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Endシリーズ

End Days 〜再会〜 上

作者: 木村 瑠璃人

昔練習として書いた話を補作しました。

出来はかなり悪いですが、分量だけはあります。あまりにも長かったので二つに分けました。

楽しんでいただければ、幸いです。


 しゃらん


 金属質にも、柔らかにも聞こえる音が耳に届いて、俺は思わず顔を上げた。

 そこには、何もないいつもの光景。無機質な緑色のフェンス、その向こうに見える葉桜。音の原因もただその葉が揺れただけ。


「―――――――」

 ひとつ諦観にも似た表情を浮かべると、何もなかったかのようにその場に腰を下ろした。

 辺りを見回し、人影がないことを確認してそれを取り出す。


 洗練された機能美としての外見を持つ一本の金属。

 装飾が貧しいわけでもなく、だからといって派手であることもない、一本の、フォールディングナイフ。

 何かを切断すること以外の用途を一切必要としない、破壊のための一品。しかし、切断のためだけのその道具は、この少年の左手首に巻かれた緋色の包帯と重なったとき、ある種の狂想的な印象に変わる………


 あるところに存在する、進学率よりも就職率に念頭を置いた高校の敷地内。少年が位置しているのは、その体育館裏。そんな場所でフォールディングナイフを持ち、左手首に古びた緋色の包帯を巻いて、何か暗い表情をした少年が及ぶ行為といえば、単純に想像するところひとつしかない。

 緋色の包帯を解き放つ…………


 縦横に走った傷跡。

 その上を横切る真新しい傷口。

 繊細な神経を持つものでは正視に耐えないほどの、痛々しさ。

 明らかな、自傷行為の痕跡。


 何の感情も抱いていないかのように、俺はフォールディングナイフのロックをはずし、刃を展開して固定する。

 そして………………


「……………っ」

 静かに痛みをこらえるような音が漏れた。

 白熱した金属を押し込まれたような感触。

 肉が断絶する、生々しい感覚。

 そして手首を伝い落ちる、血液の感触。

 刃が、手首に埋まる感触。

 痛い。が、しかしそれでも俺はまだ足りずに再びフォールディングナイフを左手首に埋めた。


「…………………っっっ!!」

 びくん、左手が痙攣する。

 ゆっくりと左手首にできた溝に液体がたまり、やがてあふれ出す。

「……………………ぅっ」

 小さくうめき声を上げる。が、そんな自分を律するかため、再び刃を己の左手首の中に埋め、溝をさらにもう一本走らせる。

「ぐっ!」

 声を抑えきれず、うめき声がもれた。

「―――――っ」

 しばらくして、息が整ってくる。


 新たに生じた痛みの根源を確認するため、俺は左手首を見下ろした。

 赤い命を今直あふれさせる、深い三本の溝。その周辺は傷跡瘡蓋裂傷含め、一見しただけで二桁を数える傷が刻まれている。

「―――、―――、―――…………」

 乱れた息を整えるように呼吸しつつ、緋色の包帯を拾い上げ傷口に押し当てた。

 そして、思う。

 これは、自分に対する罰なのだ、と。

 俺はこうしておかなければならない。あいつの分の苦しみを、楽しさを、思い出を、背負って生きていかねばならないのだ。回りがなんと言おうと、こればかりは譲らない。

 

 否、

 譲れない。

 あいつの言葉を知っているのは、俺だけだ。

 あいつの夢を知っているのも、俺だけだ。

 あいつの傷を知っているのも、俺だけだ。

 傲慢かもしれない。知らぬ人が聞けば激怒するかも知れない。しかしこれは俺の責任だ。

なにせ、あいつを俺は―――――


「………………………痛っ」

 思わず傷を押さえる手に力が入っていた。あわてて緩める。が、その瞬間値が再び噴出すように流れ出で、やっぱりあわてて強く握りしめる。

 少々まずいかも知れない。

 この高校の敷地は狭い。基本的に生徒数も少ないもので、昼休みの、それも体育館裏など人が来るようなところではないが、それでもまったく人が来ないわけではない。血のあとが残ってしまうと、面倒なことになってしまうかもしれないのだ。


 とりあえず、ここを去るときは注意しよう。

 それだけ思い、止血続行。

 血は、まだまだ止まらない。

 …………まあ、そんなことしなくても、俺がこれだって言うことはもうばれてるんだけどね。

 事実、俺の周りの者、たとえばクラスの連中は、俺がリストカッターであることを知らないバカタレはいない。と、言うか人の噂の伝達速度というのは俺が思う以上に相当怖いものらしく、いつの間にか教員連中を除いたすべての生徒が知ってるなんて事態になっていたらしい。

 それはいい。こんな現場を見られたところで、対して意味を持たないだろう。


 面倒なのは、事情を知らない教員連中にこの場を押さえられてしまうことだ。

 そうなった場合は最悪。今まで微かなうわさを耳にした教員も、俺の左手首の包帯を眼にして想像力を働かせている教員も、俺が決定的なボロを出していないため追求できないだけだ。そんな中でこんな現場を押さえられたらもう容赦はいらない。

 遠慮容赦なく、理由が全国通知されてしまうだろう。


 それだけは、避けねばならない。

 これだけは、墓場までもっていく必要がある。

 誰がなんといおうと、墓場まで守り通すべき秘密だ。

 知っているものは、俺を除けばわずかに一撮み。それもその当事者とも言える人間だけだ。

 これ以上、その理由を知るものを増やしてはならない。


 ゆっくりと追憶する。彼女の髪を、薄い茶色の目を、白い肌を、柔らかな笑い方を、楽しげな物言いと雰囲気を、そしていつも聞こえていたあの音を…………


 足に冷たさを感じた。

 いや、冷たさ、というよりも…………

 

 湿り気?

 

 冷たさを感じた右足を見下ろす。

「………………げっ……!」

 右足が、濡れていた。

 それはもう、靴下の色が変わってしまうほどの濡れ方だった。

 そんな濡れ方をしているものだから当然、履いているスニーカーも変色していた。

 その濡れる元は、赤い色をしていた。

 赤というよりは緋色で、そして鉄の匂いがしていた。

 その源泉は、左手首だった。

 当然そこにあるのは、三本の溝である。


 もちろんちゃんと抑えている。ぎゅっと握り締めており、いつも通りならもうとっくに出血が止まっているはずなのだ。

 しかし、今日はやたらと景気よく出血している。腕に開いた溝から、包帯の繊維の隙間から、押さえている指の隙間から、次々に流れでて、腕を伝って流れ落ちる。


 ………………やばい、このままじゃ、

 冷や汗一滴。

 ………………死ぬ………


 包帯で二の腕の真ん中辺りを縛る。止血帯、というやつだ。直接圧迫じゃもう駄目。多少の雑菌は仕方がない。直接手で持って止血法を併用しつつ保健室に。

 駆け出した。

 頭がくらくらする。貧血だ。かなりまずい。急がなければ。

 リストカットで事故死なんて、洒落にならない。

 それでも秘密が守り通せるのならそれもありだが、間違いなく時瀬(ときのせ)はその理由を世間に放映してしまうだろう。妙に義理堅いのだ、あいつは。


 体育館の裏手から出る。

 ここから安全圏たる保健室までは全速力で大体三分程度。

 十分間に合うは


 人にぶつかった。


「……………きゃ!」

「うわっ!」

 ぶつかったほうも、ぶつかられたほうも、二人仲良く転倒した。

 …………かなり痛い……

 思い切り全身で体当たりしてしまったらしい。これでは向こうにつたあった衝撃は相当なもの。すぐに謝るべきだ。自分のためにも、相手のためにも。

 「…………すいません………ちょっといそいでて………」

 顔を上げる。

「……………えっ?」

 そこで思わず固まった。

 ぶつかってしまった相手は、女子生徒だった。

 体格、顔つきからして同学年。黒い長髪、少し涙目になっている薄い茶色の目、色素の薄い肌、ゆったりとした余裕の感じられる雰囲気。


 ありえない。

 『彼女』が、そこにいた。

 成長していればこうなっていたであろう姿で、

 俺と同じ学校の制服を着て、

 俺のタックルを受け、へたり込んでいる。

 そんなこと、ありえるはずがない。

 だって、あの日、『彼女』は…………………


「えっと…………大丈、夫?」

「………………あ」

 その人物が立ち上がった。心配するかのような表所で、制服を掃いもせずこちらを見ている。

「いや、悪いの俺だし、それにそっちのほうが軽かった。衝撃もそんなに……………」

「そうじゃなくて、」

 とがめるように指差したのは、俺の左腕。

「………あ、こっちか」

 出血は相変わらず止まっていなかった。本気でまずい。急いで処置しないと、大変なことになってしまう。

「大丈夫じゃない。すまなかった」

 言って急いで立ち上がり走り出

「待って!」

 そうとしたところで肩を引っ張られ、危うく転倒しかけた。


 なんというか、懐かしい。

 前にも一度、やられたことがある。

 確かあの時はあいつ、子猫抱いてたか。


 しかし今は感傷に浸っている場合ではない。運動したことで血の巡りが良くなっている。急がないと貧血で失神しかねない。

「悪い。話ならまた後で………」

 走り出す瞬間の姿勢のまま肩口を振り返り、彼女そっくりの少女に言う。すると少女は不満そうな表情になって、

「そうじゃなくて、」

 じゃあ何なんだ。

 ごそごそと制服(ブレザー。現在夏服のため、ワイシャツである)のスカートのポケットを探る。

「これ、使って」

 ポケットからサルベージした一品を突きつける。


 まっさらの包帯。俺が使っているもののように古びているわけでも、緋色に染まっているわけでもない、さっき開封したばかりのような純白のもの。

「その包帯じゃあ、危ない」

「あ、ああ」

 確かに真っ赤に染まった包帯を止血帯にして、手首を押さえながら、しかもその指の間からもだらだらと出血している、となれば二重の面で危ない。雑菌などから以上に、下手な教師に見つかれば余計に面倒なことになってしまう。

「急いで巻いて。付き添ってる振りすれば、多少はごまかせるから」

「わかった」

 反対する理由は、ない。それどころか感謝が必要な場面だ。

「いくよ」

「ああ」

 あわてて腕に包帯を適当に巻くと、隣に並んで歩き出した。

 何気なく肩を貸すような形でもたれかかってくる少女。


 その感触が、なんとなくかつての彼女に似ていて……………

「………………………」

 奇妙な居心地の悪さを感じながら、俺は黙って歩くことにした。


    ×    ×    ×    ×


 子猫を見つけた。


 俺たちがいつも遊んでいる、小さな森の中。その奥のほうには道も通っていないので下手をすれば迷い込んでしまうが、もう何年もここで遊んでいる俺たちにとってはここは自分の庭みたいなもの。迷うはずもないし、迷ったとしてもすぐに自分がどこにいるのかもわかる。


