第十七話
◇第十七話
『化け物!』
ヴァハは叫びながら長剣を掴む両手に全魔力を集める。
魔眼との距離はかなりある。踏み込みや間合いの錬度でどうこう出来るレベルではないが、ヴァハに迷いはなかった。
長剣が髪の色と同じ灼熱色に輝き出す。
両手に全魔力を集中したことにより、手と長剣の間に魔力の有無に関する絶対的な格差が生じ、強化の呪文では起こり得ない程効率的な魔力の移動現象が成立したのだ。
熱伝導と理屈は同じ。
熱伝導は物質の移動を伴わずに、高温側から低温側へ熱が伝わる移動現象のひとつ。魔力においても同様に現象が発生すのだ。魔術とは詰まるところ、魔力の存在する箇所と存在しない箇所との格差により発生する魔力の移動現象の応用にすぎない。魔力を一点に集中することが可能ならば、呪文を唱えるよりも効率的な魔力の移動が可能となる。
理屈を理解していれば剣術にも応用可能なのだが、魔術師は剣術に秀でていなく、魔法戦士は剣術を嗜むが魔術に秀でていないため実戦でみることはまずない。魔力を集中する際に僅かな隙が生じるが、呪文を唱えるよりは遥かに隙が少ない戦法である。
今回は魔眼がヴァハの出現を予期していなかった事と、シーラに感けていたため、隙をつけ込む精神的余裕はなかったのが幸いした。
『消えなさい、バロール』
魔力により最大まで威力を強化された剣圧は、シーラに纏わりついていた触手を全て断ち切る。
湯船に張られた湯は剣圧によって激しく波立ち、入浴場を形造る岩石に叩きつけられるが、岩石は防波堤の役割を果たすことなく辺りに溢れ流れ出た。湯船の湯量は見る間に激減し、床がたちまち水浸しになる。
触手は切り裂いたが、戦い続けるには足場は最悪。剣で武装したヴァハからしてみれば悪手だったかもしれないが、シーラに纏わりついていた触手を全て断ち切るには、他に手がなかった。
ブッシュュュュゥゥゥゥ
断ち切られた触手の切る口から、肌の色と同じ毒々しい黄緑色の体液が血しぶきのように上がる。束縛が急に解かれ床に叩きつけられた直後だったたため、シーラはその血しぶきを全身で浴びてしまう。
幸い焼きただれるような症状は発生しないようだが、素っ裸だったこともあり徐々に体に浸透していく。
この機を逃さず逃げ出すべきなのだが、シーラは動くことが出来なかった。
不様と責めるのは些か酷だろう。
いままで受けていた辱めと恐怖という心理的重圧、神聖魔法が通じない絶望感。なにより全身で浴びてしまった体液には、強力な麻痺と毒の効果があったのだ。
逃げろというのが無理な話。
それでも尚、這いつくばりながらも必死に逃れようとする気力だけは大したものだが、その表情には涙と恐怖の色しか感じ取れない。最早彼女に戦意などなく、怖れ慄き逃げ惑う哀れな雌鹿でしかなかった。
バロールと呼ばれた魔眼は再びシーラを拘束する機会が訪れたのだが、触手を切られたことにより上がった血しぶきが眼に入ってしまい、獲物がどこにいるか把握できない。
激しい痛みと獲物を逃がした苛立ちから、残った触手を辺りかまわず振りまわす。
バタッァァァァン、バシャァァァァン、バタッァァァァン、バシャァァァァン
丸太を振り回す様な力強さに、周囲に張り巡らされた壁はなぎ倒され、激しく打ちつけられた湯船からは水しぶきが上がる。湯船を叩きつけられたことで、残っていた湯も巻き上げられ雨のように降り注ぎ、目に浸み込んだ血しぶきを徐々に洗い流し始める。
ヴァハは迫りくる触手を機敏にかわし、ときに長剣でいなす。可能ならば切り落としたいのだが足場の悪さに加えて、徐々に正確さと鋭さが増する攻撃にその余裕はなかった。
やがてどちらともなく攻撃を止め、互いに牽制しつつもシーラににじり寄り始める。
ヴァハが口を開いたのは、そんな時だった。
