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04 猪は観察される

2017/08/18 文章を一部加筆しました。話の筋は変わっていません。

「あの、何を言われているのか分かりません。王女? 『王女』の意味ですよね?」

「そうだ。そのアレジオス語で言う『王女』だ」


 そう言いつつも、目の前の男の笑顔と眼差しは、全くそう信じていない事を物語っている。いくら自分の事は分からなくても、この胡散臭げな笑顔を真に受けて信じる者はそうそういない。少女もお返しの取り繕った笑顔を浮かべつつ、目の前の男に不信な眼差しを向ける。


(突然、何を言うのかしら、この男は? もしや口説いている訳ではないわよね? 何も覚えて無いからと、馬鹿にしてるのかしら?) 


「あのですね、そう言って頂けるのは光栄です。しかし、私は自分の事が分かりません。ですから、信じられません。……このスレイン語、伝わっていますか?」

「俺がそうと判断したんだから、そうなんだ。と言う事は、早々に王宮にお連れせねばな! 王宮の者達はエリアーナ姫を探し続けているのだ」

「ちょっと! 私の話を……」


 パンッ! と突然男は両手を音を立てて叩き合わせた。これで会話は終わりと言うかのように。そして部屋の入り口で控えていた先程のメイド服の女に顎でしゃっくて指示を出す。


「マリナ! まずは、この王女様を人前に出せるように磨け!」

「待って下さい! ですから、私はその王女かどうか分からない、と言っているではありませんか!」

「しつこいな、お前! ああ、じゃあエリアーナ姫が嫌なら、とりあえずシシーと名付けてやろう、分かったな。ちなみに俺はグラントだ」


 グラントが名案だとばかりにニヤリと笑う。その皮肉気な笑顔にシシーは嫌な予感がした。


「……シシー? どこからその名が?」

「失礼ながら、グラント様、それはあの猪帝王の名前では? 仮にも王女にそのような……」


 マリナの『猪帝王』の単語にシシーは顔を顰めた。脳内の翻訳が間違っていなければ、到底若い女に付ける名ではないからだ。


「その猪のシシーだ。あの猪と間違って射られたんだ。関りが深くて強くて良い名だろう? それに、今のままでは茶色い猪そのままだ。エリアーナ姫にはとても見えん! マリナ、お前の凄腕メイドの腕前を見せてもらおう」

「畏まりました。……さあ、まずはお風呂に入って頂きましょうか、シシー様」


 主人の命を受けたマリナと呼ばれたメイドが、腕捲りつつ気合を入れてベッドに近寄って来る。根性入れて磨くわよ! と気合十分な真剣な表情だった。


(お風呂は嬉しいのだけれど……。その誰かと一戦交えるかのような気迫は何? おおお、お風呂、お風呂に入るのよね? )


 目をぎらつかせたマリナに有無を言う間もなく、一階にある広めの浴室にシシーは引っ張っていかれ、夜着らしい薄い衣をあっと言う間に剥ぎ取られた。


「心配しなくても、手荒な真似はしません。……ああ、良かった。背中の矢傷は浅いわ。痕も残らず治りそう。ごめんなさいね。あの矢を射ったのは私の弟のヨルンなの」

「あの、大きな痛みはありません。だから、気にされることはありませんよ」


 遠慮しているのであろう若い娘の心が傷つくと思い、マリナは言わなかったが、実はシシーの背は矢傷だけではなく、大小様々な打ち身の痣があった。


 奥には一人が足を伸ばして浸かれそうな細長い白い浴槽があり、既に湯が満たされていた。おそらく最初から入浴させるつもりだったのだろう。つまり、それほど酷い姿をしているらしい、とシシーは自分を情けなく思った。


 そっとマリナが湯を掛けて、その痣にも注意しながら汚れた身体や髪を洗ってゆく。特にぼさぼさになっていた金髪は念入りに。


(こんなに汚れた姿なんて子供の時ぐらいで……)


 不意に、一瞬だけ記憶らしきものが浮かび上がった。外をはしゃいで駆け回り、挙句の果てには転んでスカートを酷く汚してしまった思い出?


