72話 漆黒の境界面
「レルカ急げ!時間との勝負だぞ!」
スプリ救出の為に小さな森へ突入したジェノ達は、草を掻き分け木々を器用に避けながら突き進んでいく。案内のレルカはジェノの檄を背中で受けつつ全速力で疾走し、他の者もそれを追う。本当は拠点に潜む敵に悟られないよう隠密行動を取る予定であったはずだったのだが、急遽全力で走破することになっていた。
「見つからないようにゆっくり慎重に進むって聞いてたんですけど何かあったんですか~?」
「あんたのせいだよ!」
「ええ、そうなんですか!?」
レルカの全力に対して平然とついて走るターナが、作戦立案のジェノに対してやや間延びした声で問いかける。かなりの速度で森を走っているというのに平然としており、小首を傾げる仕草はとても愛らしい。しかし、顔はジェノの方を向いていても視線は誰もいない虚空を見つめている。
ケモミミ族の獅子族であるターナは若くして一族の中でも指折りの戦士であった。それは高い戦闘力と、目があった瞬間に相手が何者であろうと襲いかかってしまう程の全身から漲る野生の本能に裏打ちされた評価だった。しかし、彼女は歳相応の女の子でもある。その為、目があったら襲い掛かってしまうのをどうしても止められなかった彼女が編み出した苦肉の策が、この遥か未来を見据えることだった。
結果出来上がったのが、肉付きがよくしなやかな肢体。160cm程の身長でウェーブがかった背中まで伸ばした茶髪に頭の上にはピコピコ動く三角の耳。ほわほわとした陽気をかもし出すタンポポのようなとても可愛らしい笑みを浮かべつつも、目線は何もいない空間を必死にさ迷わせる。そして背中にはどんな相手も骨ごと両断するという覚悟を感じさせる巨大な剣というなんとも言いがたい女の子が出来上がった。文字通り一部に目を伏せればとても可愛らしい女の子である。
ちなみに、ジェノが冷静に判断して決めた作戦をぶち壊した先程の彼女の行動からも分かる通り、戦闘が関わると脳まで侵食した野生の本能の影響を存分に受けてしまっている彼女は時折暴走する。本人は可愛い女の子になりたいので必死に否定するが、彼女が受け継いだ野生が戦いを求めてしまうのだ。
そんな訳でターナは聞いていた作戦では敵に感づかれないよう慎重に進むという話だったのに突然走り出したことを疑問に思ったのだが、思わずジェノは盛大にツッコミを入れてしまう。しかしそこは天然殺戮系
女子であるターナ、驚愕の表情を浮かべてジェノを見る。
ターナの視線は虚空をさ迷い、ついでに草むらからターナを貫かんと飛び掛ってきた鋭い角を持った50cm程の昆虫型の魔物にピタッと視線を合わせると手刀で角の先から真っ二つに切って捨てた。なるべく静かに移動をしてはいてもかなりの速度で走っている為一行に気付いた森の魔物が時折襲い掛かってきているのだ。他の者達も、足を止めずに的確に仕留めている。
人体程度なら容易く貫通出来る筈の魔物の突貫を武器も抜かずに素手でもって切り捨てたターナに、ジェノは思わず「いや、なんでもねぇ」とだけ返して前を向いた。
隠密行動を投げ捨てて走ることになったのは、近くで大量の盗賊達の死体から溢れる血の臭いをスキルで消していた熊の魔物をターナが衝動のままに仕留めてしまったことが原因だった。熊のスキルで消されていた濃厚な血の臭いはすぐさま森へ流れ出していった為、魔物は興奮して集まってくるのにくわえて拠点に潜む者達に異変を感じさせてしまうかもしれない。
故に時間をかけられないと判断したジェノの号令によってレルカが全力ダッシュさせられている訳で、ジェノはターナが全く気付いていないことに呆れたのだ。決して、ターナの鋭い手刀に怯えたわけではない。
「ターナさんの戦闘力はコーキンさんやテッペさんにも引けをとらないですから気をつけて下さいね」
「・・・マジで?」
「マジです」