 とにかく、そんな森の中でのことだ。

 子猫を見つけた。


 どこかから迷い込んできたのか、ひどく弱った様子で、森の奥のほうにある大きな岩のすぐ脇に、倒れていた。

「……………ねこ、かな?」

「――――ねこ、だね」

 二人一緒に、その猫を覗き込む。

 首輪は付いていない。けど毛並みはかなり綺麗で体格もどことなく健康的な感じだ。少なくとも生粋の野良じゃない。という事は、

「――すてねこ、かな?」

「うん。そうじゃ、ないかな?」


 言いながら、彼女が猫の背中に手を伸ばし、触れる。

 猫は、無反応だった。びくりと痙攣することも、嫌がって逃げることもせず、そのままうつぶせに倒れている。

「………………動かないね」

「うん……けど、かわいい」

 どうも彼女には猫の状況がはっきり把握でいていないらしい。


「…………ねえ、×××」

「ん? りい、どうかした?」

 猫を抱き上げてしまう×××。それでも猫はぐったりしたまま動かない。

「ねこ、弱ってるんじゃない?」

「よわってる?」

「うん。普通猫って、抱き上げられたりとかしたら、嫌がるよね? けど動かないし、ぐったりしてる」

「え…………」

 言って猫を見下ろす×××。ようやく状況が理解できたのか、その顔には不安が浮かんでいた。


「だいじょうぶ、かな………?」

「とりあえず、動物病院に連れて行ったほうが……いいんじゃない?」

「このあたりで一番近いところって…………」

 言われて記憶を探

「あ、内陣さんだ」

 る、前に思い出せたらしい。と、言うかなんで覚えてるの? ×××、動物、飼ってなかったよね………

 けど、今はそんなことを気にしているような余裕はない。猫の状態によっては一刻を争うのだ。


「じゃあ、行くよ。×××」

「あ、待って!」

 肩口を引っ張られ、危うくこける――――

 あ、こけた。

 背中、打った。

「………………痛い」

「あ、りい、ごめん」

 身をのそのそと起こす。

 あざには、なってないらしい。

「で、どうかしたの? ねこ、連れてくんでしょ?」

「そうなんだけど、はい」

 言って差し出されているのは、件の猫である。

「………どうして、俺が?」

「だってこの子、抱っこした最初の頃はわからなかったけど、すっごく弱ってるもん。急がないと、死んじゃうぐらい」

「だったら………」


「だから、どうせ死んじゃうんでもたくさんの人に抱っこされてからのほうが幸せだもん。だから、私だけじゃなくて、りいも……」

「………………………」

 そういわれてみれば、そういう考え方も出来るかもしれない。

 この猫の命が長くなかったとして、その人生は一体どれほどの時間になるというのだろう。三ヶ月か、四ヶ月か。恐らくはその程度。


 そしてその間、一体何人に抱かれてきたというのだろうか。

 もし、それがなきに等しかったとして、

 そのまま死んでしまったら、それは一体、

 どれほど、酷な……………


「…………わかった」

 子猫を受け取って、腕に抱く。

 軽い。それに、子猫にしては体温があまりにも低いような気がする。

「いそごう。この様子だと、本気で死んじゃうかも……」

「うん。わかった」

 二人並んで、全速力。

 慣れ親しんだ森の中を、猫を抱いて。

 森から出た瞬間、気のせいだろうか。

 一瞬だけ、猫の鳴き声を聞いたような気がした。



    ×    ×    ×    ×


 その少女の名前は高浜(たかはま)幾夜(いくよ)といった。

 面白い人物である、と俺は認識している。


 なぜなら、

「大丈夫、か?」

 付き添って保健室に運び込まれたはずの俺が丸椅子に座っていて、


「うん…………ごめん、変なことになっちゃって」

 運びこんだはずの高浜幾夜がベッドに貧血でダウンしているのだから。


 一応の経緯を説明すると、こうだ。

 俺がまず保健室に運び込まれる。過去最大の出血量に保健担当教師、目を回す。「やりすぎた」と俺が言い訳、というか事実の説明をする。幾夜、やや顔色が悪くなる。保健教師、小言を放ち始める。幾夜、どんどん顔色が悪くなる。俺、小言攻撃から逃れるため、傷口を公開する。保健教師、びっくり。幾夜、ばったり。俺、どっきり。


 と、いうわけだ。

 保健教師の話だと、彼女は少し重めの貧血症で大体十日に一度ぐらいの頻度でこのように貧血でダウンするらしい。今回保健室で倒れたのはたまたまで、前回は理科室で倒れたそうだ。

「まったく、自傷行為なんて…………やめとかないと、今度は腕が千切れるよ……………」

 保健教師の注意|(?)をぼんやりとする頭で聞き逃す俺。その間にもぐるぐると包帯は巻きつけられていき、六周ほど巻かれたところでピンを使って留められる。

「…………とりあえずこれでよし。出血の割にあんまり深くなかったから縫う必要はなし。化膿してきたら病院へ。わかった?」

「………わかった」


 それならよし、と保健教師(四十代後半、女性、母親気質、未婚。結構横にでかい。通称 ママ)は満面の笑みを浮かべる。

「次の授業、どうする? 幾夜は聞くまでもないとして、リョウのほうは?」

 内線電話片手に、ママ。

 いわれてリョウこと俺はコンディションのチェックを行う。


 上々………ではない。間違いなく。血の気は多いほうだが、なんだかやたらとクラクラするし、だるい。それになんだか吐き気もする。

「……………無理だ」

 このまま授業を受けたところで、恐らく終了前にダウンする。

 それを聞くとママはあきれたように腰に手を当てて、

「やっぱり。顔色悪いし、覇気もない。授業は休んで、寝てな」

 指差す先は、幾夜の隣のベッドだ。

「そうさせてもらえると、うれしい」

「確かクラスは、幾夜と同じだったね。連絡入れとくよ」


 同じクラスだったのか、幾夜。

「ほら、気分が悪いなら無理はしない。さっさと寝る」

 言われるがまま、というより追い立てられるがまま、俺は三つあるうちの真ん中、唯一カーテンがしまっているベッドの右隣のベッドに横になり、カーテンを閉める。

「お休み、自傷少年」

 大きなお世話だ。

 ぱたぱたぱた、とスリッパで床を歩く足音が遠ざかり、ガラガラ戸を開け、保健教師が出て行く。クラスに連絡、は普通内線から行うはずだから違うだろう。何か用でもあるのだろうか。


 まあなんにせよ、静かになってくれたのならどんな理由でもかまわない。さあ、寝よう。俺は用意されてる毛布もかぶらず、そのまま目を閉じ、


「……………片原、君?」


 ぐるりと向きを百八十度変更。ベッド足元から見て左を向く。

「高浜か」

「うん」

 と、言うかここには今二人しかいない。妙なことを考えるやつは考えるのだろうが、あいにく俺はその手のことに興味はないぞ。

「なにか用か?」

「ごめん、ちょっと聞いてもいい?」

「質問するだけならかまわないが、答えるかどうかは質問による」

「……回りくどい」

「性分なんでね」

「けど……どうして、リストカットなんてしてるの?」


 幾夜の言葉は体育館裏で衝突したときと比べると、同一人物かどうか疑ってしまうぐらい力弱い。さらに、彼女にそっくりになっているので、俺としてはかなり複雑な気分だ。

「……………どうして、そんなこと聞くんだ?」

 一応言っておくべきだろうか、と思いながら言った。

「だって、気になるし。どうして自分を傷つけるのか」

 気が滅入る。どうして言いそうな事まで同じなんだ。

 『あいつ』だったら、俺がリストカッターと知るや否や聞いてきそう、いや間違いなく聞いてくるだろう。

 知っても意味がないと知っても、こちらが拒んでも聞き続ける。普段はそれほど人の中に踏み込んでこないのに、何か知りたくなると容赦なく聞き続ける。そんなやつだった。

 そこまで同じなのなら下手に隠すより…………


「特に意味はない。ただ、やっておかないと形にならないからな」

「形?」

 ああ、と俺。

「誰かの記憶を背負うには、人一人だと重すぎる。

 形にしないと、やってられない」

 左手首を、顔の前に移動させる。


 包帯の巻かれた、しかし奥には確かに赤さが存在する手首。

 これは、俺が背負う『あいつ』の分の記憶なのだ。

 誰かの記憶を背負うには、人一人では重過ぎる。ならばこのようにして運ぶしか、ないだろう。


 そんな理由を察したのか察していないのか、幾夜は「へぇ」とだけ言った。

「けど痛くないの? 自分を切るのって」

「滅茶苦茶痛い。それに危ない」

「なのにやるの?」

「ああ」

「変わってるね」

「お前と同じぐらいにはな」

「?」

 リストカットの理由がいまいち不鮮明であるのに「へぇ」で済ませるも人物はいい奴か変わり者かそのどちらかだ。多分幾夜は両方だな。

 『あいつ』と同じく。


 ……………今日はやけに『あいつ』のことが頭をよぎる。

 中途半端に追憶して、そこにあまりにもよく似たやつが登場した。当然といえば当然かもしれないが、これ以上、『あいつ』のことは思い出したくない。

 『あいつ』は、俺の『傷』なのだ。

 思い出して、傷をえぐり続けて、楽しいわけがない。

「……………高浜、」

「幾夜でいい」

「なら俺も、リョウでいい」

「いいの?」

「いいの。そんなことはともかく、」

「なに?」

「黙っててくれるか?」

「へ? 何を?」

 呆けた声が聞こえた。

「……………理由のほう。やってること自体はばれてもかまわないが、理由のほうを言いふらされると困る」

「まあ、やってること自体はもうばれてるけどね。いいよ、別に。言いふらす趣味もないし」


 と、言うか言いふらすのが趣味の人間ってどんな奴なんだ?

