真夏の風
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
真夏のグラウンド。ユラリと陽炎が立ち上り、背景を歪ませる。
僕は、夏の茹だる様な熱のせいで白昼夢を見たのだろうか―――。
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
見た瞬間から、目が離せなくなった。引き込まれるように・・・。
一瞬にして夏の熱気も、景色も音も、全てが無となった。
唯、只管に目を奪われていた―――。
※
夏休みに突入して、二週目の学校。
クーラーの入っていない教室内は、熱気地獄。
下敷きでパタパタと扇いでも何の意味も為さない。
フワリ。
時折、開いている窓から風が入り込んでくるが、こちらも全く涼しくない。
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
「えー。NNはXとyとを・・・で、云々・・・」
補講授業を受けているのは、僕を含めて二十名ほど。
高校三年。来る受験戦争に備えるため、夏でも遊んでいられない。
僕は、教育熱心な両親に半ば強制的に参加させられている。
無論、拒否することは可能だったが、別段やることも無かったから参加することにした。
「えー。・・・は、・・・により・・・・」
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
パタパタ・・・パタパタ・・
教師の声と蝉の声、パタパタと扇ぐ下敷きの音。
汗が額から首筋から脇から・・・何処彼処から噴き出てくる。
あつい・・・あつい・・・あつい。
フワリ。
風に誘われるように、グラウンドに目を遣る。
※
青い空に掲げられた太陽は、容赦なく大地を焦がす。
ザッザッザッザッ・・
「よーし、軽く二週流して休憩だ。」
この暑い中、太陽に負けないような大声が響いた。
気合十分。それもその筈で、最大級のイベント、インターハイが来週へと迫っていた。
我が陸上部の精鋭たちは、なんと優秀なのだろう。
多種目で予選を勝ち抜き、本線出場を果たしている。
過去最高の出場人数だろう。
顧問の教師もかなり上機嫌だ。気合が入るってもんだろう。
「お。タイムもここにきて、一段と伸びたな。」
話しかけてきた顧問教師は、二年半前に新米教師としてこの学校に赴任してきた。
つまり、三年の自分たちと同じ年数をこの学校で過ごしていた。
「はい。調子がいいです。後で、フォームのチェックをお願いします。」
「おお。わかった。熱心なエース様で助かるよ。」
別に大会や記録、そんなものには然程、興味がなかったが、喜んでいるからいいか。
走るのは、好きだし。
何より無になれる。無になって、風と混じり合う。心地いい。
本当に風になれたらいいのに。
遠ざかっていく教師の背中をぼんやりと見つめ、フゥと息をつく。
太陽の様な先生だ。何にでも熱く、キラキラとしていた。
※
僕は、頭から全ての事が吹き飛んでしまった。
なんだ・・これ。
僕の視線の先には、グラウンドを走る生徒。
見た事がない生徒だ。一年?二年?学年が違うのだろう。
そんなに大きな学校では無い為、同学年となれば大概、顔ぐらいはわかる。
誰なんだろう。
僕は、見つめ続けた。
「おーい。颯志。授業終わったぞ?」
はっ。
呼ばれて、そちらを振り向くと一緒に補講に出ていた友達の顔があった。
「あ。。ああ。」
曖昧に返事しながら、視線をグラウンドへ戻していた。
僕は、グランドを見回した。
いない。グランドには陽炎が立ち上っているだけだった。
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
次の日、今日も蒸し風呂のような教室内で、僕は昨日の事を思い出していた。
フワリ。
風が頬を撫でる。
無意識にグラウンドに目を遣ると、またも世界が無になる。
そして、次の日もその走る姿を唯、見つめていた。
※
大会の開幕式が明後日と迫った。
最終調整に入る。皆の顔は真剣で、自己調整はそれぞれ入念に行っていた。
「よし。いいだろう。」
満足げな先生の顔。釣られて自分の頬も上がっている事に気が付き、慌てて下を向く。
「小山内。風になれ。」
そう言うと、眩しい光を放つように満面の笑みをこぼした。
風に・・・・。
「小山内~。集合だよ。」
キャプテンに声を掛けられ、皆が集まっている所へ向かう。
「・・・・と、言う事で、明日は各自十分に身体を休める事!!