(今、自分の事を!? ……ああ、やっぱり分からない。でも、私は王女様なんかじゃないわ、たぶん。汚れる王女様なんているかしら?)


 泡のように消えてしまった記憶。その欠片を追いかけようとするあまり、しばらく黙ってしまっていたシシーの様子をマリナが申し訳なさそうに伺う。


「……あの、やっぱり怒っているの? それとも、言葉が速すぎた?」

「あ、違います。怒ってません! ただ、翻訳にちょっと時間が……」

「ああ、そうよね。ゆっくり話すわ」


 シシーの弁解に、マリナはホッとしたようだ。傷に障らないよう気を付けてそっと布で背を洗う。


「それに矢で射られたとは知りませんでした。私は何が起きたか分かりませんでした」

「ヨルンだけじゃなくて、うちのご主人、グラント様まで変な事言いだして、ごめんなさい。ちょっと変わった所のあるお方だけど、良いご主人よ。たぶん、家臣のヨルンのした事を代わりに償って下さっているの。冗談で王女様って呼んで、いるだけよ」

「なら、良いのですけれど。いきなり、困ります」


 フフフとマリナは笑いながら湯を掛ける。


「そうよね。いきなり知らない人から王女だと言われてもねえ。誰だってお姫様になりたいけど、それこそ知り合いの男が言ったら、結婚して! になっちゃうわ! ホホホ!」

「え!? 結婚? まさか?」

「だから、ご主人の冗談なのよ。やあねぇ!」


 気さくで親し気なマリナとの会話で、内心では混乱と不安に怯えていたシシーも心和む。しかもマリナの入浴の手伝いは手慣れていて、マッサージされているかのようで、髪も身体も心地良い。

 初めは触られると、ニッコリ微笑みつつ、あちこちの痛みを歯を食いしばって堪えていた。だが次第にお湯の温もりも効いてきたのか、少しずつシシーの緊張も緩んだ。


 キュッキュと音が出そうなほど磨かれて入浴を終えると、シシーの顔色は健康的な赤みが戻り、金髪は輝かんばかりに艶々になった。それでも鏡の中の自分の顔には覚えが無い。自分の顔なのに、見ても触れても、シシーには違和感だらけだった。


(私、こんな顔だったかしら? 自分の顔すら覚えていないなんて……。)

 

 マリナの手によって、シシーは若い娘向きの簡素な、けれども上品なドレスを着せられた。入浴中にどこからかグラントが調達してきたらしく、シシーがその衣装を纏って食堂に現れると、その姿に満足の笑みを浮かべた。今度は裏表も無い本物の笑顔だ。


 食堂の入り口までやって来て、そっと手を差し伸べられた。シシーは内心男が怖かったが無理矢理震えを抑え込む。素知らぬ振りをして手を差し出した。見知らぬ自分にこんなに親切にしてくれた人達に失礼な真似は到底出来ない。黙って、エスコートしてもらい席に着いた。


「うんうん。やっぱり若い娘は綺麗でなくちゃな。さて、朝からずっと眠っていたんだ、腹が減っただろう? もう夕飯だ。遠慮無く食べるがいい」

「何から何まで、申し訳ございません」


 怪我で寝込んでいたシシーのためか、夕食は消化の良さそうな柔らかい物が多い。沢山食べろと言ってくれる気持ちは嬉しいが、どうにも少しずつしか食べられない。


(とても親切なんだけど、どうにもあの笑顔が。何やら企んでいるようにしか見えないのよ……。)


 紅い液体を満たしたグラスを手にして歓迎の笑みを浮かべる紅い髪の美形を前に、再び緊張が高まってしまう。

 