「それならいいんだ。感謝する」

 姿勢を再び百八十度回転させ、目を閉じる。


 もう眠ろう。俺はもう十分『あいつ』のことを思い出した。

 『あいつ』の姿を見るのは、夢の中だけで十分だ。

「あ、リョウ君………」

「寝る」

「………それ、ちょっと困るよ?」

 まったく、

「何のようだ?」

 明らかに迷惑そうに言ってやると、幾夜は雰囲気でわかるほどにあせり、

「えと、教室、とかで、話しかけても、いい?」

 やたらと歯切れ悪く、当たり前のことを言ってきた。

「は? それぐらいなら、別にいいけど…………」

 と、言うかこんなへんな出会い方で知り合って妙な打ち明け話までされた相手に普段話しかけるなというほうが無理な話だろうが。

「変な話はするなよ」

「しないしない、そんな話」


 いや、『あいつ』とここまで似かよった性格ならありうる。するなということをやり、やれといわれたことをやらない。そんな天邪鬼な性格の上、やけに明るいというのだから始末が悪かったのだ。

「ならばよし」

 とりあえずそう締めくくり、俺は目を閉じた。

 隣でも衣擦れの音とともに息をつく音が聞こえる。幾夜も、眠りにつくところらしい。


 ………他人の立てる、寝息か

 懐かしい。

 本当に、懐かしい。

『あいつ』がああなってから、俺の周りはすべてが変わった。

 まだ小さかった俺も、あのときから誰かの寝息というものを聞くことがなくなった。まだあの時はそうなったことを寂しがる歳だったというのに、俺は何も感じていなかったことをよく覚えている。

 それだけ俺の中でも、周りの中でも、『あいつ』の存在は大きかったのだろう。

 ……………話してみるのも、悪くないかもな。


 そう思ったとき寝る直前特有の朦朧とした波がやってきて、俺の思考は止まった。


    ×    ×    ×    ×


 ひどく、いらいらとした気分だったような気がする。

 やたらと高く、やたらと赤い場所だったような気がする。

 かなり、そのときはわずらわしく感じられたものがそこにいた気がする。

 それ以外はよくわからない。とにかく高くて、赤い場所に、わずらわしく感じられたものと、いらいらした気分でいたことだけは確かだ。


 わずらわしいものがなにやら話しかけてきた。

 いらいらした俺は冷たく、しかもぶっきらぼうな返答を返した。

 わずらわしいものがひざに顔を埋める。そこで俺は、それが本格的に鬱陶しいものに感じられて立ち上がった。


 何かが耳を打つ。音だったかもしれないし、声だったかもしれない。ひょっとしたら単なる衝撃かもしれないが、とにかく耳に何かの感覚がある一瞬が流れた。

 そして背中に衝撃。

 本当にイラついて、俺はそれを振り払った。


    ×   ×   ×   ×


 いやな目覚めというというものは本当にいやなもので、何がいやかと言えば覚醒までの時間がほぼ一瞬であることだ。

 まるでいやな気分を忘れるな、とでも言うようにじわじわと思考に沈ませて、いやな気分を持続させられる。


 そんなわけで覚醒はひどくいやな感じだった。

 貧血は収まったのか、頭はすっきりしている。が、いくら頭の中身がすっきりしていても、それを使う方向が最悪ならば、状態も最悪。頭の中はすっきりしているにもかかわらずいやな気分で満ちていて、しばらくは何もしたくなかった。


 とりあえず身を起こし、保健室のベッドから外の様子を見る。

 赤みの濃い夕日の日差し。時刻はおよそ六時ぐらいだろうか。最近は日が傾く速度が変わるあたりのため、日の色だけで正確な時刻をつかむことはできない。不便なものだ。

 しかし確かなこともいえる。

 今日の授業はもうとっくに終わってるな。うん。間違いない。


 左手を突いてベッドから降りた。

「…………………痛っ」

 左手首に鈍痛が走る。

 そういえば貧血起こしたのはこれが原因だった。痛みは引いて、出血ももうないが、寝ている間に多少出血したらしい。白かったはずの包帯に血が


 包帯。

 いつもの赤黒い緋色ではない、真っ白な。

 俺は立ち上がると隣のベットのカーテンをめくった。

 そこには白いシーツと同じく白い枕カバー、そして薄い赤の毛布が一枚と、

 それに包まる一人の少女。

「……………………………」

 その寝息は穏やかで、寝相も穏やかだったらしい。ほとんど黒い長髪も毛布も乱れていなかった。そしてその表情は、やはり驚くほど『あいつ』に似ている。

 生き写し、というよりも、そのものと表現したほうが正しいような姿。安心感と、そして罪悪感を同時に抱く姿だ。


「―――ふっ」

 思わず笑った。

 自嘲なのか、安堵なのか、それとも落書きしたくなるような寝顔だったからなのかは俺にもわからないが、確かに俺は笑った。

 そのままそのベッドに腰を下ろし、その顔を見つめる。

 伏せられた茶色の目、ベットに広がる漆黒の髪、美少女といってしまってもいい顔、穏やかな、あまりにも穏やかなその表情。


 似すぎている。

これは似ているのではない。これでは、同じだ。

 もしかして、これは夢なのか? ここに、『あいつ』がいるはずがない。『あいつ』は確かに…………ああなって、そして俺がこうなった。この傷が証明といってもいい。にもかかわらずここに『あいつ』に似た、否、『あいつ』と同じやつがいる。もしかして俺は、今日、あの場で出血しすぎて意識を失って今も夢を見ているだけなのか? あそこから飛び出してぶつかったのも、その後でこいつにあったのも全部夢で、今も俺はあそこに倒れてるんじゃないのか?

 左手首を握り締めた。


「……………ぐはっ!」

 ものすごく痛い。なんというか、神経を直接わしづかみにされた気分だ。多分、夢ではないのだろう。

 けど、こんな明瞭な感覚のある夢ならば見てもいいかもしれない。

 現実と変わりないから。

 しかし大抵の夢というのは感覚のないもの。感覚がなければ痛みもない。ならばこれは、現実だろう。

「…………………」


 その行動に意味はない。あったとしても、至極くだらない、取るに足らないような些細な意味だ。

 そんな事は、わかっている。わかっていた。


 が、気がつくと俺は、

 眼前の、少女の頬に、

 手を、伸ばしていた。


 ……………暖かい。

 人肌の、ぬくもり。

 俺が一度失ったもの。そして今、ここにあるもの。

 かつての俺はおろかな行動ゆえにその温かみを永久に失い、そして二度問えることが出来ない状況に陥ってしまった。

 それ以前に、俺はそれを求めてしまう自分自身を、許せなくなった。


 しかし、今ここに。

 それが、ある。

 かつて失った温かみが、

 なくしてしまった、ものが。


「……………………」

 失いたくない、と思った。

 同じじゃなくてもいい。ただ似ている存在でもいい。『あいつ』の代わりができるなら、その存在を失いたくないと、願うだろう。事実俺はここでこうして祈っているし、そしてそのために動く。

「………ごめんな………………」

 つぶやいた。


 それは『幾夜』への言葉だったのか、それとも『あいつ』への言葉だったのかは定かではない。だけどお願いします。もう一度、あいつと一緒にいさせてください。

「…………………」

 罪悪感でいたたまれなくなって、俺は保健室から立ち去った。


    ×    ×    ×    ×


「……元気だな、こいつ」

「ほんと、げんきだね」


 森の中、俺たちが「岩肌の広場」と勝手に呼んでいる崖の近くの広場で駆け回るそれを見つつ、二人同時で言った。

 目線の先にいるのは、ねこ。

 薄い茶色の毛に、白い縦縞、顔つきはかなり可愛げのある感じで、ヒゲが短い。種類はわからないが、元気にあっちこっちを駆け回っている。

 あのときの、猫。


 結局あの後動物病院に駆け込んで、いろいろと見てもらった末栄養不足で衰弱しているだけであることがはっきりした。そしてそのまま俺のほうじゃなく、この手のことに×××の方の親に来てもらい、一日様子を見るということで病院にその猫を預け、そのまま帰った。


 それから、一週間である。

 その猫は随分と元気になり、今では、これだ。

「子猫って言うか、子犬みたいだね」

「う〜ん、確かに、そうかも」

 子猫といえばもう少しごろごろしてるイメージがあるが、こいつはそのイメージから完全にかけ離れている。かけ離れすぎて、もう猫というイメージが付いてこないのだ。


 そういえば、

「「名前、付けてなかった」」

 言ったのは二人同時だった。

「どうする?」

「どうする、って……りいは、どんなのがいいの?」

「いや、結局×××が飼うことになったんだろ? だったら俺じゃなくて×××がかんがえたほうが………」

「でも病院でも最後まで心配してたの、りいだよ?」

 うっ。

「今もこんな風にして心配してるし、十分名前付けてもいいんじゃない?」

「……けど、俺の付ける名前って変なのばっかりだよ……?」

 と、言うのは嘘で今まで何かに名前をつけるという行為自体したことがないので不安なのだ。それに、妙な名前をつけてしまったら猫に悪い。


「いいよ。それで」

「……いいの?」

「うん。どんなに変な名前だったとしても、りいがつけた名前だし。どんな名前でも、ちゃんと中身があれば、ね」

 そうそう、とでも言うように猫が鳴いた。

 案外細い声だった。


 しかし、中身……ね。

 どういったものにすればいいんだろうか。基本的に名前にこめる意味として有力なのは『長生き』や『たくさんの人に愛されますように』なんかがある。けどこれは猫だし、それに猫は長生きしすぎると溶解になる、と言う話もある。だったら長生きは避けるべきで、それにあまりに大量の人間に愛されても鬱陶しいだけだろう。

 だったらほかに何か、何か…………


「あ、」

「どうしたの?」

 興奮気味に×××が俺の顔を覗き込んでくる。

「いっこ、思いついた」

「どんな名前?」

 やはり興奮した様子でこちらにたずねてくる。猫のほうも、事情を察したのか駆け回るのをやめて俺の表面へよちよち歩いてくる。

 なんだか、ものすごく言いづらい。×××は俺のことじーっと気体に満ちたまなざしで見てるし、猫も猫で何かを期待している目でやっぱりじーっと見つめてくる。

 正直な話、とんでもなく言いづらい。


「え…………と」

 しどろもどろながら言葉を引っ張り出す。

「『拍手(かしわで)』……なんてどうかな?」

「かしわで?」

 いや、猫と一緒に首かしげなさらんでも。

「なんで、かしわで?」

「ずっと俺たちと一緒にいられるように、って」

「………………?」

 うう。やっぱり理解してくれなかったか。

「ちょっと前に読んだ本に、死んだ後転生して猫になった人の話があったんだ」

「そこから、とったの?」

 うなずく。

「死んだ後も、一緒にいてくれるように?」

 もう一回。


 …………やっぱり、ちょっと悪趣味だったかな。死後も共にいてほしいなんて、自分たちも気持ち悪いしそれに第一猫に悪い。

 やっぱり、違う名前にしよう。

 そう思って口を開こうとした矢先、

「……拍手、か。いい名前」

 いい名前認定されてしまった。

「……ホントにいいの?」

 個人的には即興の名前なんで、いい名前なんていわれてしまうとなんだかかゆい気分になる。いや、だからといって本気で考えろといわれても困るんだけど………

 そんなことらの心中をよそに、×××は、

「うん。ほら、この子も――――」

 目の前の猫の様子を確認する。

 表情が変わっていた。なんというか、先ほどまでの期待いっぱいの表情とは違って、満ち足りた感じ?

