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底から出てもそこは底  作者: 三頭脳
三回目の少年院
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八街少年院 その⑦(一寮西と一寮東)

 

 一寮西に行っても、寮の造りは予科寮と向きが左右逆になるだけで一緒だった。

 なのでもちろんドアには鍵が付いていて寮内を歩き回る事は出来なかった。

 とりあえず個室に入れられたが不正連絡する事をやめた俺にはむしろ個室の方が快適だった。

 一寮西に来ると予科の時間が実家に変わった。

 ここでも溶接科と木工科があったが、俺はまた木工科に配属された。

 ここでは最初から自分の席が木工科の作業部屋に設けられていた。

 喜連川少年院では座る事など許されなかったが、ここでは椅子もあったので座ったまま作業が出来た。

 ここでの作業は、大木の年輪が見える部分をを切り取った敷板やオブジェをヤスリでひたすら磨く作業を行った。

 磨いてきれいにして、装飾品にするようだった。

 最初ははっきり言って、そこらに落ちてても拾わないようなただの汚い木にしか見えなかった。

 だが磨くと驚くほど艶が出て美しくなっていった。

 座ったまま作業が出来るし、変化が楽しめるので楽しかった。

 ヤスリは最初は粗いもので磨き、徐々に細目のヤスリに変えていった。

 穴の部分は電動ヤスリで磨き、完成する頃にはまるでニスを塗ったように輝いていた。

 自分で磨き続けてきただけあって、一つ記念に持って帰りたいくらいだった。

 最後は本当にニスを塗って完成だが、最初は汚い木だったのに、完成品のその姿は床の間に飾れば見栄えがよくなる事間違いなしの代物になっていた。

 俺も磨けばこんだけ光る人間になれるのかなって思ったりした。


 俺は集団室に行っても、相変わらず無駄話をしなかった。

 基本的に院生の面子は変わらないので、不正連絡を持ち掛けてくる院生は減っていった。

 予科の時に不正連絡して処分を受けて懲りている人が、俺の他にもけっこういた事も関係していた。


 七月となり、俺は十九歳になってしまった。

 いつの間にか、来年はもう二十歳ではないか!

 水府学院で成人式を見た時は、二十歳なんてまだまだ先だと思っていたがあっという間だった。

 というか、ほとんど少年院にいた。

 だが過去の事を悔やんでも仕方がない……。

 幸い、まだ成人式は余裕で外で迎える事が出来る。

 葛飾区のおじさんの家でしっかりやって、成人式の日だけは地元に返って、堂々と胸を張ってみんなの前に現れる事を、この日、固く誓った……。



 ここでもプールに入る事が許された。

 喜連川少年院ではなぜか医者から禁止されたが、ここでは禁止されなかったので俺もプールに入れた。

 と言っても遊ぶ事など出来ず、ひたすらクロールや平泳ぎを二十五メートル泳ぎ続けるというものだったのできつかった。

 俺は小学生の頃は泳ぎは得意だと自負していたが、ここではみんな泳ぎが速くて俺は大した事ないなって思った。

 喜連川少年院で泳がせてもらっていれば変わったのかもしれないので残念だった。


 水泳大会が行われ、俺は平泳ぎの代表になぜか選ばれたが、俺のチームはビリに終わった……。

 これは喜連川少年院の頃から見学していて思った事だが、俺はバタフライが出来ないのでバタフライは見ていてカッコよかった。

 バタフライが速い院生は、不良少年だったはずなのにいったいどこでこの泳ぎを身に付けたのだと不思議に思った。

 少なくとも俺はバタフライを習う機会が今までの人生になかったからだ……。


 