「まあ、そう緊張するな。お前の話を聞かせてくれ。どうして明け方にあそこに来たんだ?」

「恥ずかしながら空腹に耐えかねて食べ物を探していました。そうしたら、風に乗って甘い香りがして。この二、三日そうやって山の果物を探して食べ歩いていました」

「……あのな、あそこは果樹園で、果実は自然に実ったものではない。ここ数日、あちこちの果樹園が荒らされていたのはお前の仕業か!」

「えっ! 自然にできていた果実ではなかったのですか?」


 自分が人の果樹園を荒らしていたとは知らず、シシーは申し訳なさで一杯になった。道理で大きく甘くて美味しいはずだ。農家の人々の苦労を思うと、深い罪悪感で胸が痛くなる。


「あんな見事な大きな果実が山にある訳ないだろう。今日お前が忍び込んだあの果樹園の果実は、カスイといってこの領地の特産品だ。俺の好物でもある。上手かっただろう?」

「はい。とても美味しゅうございました。大きく食べ応えがあり、さっぱりとした甘さで、食べると力が湧くようでした。でも、大変申し訳ございません」

「まあ、あの様子からすると、相当飢えていたのだろう。仕方がない、私が農家の者に償っておく。それで、その前はどうしていたのだ? なぜあのようにボロボロの姿だった? 襲われたのか?」

「……それが、目が覚めたら、川辺の砂場におりました。全身濡れていました。ええと……?」


 スレイン語で何と表現すれば良いかシシーが言い戸惑うと、この地方名産の紅い果実酒を手にしたグラントが言い繋げる。


「アレジオス語で言う『ずぶ濡れでボロボロ』?」

「はい、そうです。おそらく、何故か私は川を流されました。岸に辿りつきました。だと思います。その前は覚えていません。目が覚めました。お腹が空きましたので、食べ物を探しました。そして甘い香りがしました」

「そ、そうか。大きな怪我無く、無事で良かったな。またその姿に似ず、とても逞しい」

「逞しい? とは何ですか?」


 グラントの最後の言葉に、翻訳するには腹が立つ単語が出てきたような気がして、シシーはニッコリ笑顔で小首を傾げた。今、変な事を言いませんでしたか? とばかりに。


 軽くグラントは首を小さく振って、ニッコリ笑顔で意味を誤魔化した。


「気にするな。方言で褒めただけだ。それで、なぜ近くの者に助けを求めなたかった? 皮の鎧や敷布を手にしていたのだ。人がいるのは分かっていたのだろう?」


 そう、シシーには男達が近くにいるのは、鎧などから分かっていた。ただ、見知らぬ男達に近付くのが恐ろしくて堪らなかったのだ。もしもこの邸で最初に目覚めた時、側にいたのが女性のマリナでなかったら、恐怖の悲鳴を上げていたかもしれない。


「男の方が怖くて……。それに皆さん、強そうで、体も大きくて……。遠くて、何語で話されているのか、分かりませんでしたし」

「まあ、あいつらの言葉は、スレイン語でもお姫様には聞き慣れない砕けた言葉が多いからな。乱暴に聞こえたか」

 

 意味ありげにシシーをジッと見つめた後、グラントはグイっと果実酒を飲み干した。


「さて、今夜は疲れただろう。ゆっくり休め。明日には忘れていたことも思い出してるかもしれない。……男が怖いなら、マリナ、お前が部屋まで連れて行ってやれ」

「お気遣い、ありがとうございます。では休ませていただきます」


 不意に退席を許され、シシーはホッとした。


 シシー自身はグラントに何も質問できなかったことに気付いてはいた。だが微笑んでいるのに、シシーの中の何かを見通そうとするグラントの目が怖くなって、シシーは逆らわずにドレスを摘んで軽く礼をし、逃げるようにマリナと寝室へと下がった。

 

 その晩、グラントは仕事を終えて休む前のマリナを執務室に呼び出した。新たな様々な書類が乗せられた大きな執務机に行儀悪く腰掛け、またお気に入りの紅い果実酒を手にしている。

 マリナは、尊敬する主人に一礼した。


「シシーは寝たか? それで、どうだった?」


 先程のシシーに見せていた嘘くさい笑顔とは打って変わったような真剣な眼差しで、忠実なメイドであるマリナに問う。


「もうぐっすりお休みです。あの方、背中の矢傷だけではなく、体中いろいろな痣だらけでした。まるで袋叩きにでもあったかのように。それにあの金色の髪。どんなに洗髪剤で洗っても色は変わらず、ただ輝くばかりになりました。お肌も少々日焼けしていますが、見事な滑らかさのあるお肌で、飢えていたのはこの数日だけですね。それでもお体は元から細身のようですが」