「――――気に入ってる、みたい、だね」

「うん。私にもそう見えるよ」

「じゃあ、決定?」

 うん、とうなずいて猫、拍手を抱き上げる。

「よろしくね、拍手」

 にっこりと満面の笑みを浮かべながら、拍手と目を合わせる。

 その様子がなんだか妙にほほえましくみえて、


 俺は微笑んで、拍手と×××の頭に手をやっていた。

 …………怒られたけど、×××に。


    ×    ×    ×    ×


 次の日。

 昨日の包帯をそのまま巻き、いつもどおり遅刻には程遠い、しかし決して余裕があるとはいえない時間帯に、俺は登校した。

からから、と比較的新しいため、ほとんど音なく開く戸を開ける。すると、


 教室内の空気、雰囲気のようなものが、

 明らかに、

 変わった。


 腫れ物に触るかのような目関係を拒絶するかのような視線存在自体を拒絶する態度人ではないもののようなものをみる恐れ自分勝手な同情と悲哀――――


 向けられても迷惑なだけのそれらが、俺を、特に左腕に巻かれた包帯を突き刺す。

 声をかけてくるものは、いない。

 いらない。

 俺はもう、一人で『終わって』いる。


 自分勝手な感情も、手前勝手な親近感も、抱かれるだけ迷惑な代物。感じることもないものなど、向けられていようがないも同義。

 俺はいつもどおりまったく表情と心中を変化させず、窓際後方より二番目、教室内の席ではベストポジションといえる場所にある自分の席に着いた。


「……………………」

 特にやることもないので、ぼんやりと窓の外を眺める。

 外は、新緑一色である。

 人によっては葉っぱしかない木々はつまらないだけでなんでもないというのだろうが、こうしてみるのも情緒があって悪くないと俺は思う。

 花のほうも、また違った情緒があってよかったといえばよかったが、窓を開けると花びらが入ってくるのが最悪だった。あれさえなければしっかりと咲いていてくれてもいいのに、と思わないでもないが、あの窓の外一面の花の色は目に痛い。


 しかし、それでも――――

 それでも中に目を向けているよりはいい。

 教室の中と違って、花は行動しない。感情もなければ感覚器官らしきものも、傍目にはわからない、意識の存在を見受けられない。

 少しもわずらわしくない。

 

 こうしてみると、昨日あいつに会ったのが本当に夢に思えてくる。

 話しかけてもいい、と昨日のうちに言ってあるのだ。正確から判断して教室の空気など気にするタイプではないだろうし、それならこちらの姿を見受けて話しかけてこないはずもない。

 となるとあいつは教室にいないか、もしくは存在すらしていないかのどちらかだろう。他人の存在を立証する際、ぼけた記憶ほど役に立たないものはない。


「……………………」

 なんとなく放置してある教科書を取り出し、取り出した時点で、取り出さなければよかったと後悔した。

 ――――何なんだ、この一面金色の教科書……………

 別に、ペイントされているわけではない。

 ただ表面に、黄色のものが大量に張り付いているだけである。

 その金色はどこの教室にもあり、なおかつ微小な殺傷能力があり、そしていじめの定番ともいえるグッズの色である。


 平たく言えば、画鋲である。


 そんなものがほとんど一部の隙間もなしに教科書に植わっていれば、そりゃあ一面金色にもなる。これだけの量だ。持ち出すにもさすにも、それなりの時間がかかる。目撃者を作らないわけがない。なら見た連中は共犯か、見て見ぬふりをしたか、どちらかだ。

 ――――嫌われてんな、俺。

 とりあえずもう一冊、薄手の教科書を取り出し、平らな部分に引っ掛けて一気に抜こうと試みる。が、予想以上の硬さだ。こんなものでは抜けない。

 一本一本、手で引き抜いていく。


 …………かなり面倒な作業だ。どんな怪力男がやったのか、刺さった画鋲は完全に根元まで植わっていて、生半可な力では抜けやしない。

「痛っ」

 指に画鋲が刺さった。抜くときに端を持ちすぎた。人差し指の先端から出血している。

「…………………」

 一本一本抜いていくのが馬鹿らしくなって、俺は刺さっている側の表紙をめくり、すべての画鋲を本体からはずすと、表紙の裏側を机に押し付けてすべてを一気に押し出した。

 すこし教科書が破れたが、一気に大量の画鋲が机の上に押し出される。

 俺はその画鋲を、一応携帯しているフィルムケースの中に押し込んで教科書を元通りしまった。


 最初からこうすればよかったんだ。そしたら痛い思いも、面倒な思いもしなくてすんだんだ。

 しかしいまどき古典的な手だな、これ。教科書に画鋲なんて、小学生でもやらないかも知れない。こんなことやるやつの気が知れない。

 ――――まあ、もうちょっと高次元なことをやっていたところで感想に変化はないのだが。


「くだらねー」

 ぼやくように、思い切り椅子にもたれて言ってやる。もちろん半ば以上あてつけであるが、あてつけの相手のやったことがくだらなかった場合、それに対するあてつけもくだらないものに分類されてしかるべきだろう。そんなことは承知している。問題なのは向こうがどう思うかだ。


「……………確かに、下らないことですよね」


 俺の机の正面、その席に一人の人間が座ってきた。

「僕も、同感ですよ。(かた)(はら)君」

「だろ?」

 嫌味なほど制服が似合う、ある種異様なほどのさわやかな男。


 (とき)(のせ)(みつぐ)。俺のほぼ唯一の友人であり、小学生時代からの知り合いでもある。中学の時には別々の学校だったので付き合いは薄かったが、それでも友人であることにはかわりなく、高校で再会して今もこのようにして友人をやっている。


 ホストのような外見に名前。外見、内面ともに少々変わったやつだが、悪いやつではない。教室の中にいても堂々と俺に話しかけてくることがその証拠だ。いいやつという意味でも、変わったやつという意味でも。


「で、なんのようだ?」

 時瀬は正気を疑うような目で俺を見た。そして俺の机に芝居じみた仕草で頬杖をつき、

「友人に話しかけるのに、理由が必要だと思うんですか?」

「……違うのか?」

 ちょっとした雑談だってそれ自体『暇つぶし』という立派な『用件』だ。用件は理由に通じることだし、それがないなら普通は話しかけてこないだろう。

 それをたずねるのが、変なことなのだろうか。

「………ある意味では、といっておきましょうか。まあとにかく先ほどの質問に答えておくなら『聞きたいことがある』になりますね」

 苦笑するかのように口元をゆがめた。

「答えるかどうかは別にして、何が聞きたいんだ?」

 なんだか昨日も同じこといったような気がする。

「その包帯についてですよ」

 時瀬の目線が俺の左手首、そこに巻かれた包帯に目を留める。


 …………そんなにじろじろ見るな。気になるのはわかったから。男に見つめられる趣味はないぞ。

「包帯が、どうかしたか?」

「いえ、たいしたことではないのですが」

「なら聞くなよ」

「あのとんでもない色をした包帯はどうしたのですか? 今まで何度僕がいっても代えようとしなかった、あの飽和するまで血液を吸引したホラー映画の小道具のようなものは、どうしたんです?」

 俺の入れた横槍は完全に無視されたらしい。そのまま椅子にかける体重を増加させる。あと少し体重を多く後ろに傾けたら点灯するような、きわどいバランスだ。


「変えた。見りゃあわかるだろう」

「そんなことを聞いているのではありません」

 毅然とした口調だった。

「何かあったんですか? あれだけ断固として忌避していた事柄を翻してしまうような出来事か何かが。ひょっとして、」

 にやりと、時瀬の表情の方向性が変わる。

 ……………なんだ、そのこれからいたずらでもしようとしている子供みたいな顔は。


「彼女でも、できました?」

 うっかり背中にかける体重を増やしすぎて後ろ向きに椅子ごと倒れた。背中を強打する。

 …………かなり痛い。

「………すごい動揺ですね……………もしかして、図星ですか?」

「んなわけねぇだろ!」

 勢いよく身を起こして断言する。

 ない。絶対にそんなこと、ありえない。『知っている』くせになんてことを!

「……………ですよねぇ」

 なに笑ってやがる。


「わらうな」

「いや、失敬。ですけど、彼女云々は冗談として、本気で気になっているのも事実なんですよ」

 自分の中で渦巻いていた、もろもろの感情が鳴りを潜める。

「いろいろと片原君には、心配なところが多いですからね。特にその包帯、『彼女』関連のものでしょう? その包帯を変えてしまうなんて、何かの暗喩に思えてならないんですよ」

「時瀬、」


 鳴りを潜めた感情が、再び盛り上がってくる。

 今度は、大きな闇を引き連れて。

「教室では話すなといっておいただろう?」

 自然と、口調が脅しにも似た低いものに変じた。

 俺以外であいつのことを知っている、同年代で唯一の人間。

 それが、この時瀬貢という人物だ。

 それがあったから俺は中学時代の三年間断絶してあったにもかかわらず再び友人関係を構築することが出来たし、時瀬も俺と友人を続けることを出来た。

 しかし、俺は。

 あいつのことを、これ以上誰かに知られたくは、ないのだ。


 自分が、壊れないために。

 あいつを、ゆがめないために。


「ああ、すいません。けれど時間的にもぎりぎりですし、移動するわけにも行かないでしょう?」

 いつもどおり、ひどくあっさりした様子で謝罪を入れてくる。

 引きずるのも趣味ではないので、俺も便乗して話題を元の位置まで持ってくることにした。

「………………単純に変えただけだ。特に何があったとかはない」

 嘘は混じっているが、事実だ。が、この程度のうそが時瀬相手に通用するとも思っていない。こいつはこいつで、なかなか鋭いのだ。

 案の定、

「…………本当に、そうなんですか?」

 このように疑ってくる。

「ああ。本当だ。昨日もいつもどおり、何もなかった」

 あったことはあったんだが、それを言うと何を聞かれるか。

 前に一度、とんでもない深さでカッティングしてしまい、隠していたところを気取られて、思い出したくもないほど恐ろしい目にあった。

 前の二の舞にはなりたくない。


「ですけど、今日の片原君は、少々違って見えますよ? 何か余裕が生まれたような、そんな感じです」

「そうか? わからないけど?」

 嘘だ。自分でも自分がちょっとばかり変化したのがわかってる。そういえばその変化の元、遅いな。保健教師の言葉から推測するに、同じクラスのはずだが。


「……………誰かを、待っています? さきほどからみょーにドアのほうへ目をやっているようですが…………」

 まずい、気取られたか。こいつ、もうちょっと鈍感になれ。確かに二、三度、一瞬だけだが目をやったのは事実だ。しかしそれで気づくか、普通。

 これ以上は、まずい。

「、ところで時瀬。今日の分の予習、やってきたか?」

「…………話をそらさないでください。まあ、一応やってきてはいますけど、それをどうこうするのは質問に答えてからです」

 畜生。失敗か。

 時瀬は続ける。

「まあ、片原君にこたえる気がなくても、おおよそのあたりはもうつけているんですけどね」

 時瀬はそのホストフェイスに笑みを浮かべる。

 ………何なんだ、そのやけに不適な笑い方は。


「高浜幾夜さん、でしょう?」

……………………ぐはっ

 気取られた。

「何でそう思う?」

「現在登校していない生徒のうち、普段からホームルームを欠席している生徒を除いた結果、残ったのは男子生徒六人、女子生徒三人です。男子生徒六人については片原君とは交流がなく、むしろ敵対しているほどです。よほど特別な出来事があったなら別ですが、そうなったとしても関係が急変する事は考えられません。よって男子生徒は除外。