さらに追い討ちをかけるかのようにナムカラがジェノへそっと囁く。ジェノの顔は思わず引きつる。ナムカラは自らの呼び出した普通サイズの茶色い羊に跨ってその背中に揺られている。魔法職であるナムカラは走るのはそんなに得意ではないので、辿り着く頃に満身創痍では困るだろうと一人羊に騎乗していた。走るのが面倒だとか、そういう考えは一切無い。はずだ。
「はぁ、はぁ、みんな、もうすぐそこだよ!」
減速を始めたレルカが響かないよう、けれど全員に伝わるように静かに大声を出すという器用な芸を見せた。追随していた面々も合わせるように速度を落としていく。流石にこのままの勢いで拠点に突撃するということはなく、接近した後は慎重に進もうと決めていたのだ。
一人そのままの速度で真っ直ぐに走っていこうとしていたターナの腕を、ジェノが掴んだ。先程のように一人で突っ込むだろうとジェノは予測しており、その通りにターナが速度を落とす気配が無かった為に慌てて止めようとしたのだ。
スプリが捕まっているところに何の考えも無しに突っ込んでいかれると相棒が危険にさらされるかもしれないというのはもちろん一番の理由だったが、いくら強いとはいっても女の子を単身乗り込ませることにも抵抗があったのだ。
ターナは自らの手首を掴んだジェノの手を少し見てから、ジェノの減速に合わせてスピードを緩めてやがて足を止めた。ジェノは内心ほっと息を吐いて手を離し、ターナは先程までジェノが掴んでいた己の手首をじっと見つめていた。その光景に何かを感じたナムカラは一人ニヤニヤと笑っている。
慎重な動きで歩くレルカは、茂みの向こうを手で示した。それは、そこに目的地があるという合図。ジェノが茂みから顔を覗かせると、そこには開けた空間の真ん中に鎮座する石で組まれた地下への入り口が存在していた。しばらく様子を見ても見張りの類は見当たらず、誰かが出てくる様子も無い。
「行くぞ、慎重にな」
ジェノがそう告げながら、そしてターナが駆け出さないよう注意しつつ茂みから一歩踏み出すと、周囲を警戒しながら他の者達も歩き出す。全員が開けた空間へと姿を現す。何も起こらない。
岩を組んで作られた入り口は、真っ黒い板でもあるかのように向こう側が見えない。ジェノが恐る恐る手を入れてみても、手は何も触れず、そしてすぐ向こうにあるはずの己の手はやはり見えない。ジェノハ一度手を引っ込めて考える。
「なんか嫌な予感がするんだよな、どう思う?」
「さっき見た時は中が少し見えてたと思ったんだけど・・・」
入り口の目の前でジェノとレルカが考え込む。ジェノは罠の可能性を考えつつも解除の仕方が分からず、レルカもやはり先程見た光景との齟齬に頭を悩ませる。何かの仕掛けがあるのは間違いない。そして、謎の女の能力を考えればその正体は明白であるのだが。
「多分これはどこか別の空間につな」
「入らないなら私行っちゃいますよ? きゃっ!?」
ナムカラとターナが入り口に近寄り、しげしげと眺める。そしてナムカラが自信の考えを伝えようとしていたところで、痺れを切らしたのか、罠であると考えが至らなかったのかちょっとその辺まで、という気軽さでターナが入り口へと入っていってしまった。そして、半身が飲み込まれた辺りで可愛い悲鳴と共に引きずり込まれる急にその姿を消してしまった。
「あーあ、今別の空間に繋がってるって言おうと思ったのに」
「ターナ!? ・・・ああくそっ! すぐ戻るけどスプリのことは任せた!」
平然と呟くナムカラとは対照的に、ターナの名前を呼ぶジェノの声は焦燥に満ちていた。そして、一瞬の逡巡の後に決断したジェノは、叫ぶと同時に自らも入り口へと姿を消した。周りが引き止める間も無く、一瞬のことであった。
ほとんどの者が呆然とする中で、動いたのは冷静な羊ナムカラだった。
「僕もついて行くのでユヴィクスさんは皆をお願いします」
「分かりました」
それだけを告げてユヴィクスの返事を確認すると、茶色い羊と共に漆黒の境界へ身を躍らせた。入り口はまるで真っ黒な液面のように波紋が広がり、やがて溶けるように薄れていき、気付けば地下へと続く道が姿を現していた。