 俺は何事もなく、八月の進級式で一級下となり青バッチをもらって一寮東へと移った。

 一寮東は二寮東と全く造りが一緒だった。

 ここではなぜか漢字練習を一日十ページもやらされた。

 百ページの大学ノートなので、十日で使い切ってしまうペースだった。

 俺はどさくさに紛れて

「優香」

 とたまに書いたがバレるはずもなかった。

 毎月の漢字テストは受かり続けていたが、漢字練習する事は悪い事ではないので辞書で書けない漢字を探して練習し続けた……。


 一寮東の生活は、基本的には一寮西の時とほとんど変わらなかったが、資格を取らせてもらえるようになった。


 水府学院でも喜連川少年院でも資格を取れる制度はあったが、水府学院の時は中学生だったし、喜連川少年院の時は教科生だったので俺には無縁のものだった。


 俺は小型フォークリフトと小型車輌系建設機械の資格を取らせてもらった。


 アナウンサーの笠井信輔が取材にやってきた。

 といっても直接何かを聞かれる事はなかった(聞かれた院生もいたのかもしれないが……)ので、いつも通り過ごしただけだったが……。

 最後に視聴覚室のような部屋で笠井信輔の話を聞く機会があった。

 内容は残念ながら憶えていないが、その前向きに生きている姿勢にえらく感動して、見習いたいと思った事だけは憶えている。

 先生達がいくつか質問していた。

 質問は喜連川少年院のホームルームで慣れていたので

 、俺も質問したかったが院生には機会は与えられなかった。


 十月に運動会が行われた。

 ここでは事前に父兄に案内が出されるらしく、俺の両親も見にやってきてくれた。

 俺は本当はスウェーデンリレーのアンカーに選ばれていたのに、残念ながら雨で体育館で行われた為、競技も全て変更になってしまった。

 スウェーデンリレーでは、状況にもよるが一位の選手に根性で張り付き、最後のラストスパートで勝負に出るつもりでいただけに悔しくて仕方がなかった……。

 体育館の運動会で俺が参加した競技は、キャタピラ競争だった。

 段ボールを人が中に入れるくらい大きな輪にして、その中に入ってハイハイで進むという競技だった。

 結果は二位だったが、終わった後、両膝がかなりすりむけたので痛かった……。


 寮対抗の綱引きはかなり盛り上がった。


 四寮あるのでトーナメント形式だった。

 三位決定戦もやるので、各寮二回ずつやる事になる。

 俺がいた一寮東は惜しくも希望寮に敗れて二位だった。

 やはり、院生活が長い方が多く筋トレしているので強いのかもしれない……。

 この年はたまたまそうなっただけかもしれないが……。


 これで終わりかと思いきや、先生が

「父兄の方々、自信のある方はどうぞご参加ください!」

 とまさかの父兄に呼び掛けた。

 もちろんやるのは優勝した希望寮チームだった。

 俺は、おいおい……、いくら何でも若いうちらの方が強いに決まってるでしょ!

 と思った。

 それに参加する人なんてそんなにいないんじゃないかと思っていたが、続々とガテン系と見られるイカつい親父達が名乗りをあげた。

 ……前言撤回、こりゃどうなるか分からないぞ!

 と思った。

 俺の父も体格が良かったので、参加するかと思って期待して父を見たが、びっくりする程、微動だにしなかった……。

 少しだけ人数が足りなかったので、先生が何人か父兄チームに加わった。

 

「よ〜い……ドン!」


 掛け声と共に、希望寮対父兄チームの綱引きが始まったが、圧倒的な力で父兄チームが勝った。

 やはり親父は強かった……。

 希望寮生が一斉に

「参りました!」

 と言ったので館内は爆笑の渦に包まれた……。


 運動会の後、面会の時間が設けられたので、俺はその時にやる事が色々あるから一週間だけ地元に戻ると両親に告げた。

 特に両親も反対しなかった。


 一寮東でも問題を起こす事なく過ごしたので、十一月に一級上に進級し、白バッチをもらった。

 喜連川少年院では二級上を五ヶ月間、一級下を半年間もやったので、なんだかあっという間に一級上になったように感じた……。

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