八街少年院 その⑤(生まれてきた意味)
二ヶ月間も出院が延びた上に、謹慎十五日は精神的にかなりきつかった。
それに二ヶ月延びるという事は、早くても出院が来年の一月になるので、五回連続少年院でクリスマスと正月を過ごす事が確定しまったのだ。
奇しくも、一回目に捕まる前日に聴いた
「JUDY&MARYのクリスマス」
から五年連続なのだ……。
これはCDを盗んだ(盗んだのは山先輩だが)呪いなのかもしれないと一瞬思ったが、実際は自業自得以外の何ものでもなかった……。
だが俺の人生にとって、この謹慎十五日間は深い意味があったと思う……。
俺はこの十五日間に色々な事を考えた。
特に考えたのが、俺はいったい何の為に生まれてきたのだろうか?
という事だった……。
先天性の心臓病を抱えて生まれてきた俺は、その時の医学の力がなければもうこの世にいない存在だ。
だが沢山の罪を犯して数々の被害者を生んできた俺は、あの時死んでいた方が世の為になったのではないかと思えてきた。
本来、生きてはいけない人間だったのではないかと本気で思った……。
そんな俺を今も見捨てない両親に感謝した。
同時に本当に今まで申し訳なかったと思った。
水府学院や喜連川少年院で親に見捨てられて誰も面会に来ない院生を何人も見てきたのになぜそこに気付かなかったのだろうか……。
俺は普通に家に帰れる事を当たり前だと思って甘えていたのだ。
そして今までの事を振り返った。
今までの行いを、いい事も悪い事も含めて全て思い出せるだけ思い出した……。
そして過去を反省し、今度こそ真面目に生きていこうと思った。
自分の存在価値を見つけたかった。
俺はこの時、上尾を離れる決心をした。
地元にいたら多分また同じ事の繰り返しになると思ったからだ。
もう今年で十九歳になってしまう……。
次は久里浜少年院しかない。
捕まるのは本当に最後にしたかった……。
優香に想いを告げるのは重要だと考えたので、それだけ行ってから地元を離れると決めた。
期限は一週間とした。
ダラダラ地元にいたら、それもまた同じ事になるからだ。
一週間で優香に逢えなければ諦めると決めた……。
謹慎五日を過ぎた頃、静思寮の先生に
「おまえ、いい顔してきてきたな!」
って不意に言われた。
やはり態度というものは顔に出るのであろう……。
思えば、俺が中学生だった一回目の審判の時、反省していない態度が顔に現れていたのかもしれない……。
運の要素がないとはあくまで言わないが、やはりあの時鑑別所で出れなかったのは必然だったのだと思った。
反省するにつれ、不思議とそれに比例して正座も辛く感じなくなっていった……。
純粋に今までの行いの罰だと考えれば、この正座の痛みも耐える事が出来たのだ。
三月の中旬、謹慎十五日間を終えた時は、なんだか清々しいような不思議な気分になっていた……。
二寮東の集団室に戻された。
それからは他の院生に地元とか聞かれても
「申し訳ないけど、早く出なくてはならない理由があるのでやめときます」
と断った。
必要最低限の生活に必要な言葉しか発する事はなかった。
階級降下にまでなった俺に、それ以上しつこく聞いてきたり怒ったりしてくる院生はいなかったのが救いだった。
余計な話などしなくても、集団室は楽だった。
テレビは前と変わらず見続けた。
二寮東に長い事いるせいか、土、日の午後のテレビ視聴の時間にお風呂掃除や洗濯物干しを手伝わされたが、それはそれで気晴らしになるので苦ではなかった。
両親が面会に来たので、俺は出たら上尾以外で生活する事を伝えた。
種子島という選択肢はなくなっていた。
なぜなら上尾で建て売りの一軒家を買い、種子島に住んでいるばあちゃんを引き取って一緒に暮らす事になったと父からこの時に言われたからだ。
俺的にも種子島で暮らすという選択はなかった。
あそこでずっと暮らすのはさすがにきついと思ったからだ。
俺は東京の葛飾区に住む母方のばあちゃんの弟(つまり大叔父)の家に住みたいと希望した。
そこには二人の大叔父が住んでおり、長兄は結婚しているが末弟は一人暮らししているので、末弟のおじさんの家に住みたいと希望したのだ(ちなみに次男はこの時にすでに他界されていた)。
大叔父達は、同じ土地に二件の家を建てていて別々に住んでいた。
俺なんかよりずっと悪かった大叔父なら俺も頭が上がらないし、真面目にやっていくにはうってつけの場所だと思ったからだ。
というより、そこ以外に思い浮かぶ場所がなかった。
両親は俺のこの提案に驚いていた。
だが俺の本気が伝わったのか、母が頼んでみると言ってくれた。
それからしばらくして母から手紙が送られてきた。
大叔父は俺を受け入れてくれるという内容だった。
俺は嬉しかった。
これで今度こそ立ち直る事が出来ると思ったからだ。
出院後に帰る場所を変更するには手続きが必要なので、少年院の先生にも報告した。




