母と繋いだ手
実際に母を介護しながら、自分が感じた様々な感情を元に書いてみました。
全て実話ではありませんが、変わっていく親を見るのは辛い時もありましたが、介護の中にも時々キラリと光る瞬間があったように思います。
今、どなたかご家族を介護している方、また、将来介護するかもしれない方、皆さんにこの物語を贈りたいと思います。
母が退院する日、紅葉していた楓の葉もいつの間にか落ち、枯れ枝から透けて見える青空は澄んでいた。
ぽつり、ぽつりと咲きだした山茶花の花が冬の庭に唯一彩りを添えている。
庭をぼんやりと眺めていた梓だったが、すでに時計は午前10時を回っていた。
そろそろ行かないと……。
立ち上がってバッグからスマホを取り出す。
アプリでタクシーを呼ぶと運良くすぐにタクシーがつかまった。
いよいよ母を迎えに行くのだと嬉しいような、でも少しだけ重たくなる気持ちを消し去るように玄関の扉を閉め、鍵をかけた。
「お母さん、先ほどからお待ちかねですよ。」
明るい橋本さんの声に出迎えられて、病室に入った。
ベッドに座っていた母は、顔を上げて私を見た。
「梓、待ってたわよ。」
笑顔で顔をくしゃくしゃにした母。
久しぶりに心の底から母を愛おしいと思った。
少し母と離れていたせいか、母に会えたことが嬉しくて、私も「お待たせ~。」と母の側に駆けよった。
「あのね、もう、先生が家に帰って良いって。」
と子どものように言う母に私も
「帰ろう、帰ろう。」と歌うように言いながら母の荷物をまとめて、ベッドを軽く直した。
母と二人でゆっくり歩きながらエレベーターホールへ向かっていると
「真野さ~ん。」と橋本さんの声がする。
振り返ると橋本さんが、
「これ、お忘れですよ。」
と手に杖を持ってきてくれた。
あぁ、足元が覚束なくなった母には、今後はこの杖がいるんだった。
お礼を言って杖を受け取り、扉の開いたエレベーターに母と乗り込む。
「どうぞくれぐれもお大事に。」
微笑む橋本さんを目の前にしながら扉が閉まった。
また、これから母と二人の生活が始まる。
母は私の腕に軽く手を添えて立っている。
そんな母に杖を見せて
「これからは、これも使おうね。
でも、私がいるから大丈夫。
一緒にいる時は、私がお母さんの手を繋ぐから。」
そう言いながら、そっと母の手を握ってみせた。
母は、嬉しそうに私の手を握り返してくれた。
自分が小さな頃は、母に手を繋いでもらった。
迷子にならないように、母とずっと一緒にいたいと必死に握り続けた母の手。
今度は、私が母を迷子にさせないよう、不安にさせないように握っていこう。
病院の扉を出ると天気は良いが、冷たい風が頬を刺した。
ずっと入院していた母には、この寒さは堪えるだろう。
早く母を車に乗せないと……。
タクシー乗り場に目をやると丁度タクシーが止まっているのが見えた。
タクシーの運転手さんが私たちに気がついて、静かに扉を開けてくれた。
ゆっくりとタクシー乗り場まで母と歩を進めた。
「慌てなくて良いですよ。気を付けて乗ってください。」
タクシーの運転手さんからも優しく声をかけてもらった。
「お母さんから先に乗ってちょうだい。
ゆっくりで良いからね。気を付けて。」
母が車に乗り込むのを手伝った後、梓も母の隣に座った。
「そこにあるキャンディ、好きな数だけ取ってくださいね。」
運転手さんに再び声をかけられ、差し出された小さな籠に入ったキャンディに目を落とした。
「えっ、良いんですか?」
少し躊躇った後、梓は
「じゃあ、遠慮なく。」
と二つキャンディを取り、まずは母に一つ渡した。
「私は、家に帰ってからいただくわ。」
と母。
「わかったわ。じゃあ、私はこれを食べようかな。」
梓は、ミント味のキャンディを口に入れた。
爽やかな味が口いっぱいに広がり、梓の気持ちもほぐれていくようだった。
二人を乗せた車は、明るい日差しに包まれながら快調に滑り出した。
車内でも梓は母の手を取り、そっと繋いだ。
こうしていれば、母が安心するような気がしたからだ。
梓は、少し味気なく見える茶色の杖を眺めながら、
「お母さん、もっと可愛い杖を買ってあげるね。」
と母に言うとこくんと母は頷いた。
お洒落な母には、花柄の杖が似合うのではないだろうか?
花柄の杖をつく母と隣を歩く自分。
そんな姿を想像したら、杖をつくのもそんなに悪いものではない気がしてきた。
母とゆっくり歩きながら、近所を散歩してみよう。
「最近新しくできたカフェにも寄ってみようね、お母さん。」
楽しい想像をしながら、車の心地よい振動を感じている梓。
母もほっとしたのか、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。
私たちのこれからは、誰にもわからない。
母の認知症の症状がもっと進んでいくかもしれない。
でも、今日の母の笑顔は一番好きーー。
この笑顔が見られた今日のことをずっと覚えていたいと思った。
家に向かう車の窓から見えるのは、葉を落としたハナミズキの街路樹。
春を迎えればこの道にも美しいハナミズキの花が咲くだろう。
その時にはまた、この道を母と歩けたら良いな。
そんなことを思いながら、私は母と繋いだ手にそっと力を込めた。
母の手は春の日だまりのように温かく、こんな優しい時間がいつまでも続いて欲しいと心から願わずにはいられなかった。
実際に母を10年ほど介護し、昨年見送りました。
晩年は、有料老人ホームにもお世話になった母でしたが、母と一緒にいた時間を書き留めておきたくて、小説に書いてみました。
宜しければ、お読みください。