『バロール、醜悪な姿は相変わらず。いえ、以前より酷くなった』
『誰かと思えば久しぶりではないか、我が宿敵よ。いきなり攻撃してくる手癖の悪さは男を加えこむ手腕と一緒ではないか』
腹這いになりながら逃げるシーラの頭にも、彼等の会話が響くように聞こえる。時々聞こえる御神託に似ているが、それより遥かに大音量だった。
(どういうことなの? 二人は一体)
混乱するシーラを無視して、バロールとヴァハは睨み合いながら会話を続ける。
『ダーナ神族の王 ヌアザだけで満足出来ぬとは、お主も好き者よのう』
『彼との関係は、もう昔のこと』
『言い訳することもあるまい。むしろワシは共感を覚えるぞ。好色の男神ダグダならいざ知らず、女神の身にありながら神だけで満足を覚えず人の子を次々咥えむなど、中々できる手腕ではない。お主は女神というより女傑の二名の方が相応しいわ』
バロールの発言にヴァハは殺気立つが、彼女の変化を気に止めるような存在ではなかった。
『怒るではない、ワシは褒めておるのだ。そんなお主なら分かる筈だ、そこで怯えておる娘を狙うワシの心を』
『……分かったわ。何故、貴方が以前にも増して醜悪になったかを』
『ふっ、最近まで迷宮を彷徨っていた亡霊の分際で言うてくれるわ』
『あれはただの座興よ』
『嘘を言う出ない。その首の傷に刻まれた傷こそが、お主が恥じている何よりの証拠ではないか?』
『……くっ』
バロールの視線がヴァハの首元に集中する。
そこに刻まれているのは、肌がぐちゃくちゃに溶けてから、黒い薬品を用いて接合したような醜い傷跡。自分は全てを知っていると言わんばかりの視線に耐え切れず、思わず手で覆い隠してしまう。
ニタリッ。
バロールの目が嫌らしそうに笑う。
己の罪を罪と認めるだけでなく、罪を恥じている心の内までもさらけ出してしまった事に気付き、ヴァハの表情が真っ赤になる。裸体を目の前で晒しているときにはなかった変化である。
『大方、迷宮を彷徨っていたお主を助けた男にでも優しくされて惚れこんだろう? そうであろう?』
『違う』
『自分に正直になれ。いまのお主は己の奥を激しく突かれ女を実感したい衝動が抑えられない、淫らで哀れな女神の成れの果てだと』
『違う、違う!』
『違うまい。お主は何度も何度も別の男を咥え込んで来たのだ。どれほど否定しようとも勝手だが、過去の行いが何よりも雄弁に語っておるではないか』
『違う! 違う!! 違う!!!』
『戦いと愛を司る神ヴァハよ。お主はどう言い訳しようともワシと同じ存在だ。そのお主が、何故ワシの邪魔をする!!』
ヴァハはケルト神話に登場する戦いと愛を司る神である。いや、バロールが語るように「なれの果て」というのが正しいか。
彼女はかつてダーナ神族の王ヌアザの妻であり、戦いの神の名に相応しい活躍で夫を支えた勇者でもあった。
そんな幸せな生活はある日、唐突に終わりを迎える。
ヌアザダーナ神族は魔眼バロール率いるフォモール族との戦いに敗れ、夫婦共々殺害された。故にバロールは因縁の相手であるばかりか亡き夫の仇でもある。
伝説によれば、ヴァハは三度の転生を行っている。
一度目は、メネズ族の酋長の妻。
二度目は、アルスター王のキンボイスの王妃にして王女。
三度目は、農夫クルンチューの妻。
いずれも異なる男性を夫と迎え入れており、亡き夫ヌアザに操を立てていなかったと非難するバロールの言い分は、ある一面に置いて事実だった。
その彼女がどのようにしてエルと出会ったかは後の機会に語るが、いずれにしてもヴァハがバロールが構築した異空間の存在に気付いたのは技量云々ではなく、過去に手合わせした相手だったからに他ならない。
自分の存在理由と正当性を論破されかかったことで、奇襲で得た精神的優位性は既に消え去っていた。
二神は牽制しながら徐々にシーラに近付いて行く。