 グラントはマリナの報告に頷いた。


「俺も同じくそう思った。飢えたことの無い色艶の体だ。それに俺のエスコートも、食事の仕方も当たり前に上位貴族の作法だった。まったく無意識で言葉以外に戸惑いは無かった。最後の挨拶すらアレジオス式だ」

「あと、ご入浴の時ですが、人に世話をされるのを普通に受け入れていました。平民だったら、他人に身体を洗われるなど、抵抗するものですわ。でも、あの方は、素直に私に洗われていたんです」

「それに、人前で無様に取り乱さないよう自制する根性がある。言語も不慣れな場所で自分の名前すら分からずにれば、普通の女ならめそめそ泣くか騒ぐだろう。だが、シシーはできるだけ動揺を抑えこんだ。常に人目を意識して育ったんだな、あれは。まさに猪帝王シシー並みの強さがある」

「はい。時折、取り繕った笑顔で動揺を隠していたようです。上位貴族のご令嬢がよくなされる誤魔化し方ですね」


 ゴクリと果実酒を一口飲むと、ニヤリとグラントは笑みを浮かべた。


「じゃあ、やはり王女かもしれないな」

「な、何を言われるのです! 確かに裕福な、あるいは貴族階級のお嬢様とは思います。ですが王女様だなんて!」

「どうして違うと言い切れる、マリナ?」


 マリナは信じられないと目を見開き、驚きの声を上げる。


「だって、昨日、『王女は見つかった』と連絡が来ていたではないですか! だからグラント様は捜索から戻られて、それで果樹園に行かれたのでしょう? 疲れたからどうしても好物のカスイが食べたいと言われて!」

「結局、食べれなかったけどな」


 グラントは執務机の上にあった封書の一つを取り上げ、マリナに旗のように軽く振って見せる。


「確かに『王女は見つかった』。だが、二人も見つかったとある。だったら三人目もいたって不思議はないだろう?」

「二人ですって!」


 屋敷内で誰よりも信頼し、有能な執事も兼ねるマリナに封書を渡して見せる。それは王宮にいるグラントの友人からのもので、どうしたらよいか困っていると書かれていた。


「二人ともアレジオス国の貴族が後見となって、それぞれ自分が本物だと言い張っているそうだ。笑えるよな。だったら、俺も一人連れて行こうかと思ってな」

「ご主人様! 笑い事では済まされません! 偽者姫を王宮になど! 本物の王女が現れた時に、罪に問われてしまいます。下らない無茶はお止め下さい!」

「困っている友人のため、手助けするんだ。大丈夫、面白い事になるだけだよ」


 クククと笑う主人を前に、常識人のマリナは眉間にしわを寄せつつため息を零した。こうなると誰にもグラントを止められない。すぐにも王都に出発できるよう、マリナは命じられた。

 


 

 

 突然、バシャーン! とシシーの頭に上から水がぶち撒けられた。

 ぽたぽたと肩から背中から金の髪から流れ落ちる水。せっかくグラントが用意してくれたドレスも、輝いていた金髪もぐっしょり濡れてしまった。


「シ、シシー様!! 何てこと!」


 シシーの代わりに、背後を付き従って歩いていたマリナの悲鳴が高く大きく王宮の大広間に響いた。


(またここでもずぶ濡れ……。スレイン王国って水が、濡らすことが好きな国なのね……)


 がっくり項垂れつつ、シシーはホホホと自嘲気味の乾いた笑い声を小さく零す。どうしてグラントの言うがままに、王宮などに来てしまったのか。正しく思わず盗み食いしてしまった、あのグラントの領地の特産品果実はそれほど高価なものだったのだろうかと。

 もう、その己の世間知らずを笑うしか、この場をやり過ごす方法は無かった。


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