 残るのは女子生徒三人ですが、そのうち一人は入院中、もう一人はパターンから言って本鈴ぎりぎりにならなければ教室に姿を現しませんし、そもそも会話が成立するような人とも思えませんよね。第一片原君なら、そのうち来るとわかっている人間を待ったりはしません。よって残ったのは女子生徒一人、普段からホームルームを欠席しがちでなおかつ片原君と会話が成立する可能性がある人物、高浜幾夜さん、彼女しかいません。以上、ついさっき思いついた符号です」


「………たまげたやつだ」

「けど、粗が多くて確定まで持っていけなかったんです。でもこれではっきりしました」

 にやり、と笑う。

「正解、でしょう?」

「………ちょっと待て。なんでそうなる?」

「反応です。これだけ長く並べ立てていた推測が大ハズレとなれば、片原君はいつも笑い飛ばすか呆れ返ってものも言えなくなるはずです。それがないということは正解だと、そう判断しただけです」

 しまった。表情を装うので精一杯でそんなところまで気が回らなかった。失策だ。あいつの掘った墓穴に自らダイブしたようなものじゃないか。

「で、なにがあったんです?」

 始まる。残酷劇(グランギニョル)が。

 いつもなら嫌味なだけなホスト営業スマイルがやけに恐ろしい。

「さあ、白状してください。出ないと前回同様、」

「同様?」

「×××××な目にあわせます」

 血の気が引くのがはっきりわかった。


 こいつは魔女の拷問係か何かか? これだけ的確に人の弱みをついてくるとはその手の知識を仕入れとるしか思えない。

 これはもう、白をきりとおすより

「そんなことしなくたって、話してやる」

 と、いうかなんで隠そうとしたのかわからん。自分でも、実に不思議だ。



 チャイムが鳴った。

「おっと、」

 俺の話したダイジェスト版の説明で満足したのか、未練を漂わせることなくさっさと席を立つ。

「けれどね、片原君」

「何だ? たいしたことじゃないならさっさと席に着け。うるさいからな、担任が」

「いえ、これは十分大したことです」

 いって時瀬はこちらに向き直り、

「口を出すことではないと思うのですが、ちゃんと、『わかってあげて』くださいね」

 は?

「では忠告どおり、さっさと着席させてもらいますよ。うるさく言われるのは面倒ですからね」

「おい、ちょっと待て、どういう…………」

「では、また後ほど」

 言うが早いか、さっさとこちらの声を無視した上で自分の席につく時瀬。追いかけていって問いただしてやろうかとも思ったが、時間が時間だ。後で聞けばそれですむ。

 しかし、『わかってあげてください』ね――――

 前回そういわれたとき、俺はどうしたんだったかな………


 再び、チャイム。

 本鈴。授業の始まり。


 本日の欠席者、二名。

 名も知らぬ人、一人。

 知っている人、一人。


 さて、


 今日も一日、がんばろう。


    ×    ×    ×     ×


 んでもって、昼休み。

 時瀬に対して追求を繰り返すもいつもどおりののらりくらりとした態度で逃げられ続け、そのうちこっちが根負けし、追及を断念。そのまま聞き流し半分で授業を受け、気がつけば昼休みである。

 昼休み開始のチャイムと同時に学食、購買部などに向かう、餓えた浅ましい人間たちが出て行き、教室と廊下がすっきりしたところでこちらも購買に向かい、時間差をつけたせいでかなり込んでいる購買部で昼食のパンを二つ(焼きそばパンとカレーパン。計二百五十円也)購入する。


 向かった先は例の体育館裏だ。

 学内で一番落ち着く場所である。

 日によっては時瀬と昼食の席を共にするときもあるが、今日はそんな気分にはなれない。しかし教室で食事となると当然拭く数人の衆目の元で食事を取ることになり、どうも落ち着かない。

 やはり食事や睡眠といったリーズナブルな行動は、一人で行うべきだろう。


 そんなことをぼんやりと思考しつつ、俺は昨日と同じ場所に腰を落とした。腰と一緒にパンも二つとも落としたが、その程度で食えなくなるような甘っちょろい包装ではない。

 拾い上げてカレーパンのほうの包装を剥き、一口。

 うむ、なかなか。

 やはり学生である以上、この定番メニューをおいしく食べられないようではやってられない。健康な食生活は健康にとっても重要。栄養的には偏りがあるような気もするがそんなもの気にしては――


 カタン


「―――――――ん?」

 近場ですこし、硬質な音がした。

 プラスチックをコンクリートに置いた音、だろうか?

 学校、昼休み、すこし重めのプラスチック音。

 そのシチュエーションで連想されるものとなると、ひとつしかない。


 誰か、来たのだろう。


 この体育館は長方形で周りには幅三メートルほどの隙間がある。

 俺がいるのはそのうち校舎から一番遠い、学外に最も近い部分である。風向きや日当たりなどから考えると夏場には結構いいスポットになるのだが、如何せん校舎からの距離が遠すぎるため、それほど人は来ないいい場所である。

 まあ、残りの面に人が来ることは想定していなかったが、別段おかしなことでもないだろう。ちょっとした気分でわけのわからない行動をすることがあるのが我々『学生』という生物である。


 しかし、せっかく回りに人が1人もいない状況を満喫していたのに残念だ。

 仕方がないが別の無人スポットを探すとしよう。

 下ろした腰を上げ、食いかけのパンを口にくわえ、もうひとつをポケットとにねじ込み、そこで急に魔がさしたのだろう。急にふと思い立って誰が来たのかと確認するため、方向を百八十度転換し、歩き出した。


 角を曲がる。

 そこで一人の生徒が弁当を広げていた。

 女子生徒、体格、顔つきからして同学年。黒い長髪、やや眠たげな薄い茶色の目、ちょっと色の悪い色素の薄い肌。


 …………何でこんなところにいやがんだ。

 しかも馬鹿みたいな大きさの弁当箱広げて。

 半ば異常あきれながら、額に手をやりつつ言う。


「………………何やってんだ、幾夜…………」


 驚くべきことに俺の接近に気がついていなかったらしい。弁当箱に注がれていた視線がすこしあわてた挙動でこちらを向く。

「…………あれ? リョウ君?」

「『あれ?』じゃねえだろ」

 何で授業に出てなかったやつがこんなところで弁当広げてんだ。それも馬鹿みたいなサイズの、ブルーシートのオプションつきで。

「今日の授業、どうしたんだ? 朝からいなかっただろ? お前」

「朝教室にいたら気分悪くなって、それからついさっきまで保健室。気がついたら昼だった、って感じ、かな?」

 かな?

「まあ、そんなところに立ってないで座ったら?」

 ぽんぽん。

 二回ほど自分の隣をたたく。

 ……………そこに座れと、そういうわけか?


 断言しよう。こいつ、相当無神経な部類に入る。

 昼休み、一緒のブルーシート、人気のない体育館裏。

 このシチュエーションが、一体何を連想させるか、まったく考えていない。

 …………まあいいや。

 ここ、たまに犬猫は来るけど、めったに人は来ないし。それに立ってるのもしんどいし。

 靴を脱いでビニールシートにあがり、隣に胡坐で座り込む。


「もう大丈夫なのか?」

「うん。いつものことだし。それに午後からは出ないと」

「そうだな……………」

 …………ん?

「――――って、ちょっと待て。『いつものこと』?」

「うん。三日ぐらい前、かな。いつもどおりに」

「…………つかぬ事をお聞きしますけど倒れる日と倒れない日、どっちが多い?」

「倒れるほう。ひどい週は一週間に二時間しか授業出てなかったりした」

 しれっ、とすさまじいことを言ってのける幾夜。

 どんな成績なのか、無性に気になった。


「ちなみに勉強は? してるのか?」

「ううん。ぜんぜん」

「…………………………」

 これでトップクラスの成績なんてとってやがったら雲の上に居座ってる全知全能のヒゲオヤジに対して、魔人風車固めで気絶させてやりたい。


 まったく、変わったやつだよ。

「? どうかした?」

 どういう意図で聞いたか気にしてないんだからな。本っ当にあいつそっくりのやつだ。変なところで察しが悪い。

 俺が再び追憶に入りかけたところで、

「あっ、そうだ」

 妙に楽しそうな声だった。

 何がそんなに楽しいんだ?

「食べる?」

 何を?

「弁当」


 指し示す先には、あの馬鹿みたいな量が詰め込まれた弁当箱があった。量が量なら種類も種類。ちょっと離れた位置にあるが、この位置からでも詰め込まれているものが大量であることは判別できる。卵焼き、ウィンナー、ポテトサラダ、春巻き、アスパラのベーコン巻きエトセトラエトセトラエトセトラ


 とにかくすごい量だ。

「………………」

 こんなに食うのか? こいつ。だとすればすごい。こんなほっそいからだのどこにこれだけの量が入るんだろう。いや、そもそもこれだけの量を、

「作ったのか?」

「うん。いろいろとね、得意だし」

 うげぇ。

 とんでもないやつ。とても真似できない。

「いらない?」

 微妙に不安げな表情になってこっちを見る。……かなりいたたまれない。ここで断ったら後ろから刺されても文句言えないな。

「………いや、もらっとく」

 完全なマナー違反ではあるが素手で一番無難な一品、厚焼き玉子に手を伸ばし、一口で。


 絶句した。


 表情が、思わずこわばる。

「……………おいしくない?」

 絶望的なまでに心配そうな目でこちらの顔色をうかがう幾夜。

「いや、めちゃくちゃうまい…………」

 幾夜の表情の極性が一気に逆転する。

 いや、ほんとに。塩味の厚焼き玉子だが、いったいどんな塩を使ったのかなんというか深みがある。おまけにその加減が抜群なものだから、卵自体の奄美と塩見の両方をバランスよく味わえる。

 俺も一人暮らしの身分であるため、これぐらいの料理は難なくこなせるが、どうもまだ未熟であったようだ。もっと精進する必要がある。


 そしてそのためには、もっと研究が必要だ。

「もっともらってもいいか?」

「もちろん」

 当たり前でしょ? とでも言いたげな満面の笑みとともに思い切りうなずいた。

 その姿を見て、声を聞いて、やはり似ているな、と思い直して…


「―――――っ……」

 どうしてあいつが幾夜じゃないんだろう、と。

 柄にもないことを思ってしまい、思わず……………

「……………………………」

 あわてて目元をぬぐって誤魔化した。


      ×   ×   ×   ×


 飯が旨いせいなのか、会話も弾んだ。

「へぇ、遺伝だったのか」

「うん。お母さんがそうでね。お母さん、子供の頃からよく貧血起こしてたみたい。一度車に乗ってるときに起こして、大変だったって」

「そりゃそうだろう」

「お父さんがいたから、そのときはたまたまどうにかなったみたいだけど、そんなことがあってから乗らなくなって、遠出が大変だったって」

「へぇ、常識人だな。俺の横にいるやつとは大違いだ」

「……………ひどいこと言うね」


 と、まあこんな具合に。

 気がついたらあれだけ入っていた弁当箱の中身は半分をきっており、いつの間にやら幾夜の手も止まっていた。

「……………いつの間に」

「へ?」

 幾夜が妙な声を上げる。

「いや、いつの間にこんなに減ってたのか、って思ってな」

「あ、本当だ…………」

 自分でも気がついていなかったらしい。

「やっぱり、旨い物は減るのも早い、か」

「おいしかった?」

 思いっきりにこやかに接近してくる。

 よく笑う奴だ。俺には到底真似できない性質でもある。

「ああ。うまかったよ」

 一瞬いやみを混ぜてやろうかとも考えたが、それでは飯に失礼だ。


「じゃあ、また明日も食べる?」

「……………作ってくるのか?」

「うん」

 ………どうしよう。


 確かにうまい飯だった。これをまた明日も食えるとなると、断るのは惜しい。しかし、手間があるだろう、手間が。週に二時間しか授業に出られないほど重度の貧血症だ。無理する可能性もある。それなのに自分の欲求のために頼んでいいのだろうか。

