2.悪敵(サタン)との日曜礼拝(サンデー・サービス)
平成50年(西暦2038年)6月14日日曜日である。彼女達にとっては、安息日の日である。
キリスト教会に向かう為、輪廻は電車に乗っていた。
このD市は、ロボットが普及している。それも、3機能(話す・決められた範囲を行動する・機転を効かせる。)を搭載した特注のロボットばかりだ。しかしながら、通行人や生活している人に、ロボットを見かけない。それは、真の意味で普及している訳ではないからだ。用事を聞くロボットはいない。あくまでも、3機能を実行する、汎用性が低いロボットが限界なのだ。この時代では、4機能目を搭載しているロボットもいる。緊急時に、人命を救助する機能だ。しかしながら、限定的な機能でしかなく、あくまで、人間が人材の主流なのである。だから、大学は、ロボット教授がいても、生徒にロボットはいない。大学は、ある意味で聖域なのである。
しかし、その他は、ロボットが浸透している。例えば、特別な用事で、聞いてそれを保存し、録画されたビデオの様に、それを人間に伝えるロボットもいる。だから、特別探せば、実は、この人はロボットだった。と云う事もある。そんなロボット社会の電車から降りた少女がいた。
輪廻は、電車を使って、G駅まで来ていた。
それからさらに歩いて、キリスト教会に向かっていた。キリスト教会は駅から5分くらいである。
そして、彼女は、サタンと一緒にきていた。
しかし、目立つ。サタンは、角と翼と尻尾を隠そうともせずに、邪魔に成るのも気にせずに、堂々と歩いてきた。しかし、輪廻は輪廻で、特に気にしない。そう云う性なのだ。
角は、頭の両側の後頭部からさらに、後ろに反った2本角である。翼は、邪悪な烏の様な白い両翼である。それを背中で畳んでいる。翼の出来損ないみたいなものが肩から羽毛のみ出ている。尻尾は、爬虫類の尻尾を細くした様な長い尻尾である。それをハンガーの様な曲線を描いて空中で見えない物干しに掛けている様だ。
「教会には、初めていくが、しかし、面白みがあるのか?面白くなかったら、私は入らないぞ。」
「そう。」
「しかし、人間は、こんな格好が珍しいのか?通行人の目線をコンプリートしていくぞ。」
話している、その内にキリスト教会についた。ちなみに、プロテスタント教会だ。プロテスタント教会の中でも厳格な部類だ。
手動ドアから入ってすぐ、受付ロボットに受付をしてもらう。
交わす話も特にないので、黙っていたら、ロボットに「誰ですか?」と指摘された。サタンの事だ。輪廻は「誰でもない。」、と返す。
「そうですか・・・・。」と、ロボットは諦めた様に、質問を取り下げる。
教会内に、人はそれなりにいて、多分、半分ぐらいは信者だろう。
しかし、さっきからこの悪敵、なぜか、私のそばを離れようとしないのだ。と云う事は、意外と寂しがり屋なのかもしれない。そう、彼女は思ったのだが、特にサタンの方では、反応を示さない。
悪魔でも、心は読めないのかもしれない。
礼拝堂は、2階にある。階段を上って上へ上がる。兎にも角にも、ようやく輪廻とサタンは礼拝堂まできた。
礼拝堂では、既に座っているクリスチャン。まだ、立っているクリスチャンがいた。
立っているクリスチャンに対して、話し掛ける。
同年代ぐらいだろうか?若い黒髪の外国人に話し掛ける。
「こんにちは、兄弟。」
「こんにちは」
「こんばんは、敵よ。」
悪敵が口を挟むが、しかし、スルーされる。
「お名前は何ですか?」
「デビット・スカーレットです。どうも」
「流暢ですね。デビットと言えばダビデですね。改めてこんにちは、イスラエルの義王」
「どうも」
デビットは、あまり喋らない方らしい。日本語が悠長なのにも関わらず、口数が少ないのだ。
机と席が一体化した席に輪廻は座る。その隣にサタンが座る。
それから、しばらくのんびりしていると、礼拝の始まりの合図が礼拝堂に鳴り響く。ピアノの前奏である。
説明するが、礼拝は、牧師の挨拶・賛美歌・聖書朗読・祝祷と云う順に行っていく。祝祷とは、祝福の全体版なのである。
まず、牧師が挨拶する。
