゃんが囲碁の先生だった事を書いたら、囲碁が相当強いと勘違いされて初段の先生から勝負を挑まれたのでかなり困ったのを憶えている。

 当然、期待はずれの弱さでガッカリさせてしまったので、余計な事を書かなければよかったと思った……。



 二級上(緑バッチ)に上がって三ヶ月が経った十二月になると、かなり生活も慣れて決まり事も覚えてきた。

 「どんな生活も三ヶ月経てば慣れる」

 と何かで聞いたか読んだのだが、本当かも知れなかった。

 最初は色々おかしいと思っていたあらゆる点も当たり前に感じられるようになり、洗脳されていった。

 「朱に交われば赤くなる」

 とはよく言ったものである。

 

 元々攻撃的な性格の俺は、他生を注意するのは得意になった。

 それにホームルームの発言は苦手な方だった俺も、この頃には独自の質問術を手にいれていた。

 例えば

 「周りが気になって集中出来ない……具体的には、周りの人が自分と違う事をしていると自分のやってる事が正しいのか分からなくなって集中出来ない」

 という問題を上げたとしたら

 「なんで周りに合わせようとするのですか?」

 とか

 「なんで自分が正しくないと思うのですか?」

 とそのまま質問をすればいいだけであった。

 他の院生が俺より先に質問して

 「周りに合わせないと浮いてしまうと思うからです」

 と答えたら今度は

 「浮いてしまったら駄目なのですか?」

 といった具合に無限に質問すればいいので簡単だった。

 俺はこれを自分の中で

 「無限質問」

 と呼んで活用していた。

 

 食事待ちの為、居室にいる時に、たまたまその部屋の俺ともう一人の院生以外が全員配食係だったので、俺達は二人だけだった。

 そのもう一人は黒人とハーフと見られる院生で、突然俺に

 「私、茨城です」

 と俺に声を掛けてきた。

 いきなりだったので、ポカーンとしていたら、再び

 「私、茨城です」

 と声を掛けてきたので

 「埼玉です」

 と、つい答えてしまった。

 それだけ聞くと、その黒人とのハーフと見られる院生はそれ以上は何も聞いて来なかったが、もちろんこれは不正連絡に当たった。

 

 しばらくすると、四学寮で院生七、八人による不正連絡が発覚して、大事になった。

 出院準備寮に行った院生も一人いて、この少年院では水府学院のように甘くはなく、階級降下となって四学寮に戻って来る事になった。

 

 俺もたった一言

 「埼玉です」

 と答えてしまった為に、黒人とのハーフと見られる院生に密告されて二学寮(個室寮)行きになってしまった。

 俺は

 「千葉です」

 と答えればよかったとかなり後悔した。

 これだけで出院が1ヶ月延びてしまったからだ。

 調査が始まったが、俺は一言いっただけなので謹慎処分はなくて

 「院長訓戒」

 という喜連川少年院の院長から、直々に説教されるという処分だけで済んだので、この時はラッキーだと思った。

 だが、これが地獄の始まりだった……。

 今まで不正連絡などした者を見た事がないので軽く考えていたのだ……。

 

 処分が終わって集団寮に戻ると、まずホールの

 端に立って

 「皆さん、聞いてもらえますか!」

 

 「ハイ!」

 

 「この度は不正連絡をして、みんなに迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした!」

 と謝った。

 すると、上級生から

 「三頭脳さん、気を付け!がしっかり出来てないのでしっかりやってください!」

 しっかりやってるのに注意を受けた。

 「失礼しました。」

 それを皮切りに、四学寮のほとんどの院生から理不尽な注意の嵐を受け続けた……。


 後で知ったのだが、誰かが違反すると連帯責任で体育の内容がさらに厳しくなったり、自由時間ずっと黙想させられたり、何かとペナルティを被るので、怒りが不正した人に向くのは当たり前の事だった……。

 

 さらに

 「復寮ホームルーム」

 というのが、夕飯後すぐに行われ、体型は円ではなく、俺一人に向かい合うように横列で作られた。

 

 これは

 「ホームルーム」

 という名のいじめであった。

 「何考えてるんですか?」

 「何しにここに来たんですか?」

 「みんなに迷惑かけてその態度は何ですか?」

 など、集中的に責められた。

 もはや、何を答えても無駄だった。

 特に今回は七、八人による大掛かりな不正だった為に、よっぽどひどい連帯責任を負わされたようで、一番最初に寮に戻ってきた俺に全ての矛先が向けられた。

 「埼玉です」

 と答えただけと知ればそこまでされなかったかもしれないが、もちろん内容はみんなには知らされないので容赦なかった。

 

 復寮ホームルームが終わっても、俺に対する過度の注意は続いた。

 俺は精神的に耐えられなくなり、先生に申し出ると、なぜかすんなり昼間から居室で寝かせてくれた。

 昼間から寝込む人なんて、今まで見た事もないしありえなかったのだが……。

 

 数日後、黒人とハーフと見られる院生が復寮してきた。

 これによって、的は俺と彼の二人になったのだが、彼は教官室に行ってずっと先生と話し込んでいた。

 おそらく耐えられなくなって

 「二学寮へ行きたい」

 と頼んでいるのだと思った。

 

 その日の復寮ホームルームで、黒人とハーフと見られる院生が俺と同じように集中的に責められた。

 俺はその時、手を挙げた。

 みんな、いったい俺が何を言い出すんだ?