 しばらくの間、葛藤する。

「………リョウ君?」

 やがて、

「すまん、頼む」

 食欲に、負けた。

 やっぱり人間、食欲には勝てないよね。それに、俺のより旨いんだし。

 幾夜は今日一番の、満面の笑みと呼ぶにふさわしい笑顔を見せた。

「わかった。じゃあ、また明日、作ってくる」

「ああ。楽しみにしてる。ごちそうさま」

 言って俺は腰を上げた。

「あ、リョウ君」

「なんだ?」

 くるりと振り返り、


 そこに今までに見たことのないような、幾夜でも『あいつ』でも見たことがないような真剣な表情を見つけた。


 一瞬、体が凍りつく。

 それはある種、恐怖にも値する光景だったと思う。

 今まで笑ってばかりだった、そっくりなやつも無表情になったこともなかった、そんなやつが今、人形のような真剣な顔でこちらを見上げているのだ。これが夜なら即刻逃げ出しているところだ。

 汗が一滴、頬を伝った。


「片翼の鳥は、飛べると思う?」


 真摯な顔で、発された声はやはり澄んでいる。

 しかし、どういう意味なんだろう。

 こいつは何が聞きたい? 何を知りたい?

 その意図を告げることなく、一体どんな返答を期待している?

「……………………」

 幾夜はただ、真剣な表情でこちらを見上げている。先ほどは人形のようだと思ったが、それでもやはり人間は人間で、よく見ていると少しずつ表情が変化していた。

 暗いほうへ。

 あるいは、明るいほうなのだろうか。


「………よくわからないけど、一人じゃ、というか一羽じゃ無理だろう」

 その一言で、

 一瞬で連想できた、さほど真剣に考えずに返した一言によって、

 真剣な顔は崩れた。

「そっか。やぱり、そうだよね」

 悲しげなほうへ

 暗いほうへ、崩れた。

 何が悲しいのだろう。何に感情を抱いたのだろう。

 うなだれてしまった幾夜に、俺はかける言葉を持たなかった。

 正確には、見つからなかった。

 そう、表現するべきなんだと思う。

 とにかく俺は、幾夜になんと声をかけていいか、わからなくなっていた。

『高浜幾夜』という少女が、わからなくなっていた。


「そうだよね………一人じゃ、無理なんだよね………」

「…………幾夜……」

 俺はしゃがみこみ、幾夜と視線を合わせた。

 向こうがうなだれているので目は合わない。

 とにかく視線の高さは同じだ。その位置から見ると、幾夜は泣いているようにも、哀しんでいるようにも見える。

 何かを、言うべきなのだろう。

 だから、俺は。


「二人じゃ、だめなのか?」


「え?」

 気がつけば、そんなことを、先ほどと同じ、一瞬で連想できた差ほど考えてもいない言葉を口にしていた。

「いや、どういう意味かよくわからなかったから、なんともいえないけど、二人、というか、二羽いれば、飛べるだろう」


 比翼のカラスの伝承は結構耳にする。

 目、翼、足、それらが左右対称に片方ずつしか持たないカラス。そのカラスは二羽寄り添うことで、常に一緒にいることで飛んでいたという。

 そうすれば、片方しかなくても飛べるだろう。


 そう思ったの、だが。

「無理だよ」

 ポツリ、と零れ落ちるような声によって、一瞬で否定された。

「一緒には、いられないんだから」

 …………どういう、意味だ?

 何と何が、一緒にいられないんだ?

「どういう……………」

 遮るように、言葉が続く。

「ごめんね、変なこと、聞いちゃって」

 いって、幾夜は立ち上がった。

 その顔に、先ほどまでの暗い影はない。笑っている。しかし、それはどこか無理したような、無理に笑っているかのような、どこか歪な顔。それはある意味で、真っ向からさっきの顔を向けられるより、悲しかった。


「じゃあ、また。明日の昼も、一緒にね」

「あ……ああ」

 歪な笑顔を向け、弁当を片付け始める幾夜。

「じゃ、また教室で」

 話す言葉は明るく、穏やかなのに、どこか追い立てられたような気分だった。早く言ってくれ、そう暗に含めていわれているような気がしてならない。

 俺はすぐさま幾夜に背を向けると、体育館裏を後にした。


 そうしてやるのが、俺にとっても、幾夜にとっても最善かもしれない。

 そう、思っていたから。




 昼休みが終わった後の体育館裏。

 そこにはブルーシートが敷かれたまま残っている。

 上に載っているのはこぼしたようなわずかな食べ物と思しきものの断片がある。

 しかしその横は、雨が降ったわけでも、水をまかれたわけでもないのに――――ぬれていた。


    ×    ×    ×    ×


 …………誰かが泣いている。

 妙に高い声だ。小さい子供か、あるいは女性か、どちらかはわからない。耳に響いてくるのは何かの原因で涙をこぼす音だけだ。

「……………………――――」

 何か、小さな少年のような声が混じった。

 嗚咽、ではない。何か、ちゃんと方向性と意味を持った言葉の並び。

 何をつぶやいた? あるいは叫んだ?

「………………ご――さい」

 悲しい響き。

 何かにさいなまれているのだろうか。

「……………………ごめ―――い」

 わからない。

 そんなに泣くようなものなのだろうか。

 何かにさいなまれるとは、そんなにつらいものなのだろうか。

「ごめんな―い」

 否、

 それは、愚問だろう。

「ごめんなさい―――ごめんなさい―――」

 俺自身、今も苛まれている。

 そして夢の中の俺も、こうして苛まれることによって、泣いている。

「ごめんなさい…………」

 謝ることはない。

 謝っても、もう無駄だ。

『あいつ』は、帰ってこない。

 だからもう、やめろよ。

「ごめんなさい」

 やめろって。

「ごめんなさい………」

 いい加減にしろ。

「ごめん……なさい」

 もうやめてくれよ。頼むから。

「ごめんなさい」

 …………いっても無駄だよな。俺なんだし。


 ならせめて、ここから逃げるぐらいは許してくれ。これ以上聞いていると、昔の俺を殴り飛ばしたくなる。


 さあ、おきよう。


 おはよう。現実の世界。




「ん………………?」

 目が覚めた。

 何か、とてもいやな夢を見ていたような気がする。


 まあいい。どんな悪い夢でも忘れてしまえば何もなかったのと同じだ。それに最近はいくらなんでも『あいつ』のことを思い出しすぎる。

 俺にとってはこれぐらいの、つい先ほどまで見ていた夢の内容を忘れてしまうような無神経さが、ちょうどいいのかもしれない。


 部屋の中央にしかれた布団、そこから身を起こし、ふと気になって自分の左側、部屋の入り口に向かっても左側に当たる方向に目をやる。

 そこにあるのは、小さなかご。中には明るい色の毛布がしかれており、その上では、一匹の猫が体を丸めて眠っていた。

 薄い茶色の毛に、白の縦縞。微動だにすることがなく、安心しきっているかのように、眠っている。

 そろそろ、餌を用意しておかねばなるまい。


 そう思い、俺は布団から抜け出した。

 着替えよう。

 そしてこいつに飯食わせて、学校へ行くのだ。

 家にいてもやることがない。登校ぐらいしよう。

 立ち上がって、枕元に置かれてある畳まれた制服に手を伸ばした。




 いつもどおり上靴に入れられていた、一人分の手では数え切れない画鋲を排出して足を突っ込み、妙な言葉の弾幕と視線のレーザーを潜り抜け、前日よりも三十秒ほど送れて着席する。いつもどおり時瀬がよってきたが、大して会話も弾まず気のない返事の応酬のようになったところで、


「おはよう、リョウ君」


 その声がかかった。

 声の方向には、期待したとおりの人物の姿。

「よう、幾夜」

「おはようございます。高浜幾夜さん」

 声をかけてきた幾夜に、二人で挨拶する。手にしている普通の学生鞄とやたらでかい包みが気になったが、でっかい包みの中身は期待通りのブツだろう。かなりの気合の入り方だ。

 今日の昼が、楽しみである。


「あの、そっちの人は?」

 幾夜の視線がその『こっちの人』、つまり時瀬を捕らえる。

「あ、そうだった」

 そういえば時瀬のことを紹介していない。紹介してやろうと思って振り向く。

「俺の友達」

「へー。友達、いたんだ」

 ………おい幾夜、何だその評価は。確かに俺の友人は少ない。と、言うか時瀬以外に友人がいないのが現状だ。けど、それを正面から言ってのけるのはどうかと思うぞ。


「始めまして、高浜幾夜さん。リョウ君の友人の(ときの)()(みつぐ)といいます。以後、お見知りおきを」

 ぼんやりと考えているうちに挨拶を済ませる時瀬。


 しかし何だ、そのやたらの慇懃無礼な挨拶は。そんな挨拶なんてされたほうは間違いなく引

「あ、はじめまして。高浜幾夜です」

 かなかった。まったく、恐ろしく図太い神経だ。

 それとも、慣れているのだろうか。時瀬のこの挨拶を聞いて、引かなかった人物は一人、それもかなりのお嬢様である人物だけだぞ。

「まあ、名前を聞くのも実際に会うのも初めてではないのですが、よろしくお願いしますよ。以後、友人としてね」

「うん。こっちも、よろしく」

 よしよし。丸くまとまって何よりだ。


「で、何か用なのか、幾夜?」

「リョウ君、用がなくても、友人にあったら挨拶ぐらいするのが、世の中の常識ですよ」

「そうそう。用がなくても、話しかけてもいいんでしょ?」

「そこまでは言ってない。話しかけてもいいとだけ言っただけだ」

 時瀬はやれやれとでもいうように首を振り、

「どうでもいいじゃありませんか。可愛らしい友人がいて、その友人が話しかけてくれる。それだけで十分でしょう?」

 言われて見れば。


「確かにな。悪い、幾夜」

「ううん。いいよ別に。リョウ君がこうなの、今に始まったことじゃないし」

 そうだったっけ?