「こんにちは。神はこの世界を創られました。その御業を記念して、ここに挨拶申し上げます。(神=主(クリスチャンの常識。))主は、我らの主イエス・キリストをつかわされて、生贄に用いられました。それが、十字架ですが、それによって、私達の罪が今日もゆるされるのです。主よ、今から礼拝を始めます。その成功を祈って、主よ。どうか、その大いなる御力をもって御守護ください。」
長い挨拶だ。と輪廻は思う。しかし、まあこんなものだろう。と思い返す。
礼拝堂の皆の、あまり精力を感じられない様な声で、賛美歌と聖書朗読を詠む。
聖書朗読の最中に、隣のサタンが語り掛けてくる。
「しかし、クリスチャンの生活とは、見ていて怖気が走る。全く退屈だ。そうは思わないか?」
「私はクリスチャンだけど、サタンの生活を見てみたいぐらい。これぐらいは普通の人でもやる。あなたは何者で、神に奉仕する生活をどう云う目で見ているのか?」
「どう云う意味だ?」
「クリスチャンの生活に文句を付ける様な奴は、何者って云うぐらい不安定で、安定的な神への奉仕を可笑しな目で見ている。」
「“何者?”と言われれば、“サタン”としか答え様がないが・・・・・・。しかし、なぜ私はこんな所にいるのだろうな?愛か?」
「愛は、神とクリスチャンが持つものであって、悪魔が持つものではない。要するに、あなたに愛はない。」
((聖書の言葉)聖句には、隣人愛・愛敵・兄弟愛のみで、それ以外は、触れられてすらいない。それらではないと輪廻は言っているのである。)
「しかし、人間は愛しているぞ。」
その言葉に、輪廻は答えない。祝祷に入って、彼女が黙ったからだ。
「主イエス・キリストの御名によって、全ての人に祝福があります様に。アーメン」
その言葉をもって礼拝が終わり、輪廻は帰る準備を始める。と言っても、上着を着直すだけだが。
「そちらの方はどなたかな?」
この人は助谷友風と云う。なぜ解るか?悪敵だからだ。
「誰でもない」
輪廻が答える。
この人は、生まれつき茶髪で、善人で、不良に見られるのを嫌っていた。最近は、そうでもないか。
「私は助谷友風と云う。あなたは?」
「私は三手輪廻と云う名前。教会にきているからクリスチャン。」
「しかし、私と同じ方がいるとは・・・・。連れがいるのだが、名前をベルゼブブ・・・・・、王と云う。恐らく、悪魔だ。」
「彼はさーたん。」
「サタン?しかしなぜ、私達に悪魔の頭が付いてくるのか・・・・?それが解らない。」
「私はサタンだが、“おまえたちは何者だ”?」
「私はさっきも言った様に、助谷友風。クリスチャンの兄弟だ。」
「トモカゼか。覚えたぞ。」
この人の名は知っていたのだが、わざと聞いた。しかし、聖句は魔王にはあまり効果がない様だ。我々はわざと無知無能を装っているのだが、それは欺く為だ。
私に愛がないと言われる理由はそこにあるのだ。
しかし、私は人間を愛している。人類愛と言われるものだろう。
ベルゼブブもいるなら、会って何か話そう。
「ちょっと失礼する。」
「さっきのは・・・・・・・聖句・・・確か・・・使徒の働き19章15節の、悪霊の台詞だったはず・・・・。」
「確かに私も聞いたわ。悪魔が聖句を口にするのを。悪霊のセリフとは言え、ね。」
「分かっていたのか。では、連絡先を交換しよう。今後、必要に成るはずだ」
改めて見ると誠実そうなキリッとした顔立ちをしている。茶髪だが、不自然さがない茶色である。体格は、筋肉はあるが、細く、背は男性にしても高めである。
輪廻と友風は連絡先を交換する。双方とも、携帯電話のメールアドレスだった。
では、さようなら。
友風と別れ、教会にきている全ての人と別れる。いつの間に、サタンは輪廻の隣にいた。
さようなら。
これは、マタイによる福音書5章47節に書いてある通りである。
“また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。”
しかし、サタンは目立つ。さすがの輪廻もサタンの格好が気に成ってきた様だ。
まあ、それはともかく、万事問題なく電車に乗り、自宅へと向けて、出発する。(昼ごはんは自宅で食べるのかもしれない。)