 と注目してきた。

 日直に差されたので

 「自分は逃げない道を選んだので二学寮に逃げないでください」

 と発言した。

 俺は彼の為ではなく、彼がいなくなると、また俺一人が集中的に責められるのでそれが嫌だっただけであった。


 だけどその日の就寝前の呟きの時間で、彼は

 「二学寮に逃げないでくださいと言ってくれた院生には申し訳ないけど、もう決まってしまいました」

 と呟いたので俺は悲しかった……。


 でも次の日、黒人とハーフと見られる院生が二学寮に行った後は、なぜか不思議と前ほどみんなから責められなくなった……。


 その後、丁度正月期間となり、土、日と同様に出寮はほとんどない為、結局不正した他の院生達は正月明けまで戻って来なかった。

 俺は、去年の正月は水府学院の個室で迎えたが、今年も去年に匹敵するほど、最悪の正月になってしまったと思った。

 来年こそは絶対に外で正月を迎えたいと思った……。


 正月明けに不正した他の院生が続々と復寮してきた。

 復寮してきた院生達は、ほとんど一級下生(青バッチ)以上なので、最初こそかなり責められていたが、人数も多い事もあって俺の時のようには攻め続けられず、一週間経った頃には元の四学寮の状態に戻っていった……。

 


 駅伝大会が行われた。

 俺は水府学院の時と同じように、心臓病の為、駅伝には参加出来なかったので、駅伝選手以外が走る千五百メートルの持久走に参加する事になった。

 水府学院の時、最後の最後に抜かされて二位になってしまったという苦い経験を生かして、今回は三位くらいにつけて、最後の一周で一位に踊り出る作戦にした。

 要は水府学院の時に、一位になった院生のやり方を真似したのであった。


 ……作戦は見事に成功し、俺は一位になれた。

 もちろん駅伝選手の中には俺より早い院生が何人もいたので大した事はないかもしれないが、それでも一位というのは実に気持ちのいいものだった……。

 その時に、マラソン好きで俺と囲碁をやった先生に

 「三頭脳君は足が早いから、脱走されたら追い付けないよ!」

 と冗談を言われたのが、すごく嬉しかったので憶えている。

 


 朝、いつも通り掃除をしていると

 「ぎいあぁ……」

 といううめき声みたいな声が廊下の方から聞こえてきた。

 喜連川少年院の集団寮の生活では、絶対に聞こえて来ない声だったので何事かと気になった。

 地元の巨漢の仁村先輩に似た体格の人ともう一人が二学寮へ連れてかれて行くのが見えた。

 後で先生から聞いた話によると、巨漢の院生がもう一人の院生を殴ってしまったという話だった。

 理由は、たまたま通せんぼみたいな形なってしまって、イラっとしてつい殴ってしまったという話だった。

 院内で暴力を振るった人を水府学院でも見た事がなかったので、彼はどうなるのかと気になった。

 だけど、一ヶ月しない内に彼は戻ってきた。

 復寮ホームルームは先生からのお達しで行われなかった。


 茨城農芸学院という少年院では、大型特殊免許が取れる制度があった。

 喜連川少年院からも一人か二人だけ、申請して選ばれた院生が茨城農芸学院に移送出来るのだが、巨体の院生が選ばれた。

 俺は通信高校を習いたかったので、関係ないと言えば関係ないが、大型特殊免許が取りたかった人達は、院生を殴った彼が選ばれた事に納得できなかったと思われた……。



 二月の進級式の日、俺の後に入ってきた矢板が一級下(青バッチ)に進級した。

 俺は悔しかったが、彼は真面目過ぎるし、只者ではなかったので諦めがついた。

 それに俺はみんなより二級上と一級下の期間が一ヶ月ずつ長いのだ。



 通信制高校を受けたい人が募集されたので、俺は希望した。

 三十人くらいが希望したが、受けれるのは十人以下だった。

 学力テストの結果と生活態度等で決められたようだが、俺は中学二年生までは塾に通っていたので、テストの結果は教えてもらってないが、よかったと思われた。

 それと俺の担任の先生がたまたま教科の主任の先生だったという事もあってか、俺は見事、教科生になる事が出来た。

 木工科より勉強する方が全然よかったので、かなり嬉しかった。

 木工科も出院して働く上では、充分役に立つと思うので否定はしないが……。

 俺の後に入った女みたいな顔をした長沢も俺と一緒に教科生になった。

 

 四月の進級式で俺はついに一級下(青バッチ)に進級した。

 不正連絡をしてしまったせいで進級するのに五ヶ月もかかってしまったが、一級下生になると髪の毛が延ばせるようになるので嬉しくて仕方がなかった。

 それに教科生にもなれたし嬉しいことが重なったのだ。

 それと、何の規律違反もしていない女みたいな顔した長沢もなぜか四月に一級下に進級した。

 彼は俺から見ても真面目にやっていた方なので不思議で仕方がなかった……。

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