 まあ、多少無愛想なところはあったかと思うが。

「しかし、大きな荷物ですね、幾夜さん。中身は何です?」

「え? これ?」

 にっこりと笑う幾夜。

 見せびらかすように時瀬の目線まで掲げて、

「昼の弁当。リョウ君の分も入ってる」

 おいおい、幾夜。ちょっと待て、って手遅れか。

 でもそんなことこいつに言ったら、言ったりなんかしたら―――


「ほほ〜〜〜〜〜う。それは耳寄りなお話ですねぇ」


 ………………こうなっちまうだろうが。

 時瀬はこちらに向けて微笑を浮かべる。いつものごとく爽やかホストフェイスならいいのだが、今日のはなんというか、

「いったい、いつ、そこまでの仲に進展したんです? 知り合ったのは、確か一昨日という話でしたよね? いったいその二日の間に、何をしたんですか?」

 絶対零度の微笑み、とでも言うのだろうか。

 恐ろしい。って、そのままこちらに接近してくるな。


「言っておきますが、逃がしませんからね? 白状するまでは、ですが」

「幾夜! 助けて!」

「えっ? えっと、私たち別にそういう関係じゃ――――」

「情けないですね、リョウ君? 女性に助けを求めるとは。しかし幾夜さん、有益な情報に感謝します」

 動揺と困惑の混じった表情を時瀬に向ける幾夜。それにかまわず再び俺に視線が戻ってくる。

「私『たち』? もうそこまでの仲になっていたんですか」

「違う! いい加減変な疑いを向けるのはよせ!」

「いいじゃないですか。友人の潔白を証明してもらうのにも理由が必要ですか? さあ、話してください。早く!」

 たらり、と顔を冷や汗が滴る。

 知られてまずいことは何一つない。が、このまま話したとしても変なほうに解釈されるのは間違いないと見ていい。

 しかしだからといってこのまま話さずに置くと余計にまずい。勝手に『ナニかあった』ことにされてしまう。

 畜生、八方塞りか。


 チャイムが鳴った。


 まさに神の福音。

「ほら、時瀬、鳴ったぞ。さっさと着席しろ。面倒なことになる」

 いささか以上に不満そうな顔をしながら時瀬は、

「………………まあいいでしょう。しかし、これで逃げられたとは思わないでくださいね。二人とも」

 しぶしぶ、といった様子で自分の席へ向かう。


「ほら、幾夜。お前も急げ。来るぞ」

「あ、大丈夫。席、ここだから」

 言って指し示した席は、俺の隣だった。

 …………こんなに近くにいて気がつかないなんて、異常だな、俺。


 本鈴がなった。


 いつもどおり、例の女子生徒も教室に舞い戻り、今日という日が始まる。


 本日の欠席者、一名。

 知らない人。


 さて、


 昼休みが、楽しみだ。


    ×    ×    ×    ×


 ちゃんと中身のある授業と、時瀬から逃走する休憩時間を経て、昼休みである。


 やはり先に何かいいことがあるとわかっているからなのか、妙に俺の足取りは軽く、どこかふわふわした感じではあったが、これぐらいは許されてもいいだろう。うまい食事に友人との会話。それ以上の幸いが学校生活において望めようものか。


 まあ、そんなわけで。

 若干、ではないかもしれないがとりあえず浮ついた足取りで、今日も向かったのは体育館裏である。昨日と違うところといえば、座り込んだのが校外に面した側の地面ではなく、そこから見て左側の面であり、尻の下にもブルーシートがあるという点だ。

 幾夜はまだ来てない。今日は別段問題のない一日を送っていたから単に遅れているだけだろうか。


 まあいい。それなら待つだけだ。


 ぼんやりと上を見上げ、ふと思い立って左手首に目をやる。

 赤色のにじんだ、しかし全体としてはまだ十分な白さと清潔感の残る包帯。

 あのときにもらった包帯だ。

 何気なくそれを取り去る。


 現れるのはすっかりおなじみのメスシリンダーな手首。

 痛々しく赤く引き攣れたもの、白い痕跡のみを残すもの、乾いたかさぶたを向けるもの、いまだにぱっくりと口を開けているもの。


 様々な傷が、そこにある。

 そのうちひとつを、なぞってみる。

 赤い口を開けっ放しにしてある、深い傷。触れるたびにぴりぴりとした痛みが腕に走り、一瞬だけピクリと手のひら自体が痙攣する。

 痛々しい、とは思わない。

 これは、あいつの『思い出』だ。


 俺が背負いきれない量、あいつにしかわからないようなもの。そんなことに触れたとき、俺は傷を刻む。それだけでなく、あいつの両親、友人、関係者、そんな人々が俺を攻め立てるたび、俺はそれを刻んだ。俺があいつを忘れそうになったときも、同様に。


 傷を、刻んできた。


 あいつの、記憶とさえいえるかもしれない。

 俺はそれを体に刻んで、生き続ける。

 それが俺の、贖罪。

 俺の、償いだ。


「………………何やってるの? リョウ君」


 いつの間にやら体育館裏に顔を見せていた幾夜。少し、というかかなり怪訝そうな表情を浮かべて俺をじど〜〜〜〜っと見ている。

 ちょっと怖い……かもしれない。


「いや、べつに。単に傷の具合見てただけだ」

「ホントに………? また切ろうとしてたんじゃない?」

 俺は笑い出しそうになる。何でそんなこと気にしてるんだ?

「何にもないのに切るかって。とりあえず飯にしよう。腹ペコだ」

 まだ不服そうな顔を向けてくる幾夜。

 はて? 何か今の説明に不足があったろうか。

「うん…………まあ、いいけど」

 いって弁当を広げてくれる。量的には昨日と変化はないが、あいも変わらず期待させられる大きさだ。

「時瀬、ちゃんと撒いてきたか?」

「…………………たぶん、大丈夫だと思う。わかんないけど」

 ってことは今ここにいてもおかしくないってことか。

 まあいい。あいつがここへ到達できるとは思えないし、到達したとしてもあいつを巻き込んで三人でも昼食にしてしまえば言いだけのことだ。

「飯にするか」

「うん!」




「リョウ君」

「ん?」

「この後、空いてる?」

「後?」

「昼休み」

「ああ。いつもどおり退屈だ」

「じゃあ、一緒に来てくれる? 行きたいところが、あって」

「……………………」

「駄目?」

「いいや。かまわん」




 そして、昼食後。

 向かった先は市街地のややはずれ、学校の位置する場所よりもさらにはずれに向かって進んだ農村部だった。


 道は狭く長く、サイドにはビニールハウスに畑。

 絵に描いたような田舎の部分である。


 俺の住む町は田舎にしては割と設備の多い地域なのでこのあたりまで来ると完全にほかの待ちに迷い込んだ気分にさせてくれるが、実はここ、市街地から徒歩三十分と離れておらず、学校からなら五分ほどで、この農村部分に来ることができてしまう。午後からの遅刻の心配がないのはいいが、道が長いので行きたい所までの距離が明確になり、鳴れないと歩くだけで少し気が滅入ってくる。


 そんな道を、俺たちは二人並んで歩いていた。

 傍目にはどう見えているのだろう。

「…………久しぶり」

 不意に幾夜がもらした。

「何がだ?」

 言われなくても、大体わかるが。

 久しぶりなのは、俺もそうだ。

「このあたりへ来るの。昔、って言っても八年ぐらい前だけど、よく来てたから」

 それは奇遇なことだ。

「それなら、俺も同じだな」

「リョウ君も?」

「ああ、よく時瀬と俺と『あいつ』の三人で来てた。そういや時瀬のやつ、あのときからあんなのだったな」

「変わってないの?」

「あんまり。いや、昔は小さかったからあんまり角も立ってなかった。今と比べたらそっちのほうがましだな」

 いや、ほんとに。やたらと丁寧な口調で知的というかわけのわからんことを時瀬はよく話していた。もっぱらよくわからないって言ってさじ投げるのが俺。ちゃんと答えて変に失敗するのがあいつ。今朝の幾夜みたいに、よく武器になるようなこともらして、よくからかわれてた。今ぐらいになったらちゃんとあしらい方を覚えたんだろうが、もはやそれは望めない。


「ところで、リョウ君」

 幾夜がこちらの顔を見上げてくる。

「『あいつ』って、誰?」

 その普段とさして変わらない口調に、視線を景色から幾夜のほうへと何気なく戻し、



 ものすごく真剣な、前にも一度だけ見たことのある人形のような顔を、見つけた。



 二度目であるにもかかわらず、凍りついた。

 自分の表情を冷凍してしまったものが恐怖なのか、それとも単なる真剣さにつられたものなのかはわからない。だが、例の問いと同様、その問いが幾夜にとって、至極重要な意味を持っているのは確かだ。


「さっき言ってたよね? 『あいつ』って。それ、誰なの?」

 何なんだ、この異様な雰囲気は。

 鬼気迫る、という言葉がある。

 それぐらい、読書という文化のたしなみのない俺でも知ってはいるが、現実にそれを感知するのは初めてだ。

 なにをそんなに、こいつは知りたがっているのだろう。


「……………どうしても、話さなきゃだめなのか?」

 頼む。

 俺は内心でそう懇願した。

 あいつのことを、俺に語らせるのは、やめてくれ………

 だが、


「駄目」


 幾夜はその懇願とともに俺の言葉をいともたやすく振り払った。

「話して。『あいつ』って呼んでる人のことを。

 それは、リョウ君にとって、どんな人なの?

 …………教えて。私に」


 くっ。

 冷や汗が、俺の頬を伝い落ちる。

 幾夜は変わらず俺の顔を見つめている。

「………………『あいつ』は、俺の……………」

 言葉を搾り出す。どれだけ辛いことでも。



「俺の、罪だ」



 そう表現するのが、最も適当であるように思える。

 友人、知人、大事な人、様々な表現を連想することが可能だが、最も適当なのがその表現だろう。

 今となっては。


 一瞬だった。

 幾夜の顔が、驚愕にゆがんだ。

「罪?」

 真顔に戻り、繰り返す幾夜。

「ああ。罪だ。だって、俺はあいつを………………」

「いいよ。そこまで言わなくても」

 幾夜は俺の脚を止めさせ、



「私、知ってるから」



 その言葉を、俺が驚愕にゆがみ精神の安定を消失し理性のほとんどを喪失させ感情のすべてが絶叫し左手のひらが破けるほど強く手を握り締め呼吸が苦しくなるようなことを、

 幾夜が、言った。

「なん…………で………」


 ナンデイクヨガシッテイル?

 ナンデソンナコトバガデテクル?

 ドウシテ、ソレヲオレニツゲル?


「何で…………知ってるんだ? 幾夜」

 だって、

 それを知っているのは俺と、時瀬と、『あいつ』の親と、俺の親だけのはず。

それ以外に知っている人物がいるなんて、ありえないだろ?

 ありえたとしたら、それは現実にはありえない――――



「リョウ君の言うところの『あいつ』に聞いたから」



 なん、だと?

