喜連川少年院 その①(なんじゃこりゃあ!)
審判が終わって、少年院に移送されるまでの間、再び鑑別所に戻された……。
また前回と同じ
「藤子不二雄の少年時代」
を先生が持ってきてくれた。
前回も読んだが面白かったので、もう一回読む事にした。
うちの父が藤子不二雄の漫画が好きで、短編集を集めていた。
「少年時代」
は映画になってるのでもちろん知ってるだろうが、原作は映画より全然面白いと俺は思うので父にも読ませてあげたいと思った。
部屋の壁の上の方に付いている棚に張り絵が残っていた。
本当は先生に返さなければならないのだが、誰かがわざと置いていったのだと絵を見て分かった。
パンチラの絵だったからだ。
俺はなんとも面白い張り絵を作る人だと、どこの誰かも分からない人の作品に感心した。
そのエロティックな絵自体より、張り絵としての腕の良さも感心した。
同じ道具を使っているはずなのに、こんなに差が出るのかと思うほど、俺より全然上手だったのだ。
俺は先生から栃木県にある
「喜連川少年院」
へ移送が決まったと告げられた。
とりあえず茨城農芸学院じゃなくてよかったと思った。
外に出てどこの少年院に入ったのか聞かれた時に、茨城農芸学院と答えるのはなんだか嫌だったからだ。
名前だけ聞くと少年院っぽくなくて、どさくさに紛れて履歴書に書いても平気そうな名前ではあるが、どうせ少年院に入るなら、ちゃんと少年院と名が付く所に行きたかったのである。
喜連川少年院には二つの特徴があった。
一つ目は日本で唯一、通信制の高校の授業を受けられる少年院との事だった。
勉強する事が嫌いではない俺は、どうせ行くなら是非受けたいと思った……。
二つ目は土俵があって相撲をやるらしい……。
二日程で少年院へ移送となった。
一旦私服に着替えてから手錠をかけられ、乗用車に乗せられた。
前回は護送用のバスだったので、今回は乗用車なんだなって思った。
一人なんだからこれが当たり前だと思った。
手錠されてる腕の所に上着を被せられたので、変だなと思っていたら、なぜか浦和の駅前で降ろされた。
両脇に鑑別所の先生二人に挟まれ、まさかと思ったら、そのまさかだった。
電車で喜連川少年院まで向かうらしい……。
俺は電車だけは想定していなかったので、かなり驚いた。
手錠に付いてる縄を片方の先生が握ってるので、誰が見てもバレバレだった。
浦和駅のホームに電車がやってきた時、電車に写った自分を見て切なくなった……。
もう九月の終わりなのに、首吊り自殺した絵がプリントされたTシャツを着て、手錠された金髪の少年……。
両脇には恐そうなスーツを着たおじさんが二人、異様な光景に見えた……。
電車に乗ると三人座れるスペースがあって座れたのでラッキーだった。
宇都宮線だから大宮駅に停まるので、俺は気になった事を先生に聞いてみた。
「もし知り合いが話し掛けて来たらどうなるんですか?」
「……話し掛けて来たら逮捕するよ。」
と言われた。
そんな馬鹿な!
知り合いなんだから、普通に話し掛けて来るでしょ!
って思ったけど、この先生は冗談を言ってる顔をしていなかった……。
宇都宮辺りで乗り換えて今度はボックス席に座った。
一人が向かいに座って、縄を持っている先生が横に座った。
俺達と違うボックス席に座っている真面目そうな女子高生が、芋虫みたいな小さな編み物をしていた。
俺はそれを見て、中学生の時に選択科目の家庭科で編み物をしていた事を思い出していた。
俺が途中まで編んでいたあのマフラーはどこに行ってしまったのだろう……。
家でも見掛けなかったので、きっと捨てられてしまったのだと思う……。
どこかの駅に着くと、喜連川少年院の先生が車で迎えに来ていた。
俺は車に乗り、喜連川少年院へ向かった。
鑑別所の先生とはここで別れたと思うが、定かではない……。
喜連川少年院に着き、荷物を預ける手続きを済ますと、分類(事務)担当の先生に俺は普通の人より二ヶ月長い十三ヶ月間のカリキュラムを組まれてる事を説明された。
そう言えば、裁判官がそんな事を言ってたような言ってなかったような……、頭が真っ白になっていたのでよく聞いていなかった。
強盗なので二ヶ月くらいなら長くても仕方がないと思った。
というよりどのみち先は長いので、あまりピンと来なかったと言った方がいいだろう……。
手続きが済むと二学寮という個室寮へ連れてかれた。
二学寮の寮主任の先生は優しそうな初老の先生だった。
なんだか、ゆっくり時間が流れてるような、のどかな場所に思えた。
水府学院はきれいな建物だったが、ここは古い建物で、夏場は虫が出てきそうな雰囲気があった。
坊主にされ、シャワーを浴びさせてくれたかは忘れたが個室へと入れられた。
無駄に眉毛だけが金髪のまま残ってしまった。