 ありえない。

『あいつ』は、

『あいつ』はもう、

 この世には――――


「それじゃあ、不十分?」

 もう俺にはわけがわからない.『あいつ』にそっくりな存在があのことを知っていて、しかもどこから来たかといえば『あいつ』に聞いた?

 どこからが嘘で、

 どこからが本当なんだ?


「行こう? リョウ君。昼休み、終わっちゃうよ?」

「あ、ああ」

 俺はひどく重い足を引きずり、歩き出した。

 どうなっているんだ? 教えてくれ。


 …………………助けてくれよ、『ミヤコ』……


    ×    ×    ×    ×


 そこは、崖だった。

 山の中に走る、一本の獣道。そこを直進すると、この崖に突き当たる。木々の街道からせり出したそこには一本の木も生えておらず、生えている植物もせいぜい雑草程度。かといって荒れているかといえばそうではなく、小さい滝のような水の流れが生じていて、荒れているというより潤っている。木が一本もないのは単なる広さと栄養の問題だろう。その点さえ気にしなければ座り心地よし、眺めよし、広さよし、涼しさよしの最高の空間だ。


 妙な思い出がなければ、の話だが。


 正直な話、もうここに来ることなんて、ないと思っていた。


「どう? いいところでしょ?」

 少なくとも自分からは。もう二度と来たくない、見たくないと考えていた。

 それなのに今、俺はここに立っている。

「………………久しぶりに来たな、ここ」


 幾夜と共に。

 あのことを知る、人物とともに。


「え? ここ来るのも初めてじゃないの?」

 崖の淵までとことこ歩いていき、下を見下ろしながら言った。

 先ほどまでの鬼気迫る様子とは打って変わって、今はもう普段とまるで変わらない様子である。

「ああ。昔はしょっちゅう来てた。ここ、きれいだったし、広かったし」

 俺と、時瀬と、『あいつ』。それと一時期は猫一匹。

 ここへ来るときのメンバーはいつもその、三人と一匹だった。

「うん。確かにそうみたい」

 言って崖に腰掛ける。

「けど、何かあったら滅茶苦茶危ないんだよな、ここ。一度時瀬が崖から転落しそうになったことがあったんだよ」

「うわっ〜〜〜 それ、相当危なんじゃない?」

 俺の幾夜の隣へと移動する。

 座りは、しない。

「危ないどころの話じゃない。寸でのところで俺が押さえたからいいけど、そうじゃなかったら今頃、俺らのこと雲の上から見下ろしてる」

「あははは、確かにね」

 楽しそうに笑う。


 いや、笑い事じゃないって。今でこそあいつのほうが軽いけど、あの時は時瀬のほうが重くて、俺も力なしだった。

 思い出すだけでもぞっとする。後ろ向きに転落しそうになったあいつの体を支えたはいいが、結局自分の力不足のせいで二人まとめて落ちそうになりって危ういところを『あいつ』に救われたんだ。それがなければ、今頃俺も時瀬と一緒に雲の上だろう。

 ほんとにやばかったな、あの時。


「けど、怪我とかなかったの?」

「落ちたあいつのほうにはなかった」

「それって、どういうこと?」

「………情けないことに、引き上げた俺のほうが後頭部打ったんだ」

「え―――? 本当?」

「ああ。血も出たし、痛かったし、気絶しかけた。ちょうどそこだ。幾夜、お前の後ろのところに石があるだろ?」

「うん」


 地面から生えるように飛び出しているのは、ひとつの丸みを帯びた石。いい具合に出っ張っているので、昔はよくそこに座っていたものだ。

「それで後頭部をこう――――ガンッと」

「うわ、痛そう――」

 痛いなんてものじゃなかった。危うく気絶しかけたほどだし、もしもう少し角度と威力が上だったら、今頃記憶喪失だったかもしれない。

 なんとなく感慨深くなって、崖から下を見下ろした。

 かなり、高い。

 落ちたら、確実に助からないであろう高さだ。

 それが、大人であろうとも。

 絶対に――――


「…………けど、楽しい時間だったんでしょ?」

「何が?」

 ぼんやりしていたところに、幾夜。

「ここですごした、時間」

「…………………」

 ああ、楽しかったよ。

 あの一件があるまでは。

「ここで、いろいろあったんだよね? 時瀬君が落ちそうになったり、みんなで遊んだり」

 幾夜が、こちらを見上げる。

 いつもどおりの、色と表情が明るい目だった。

「けど――――」

「もう会えない。あのころにも、帰れない。だよね?」

「…………………ああ」

 できることなら、俺もあの日に帰りたい。

 時瀬がいて、『あいつ』がいて、まだ傷のない俺がいる。そんな日々に、帰りたい。なにより、


 俺は、『あいつ』に謝りたかった。


「ねえ、リョウ君」

 くるりと回って、幾夜が立ち上がる。

「もしも、『あの人』にもう一度会う代わりに、その、会ったあとに死ななきゃならないとしたら、リョウ君は、どうする?」

 ちょっとだけ、目の色が変わった気がする。あの鬼気迫る様子はない、少し笑っているような目だけど、どこか真剣さを感じさせる目に。


「それでも、会いたい?」

 言われて、俺は考え込むように腕を組んだ。

 …………そんなことができたとすれば、俺はいったいどうするんだろうか。

 確かに俺はあいつに会いたい。しかしそうするために必要となるのは自分の命、か。

 ありえない目標が確実に達成される代わりに、自分の命を差し出すのと、

 自分の命を保持できる代わりに、ありえなく目標を達成するチャンスを失うの。

 …………少し難しい。

 むずかしいけど、俺にとってはひどく簡単な質問だ。


「…………会いたい」


「本当に、リョウ君はそれでいいの?」

 悪戯っ子のような、しかし真剣さを漂わせる表情で俺を覗き込んでくる幾夜。

 答える言葉は、決まっている。

「ああ。もしそんなことができるなら、俺は間違いなく会うだろうな。命ぐらい、軽くくれてやる。それに、」

「それに?」


「ちょっとの間だけだけど、一緒にいられるんだろ? だったら、それ以外に何か必要なのか?」


 一生涯をかけてかなえたいと思っていた願いが、かなう。

 それはつまるところ、一生涯の完結だ。

 目標のなくなった生涯に、意味はないだろう。

 ならば、目標の代わりにしてしまうことに抵抗は要らないはずだ。


「……………………」

 俺の返答に何か思うところでもあったのか、幾夜は明後日の方向を見ている。表情からも明るさがすっぽりと抜け落ちて、うつむくような角度で悲しそうな顔をしている。

 いったい、何が幾夜にそんな顔をさせてしまったのだろうか。

 わからない。

「そうか……………まだ、『たいせつ』なんだね。『あの人』のことが」

「当たり前だ。だって、あいつは、」

「言わなくていいよ。言いたくないんでしょ?」

「………………すまん」

 …………『たいせつ』、か。

 いわれてみればそのとおりだ。

 『あいつ』はあの日から、いや、それよりもずっと前から、俺にとっても周りの人間にとっても『たいせつ』だった。それは『いちばん』ではない『たいせつ』だったかもしれない。けど、『たいせつ』には変わりなかったんだろう。


 けど、俺にとっては、それは違ったかもしれない。


 たぶん俺にとっては、『いちばん』だったんだ。


「大事な人だったんだよな、俺にとっても」

「うん。そうだったんだよ。きっと」

 そういう幾夜の顔は、先ほどよりもさらに悲しそうな色だった。

 まるでなにか、縋っていたものを失いかけているかのような。


「じゃあ、リョウ君」

「なんだ?」

「その、『たいせつ』な人のためなら、その人が生きていけるなら、リョウ君はその人に殺されてもいい?」

 はあ?

 藪から棒になんて事を聞く?

 案外幾夜も危ないやつだったんだな、剣呑剣呑。


 それに、答えはもう出ているだろう。


「どういう意図なのかはわからないけど、たぶん、『あいつ』が望むんだったら、殺されてやるんだろうな」


 あっさりと、俺は言った。


 次の瞬間、幾夜の顔に浮いた感情を、俺は忘れることはできないだろう。


 幾夜の顔に浮いたのは、驚愕と、戸惑いだった。

「うそ………………………」

 あまりにも明確に、その感情は浮かんでいた。


 絶対に予測できないものが目の前で起きたような、そんな表情。


 ありえないことに直面したような顔。


 どう表現したところで、それは変化しないだろう。心中を読むことは、俺にはできない。それは単に、俺に観察力がないとか、そんな次元ではない。そこに表れた感情が大きく、また混濁しているためわからないのだ。


 それほどまでに、いったい幾夜は何を思った?


 いったいさっきの俺の言葉のどこに、そうさせるだけの要素があった?


「幾夜……………」

 俺は幾夜の方に手を伸ばし、


 遠くのほうで電子音のようなチャイムを聞いた。


「あ……………」

 幾夜が伏せていた顔を上げた。

「昼休み、終わった!」

 先ほどまでの様子を隠している。無理している。

 それがはっきりわかるような声で、動作だった。

「ごめん、リョウ君。先、行っててくれる?」

「幾夜……………」

 どうしてやるのが、正しいんだろう。幾夜の意思を尊重するのか、それとも俺の意思を優先させるのか。

 わからない。

「次の授業、どうするんだ?」

 だけど俺は、

「ちょっと遅れるかも。大丈夫、気にしないで!」

 幾夜のやりたいようにやらせてみることにした。


 いや、正確に言えば違うな。

 俺は向き合う勇気がなかったんだ。

 幾夜の隠しているもの、内側にもぐりこんでいる感情の海に。

 だからこれは、意思の尊重などではなく、単なる逃走だ。


「まあ、どうでもいいけど成績ぐらいは確保しとけよ?」

「心配ない心配ない。ほら、急いで!」

 言われたとおり、学校へ向かって急ぐことにする。

 今できることは、それぐらいしかないだろう。

 俺はかつて『あいつ』とともに来た場所に背を向け、駆け出した。


 そしてやはりというか、その日、幾夜は学校へ顔を出さなかった。




「どうして…………………………」

 一人になって、私はへたり込むようにしてがけの際に座り込んだ。

 ここに座るのは、本当は怖い。だけど、今はその恐怖にさえすがりつきたい気分だった。

 本当に、今の私は空っぽだ。

「どうして、殺されてくれるの………?」

 先ほどまで心の中で荒れ狂っていたものは、空っぽになっている。『彼』が逃げ出すほどの情動を、今の私は持っていない。

「『いやだ』って言ってくれれば、それでよかったのに……………」

 わからなくなった。

 どうしたらいいのか、わからなくなった。

 私はいったい、


 何を、選べばいいの?


 その問いに答えるものは、いない。

 そんなことはわかっている。わかっていても、知りたかった。自分が何を選べばいいのか、自分はどちらを選ぶべきなのかを。

 自分か、彼か。

 どちらが残るべきなのか。

 どちらが、苦しまなければならないのかを。



下へと続く、といったところでしょうか。

少し補作に時間がかかりますので、もう少しお待ちください。

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