個室は鑑別所の個室とほぼ同じ作りで、スリッパを脱いで上がり、トイレは初の和式だった。
ここでゆっくり一年過ごすか……と無理矢理思った事を憶えている。
少年院のしおりのような物を読むと、まず一週間、考査期間で個室で過ごす。
一週間過ぎると、二級下(黄色バッチ)になり、予科を三週間行う。
ここまでは水府学院と一緒だった。
予科を終えると二級上(緑バッチ)になり、三ヶ月間(俺は四ヶ月間)過ごす。
次に一級下(青バッチ)となり、また三ヶ月間(俺は四ヶ月間)過ごす。
最後に一級上(白バッチ)になって四ヶ月過ごしたら出院となる。
進級式は一ヶ月に一度しかないとの事で、毎週進級式がある短期少年院を知ってる俺には絶望的に長く感じられた。
最初から分かってはいたが、これを読んで一気に現実味を帯びたという事だろう……。
考査期間はやはり課題作文を毎日書いた。
今回は少年院に行く事を受け入れていたので、水府学院の時程ではないが、やはりこの最初の一週間はきつかった。
一人生活がきついというよりは、これからの集団生活への不安による精神面がきつかった。
早く集団寮に行きたい気持ちもあるが、行きたくない気持ちもあり葛藤する毎日を送っていた。
先生は滅多に来ないので、畳んで置いてある布団にたまに寄りかかっていた。
先生が通った時に、布団が少しだけ凹んでいるのを見られて
「寄りかかってるだろ?」
と言われたが
「そんな事してません!」
と誤魔化した。
よく見てるな!
と思った。
俺は外の事を思い出し、くだらない遊びを一人で行っていた。
元太平中の大島と竜と俺の三人で会話している設定を作り、大島がしゃべる時は机の上に移動してしゃべり、といった感じで一人三役で会話した。
せつない遊びだったが、少しだけ癒された。
ここはようじではなく、なぜか嫌いな大島だった事に自分でも驚いた。
結局俺は、不思議な魅力を持ってる大島が好きだったのかもしれない……。
そういえば、ようじと竜は無事出れたのだろうか?
俺が巻き込んでしまったので、出れてればいいな……と思った……。
麦飯生活にはすっかり慣れ、うまいとさえ思うようになっていた。
だけど、この少年院のおかずはうまくなかった。
薄味の野菜炒めとかおからとかがよく出てきて、しかも量がやたらと多いので俺は毎回残していた。
味噌汁も薄味でうまくなかった。
週に二回、昼飯時にコッペパンが出て、やたらとデカかったがこれはうまかった。
パン食の時には必ずシチュー類と、パンに挟めるコロッケ類が出るので、一応小袋に入ったジャムやマーガリンがもらえるが俺は使わなかった。
鑑別所でも水府学院の時もジャム類はなぜか使った事がなかった。
別に嫌いな訳ではないのだが、なんとなくおかずのみでパンを食べたかったのだ。
やたらと長く感じた考査期間の一週間を終えて、ついに集団寮へと移動の日になった。
朝食を食べてから、とりあえず荷物は持たずに二学寮の寮主任の先生についていった。
中庭の隅に先生と並んで立っていると
「ザッザッザッ……」
続々と院生達が行進して集まってきた。
どうやら中間寮は三学寮、四学寮、五学寮と三つもあり、六学寮というのが出院準備寮のようだった。
各寮、三十人くらいいて百人を越える院生が中庭に集まった。
そして水府学院と同じように指揮者が整列させて番号を数え、先生に報告していた。
俺はそれを見ていて、なんじゃこりゃあ!
と思った。
というのも、行進を見た時から水府学院とはレベルが違うと思っていたが、号令の掛け方から整列までの動きの早さ、何を取ってもレベルが違い過ぎて、まるで軍隊を見ているようだった。
中でも番号を言う時は凄かった。
「番号!」
「一、二、三……」
すごく流暢で番号と番号の間隔も短かった。
水府学院では許された、わずかなつまりや音量の凸凹感も許されず
「番号もとい(もう一回の意味)!」
と言ってやり直させていた。
指揮者は腕章をつけており、水府学院では壇上で先生が行っていた全体の指揮も別の腕章を付けた院生が行っていた。
俺が何より驚いたのは、水府学院ではみんな嫌々やってる感が隠しきれていなかったのに、ここではみんな進んで自らやってる姿勢にだった。
俺はとんでもない所に来てしまったと思った。
そう思っていたら先生に
「この後、みんなの前で挨拶するからな!」
って言われて
えっ?
って思った。
まじかよ!
勘弁してくれよ!
「え〜それでは新しい新入生を紹介します」
みんなの前に向かうように真ん中に立たされ
「三頭脳◯◯です、よろしくお願いします!」
すると百人以上の院生が一斉に
「よろしくお願いします!」
と返してきた。
おそらく誰も手を抜いていないであろう、大地に響き渡るがの如く、物凄い声量だった。
俺はやべえ所に来ちまったと再び思った……。