以上。解散!!」
アイシングに使っていたバケツを持って、部室へ向かった。
「はぁ~。いよいよ最後の決戦だね。
ウチラ三年は、引退試合。」
感慨深そうに語る戦友たちを横目に、さっさと着替えて部室を後にした。
―――風になれ。
その声が脳内で何度も繰り返される。
校門を出て、家路を歩きで辿る。
ワクワクする。走って、走って、風になれたら、どんなに気持ちがいいのだろう。
キキキッーー!!
凄まじい摩擦音が聞こえ、振り向く間もなく身体に衝撃が走る。
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
蝉の声が聴こえたかと思ったら、視界が暗転していった。
※
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
最近の習慣のようにグラウンドにあの姿を求めていた。
校庭の隅の方に見知った顔を見つけた。
あれ・・?父さん?
花束を抱え、校門から堂々と入ってくる。
父親は昔、僕が生まれるよりももっと前に教師をしていた。
現在は、スポーツトレーナーとして実業団の専属をしている。
詳しくは聞いた事がなかったが、母親と話しているのが聞こえたことがある。
二年半、体育教師をしていた。任期を終えずに、夏休みの間に辞してしまった。
父親は、グラウンドを見渡すと俯き、肩を震わせているように見えた。
そして、旧校舎(取り壊す事が決まっている)の方へ行くと、そっと花束を壁際に置いた。
祈るようなその後ろ姿。
ミーンミンミン・・ミーン・・
ジ・・ジジジッジーーーーー・・
フワリ。
その時、風が舞った。
※
薄く目を開けると、白い天井が見えた。
「ああ、気がつかれましたね。」
頭がクラクラする。
・・・痛い。足が、足が痛い。
最後の大会は目前なのに、足が痛い。
そっと力を込めて、動かそうとする。
・・・。
右足が動かない。
無理矢理に起き上がるが、体中が痛い。
「無理しないで、今は安静にしてね。」
慌てて駆け寄ったのは、白い制服を着た女の人だった。
カラカラ・・。
扉が開いて、両親と先生が入ってきた。
「小山内・・。」
三人とも辛そうな顔をしていた。
「今回の大会、出られなくなっちゃいました。
最後の大会だったのに・・・」
そう言うと、益々辛そうに顔を顰め、目を瞑ってしまった。
「先生、ハッキリと教えた方がいいと思うんです。」
父がそう言って、此方に視線を投げる。
いや。聞きたくない。
聞いてはいけない。本当になってしまうから。
耳を塞ごうとする手を、そっと先生が握った。
そして、父が口を開く。
「その足は、もう・・・治らないんだ。」
真っ暗になった。
足は、右足は・・・治らない。
走れないと言っている。一生、走る事が出来なくなった。
風に―――。
※
講義が終わって、直ぐに旧校舎へ向かった。
階段を駆け下りて、靴を履き替えることもせずに外へ飛び出す。
旧校舎まで行くと、父親はまだその場に居た。
大きく息を吸って、呼吸を整える。
ゆっくりと近付く。
「父さん・・・」
その声に反応して、振り返ったその顔はとても辛そうに見えた。
「もしかして、父さんの居た学校って、ここ?」
ゆっくりと頷く。
「そうだ。教師になって直ぐにこの学校に赴任したんだ・・・。」
この学校で体育教師をしていた。そして、陸上部の顧問となった。
「この学校に来て三年目の夏の事だ・・・。」
父親は、その夏の出来事を教えてくれた。
事故に遭って走れなくなった生徒の事。
走るのが好きで、好きで・・・。
誰よりも風と共にあった。
走れなくなった生徒は、大人たちの目を盗んで病院を脱走した。
そして、誰もいない学校の屋上から・・・・。
生徒の使っていた病院のベットの枕の下から、一枚の手紙が出てきた。
そこに書いてあったのは、一行だけだった。
―――風になる。
※
病院から抜け出すと、知らず知らずに学校に来ていた。
グラウンドの見渡せる屋上。
動かない右足を無理矢理に引きずって、際に立つ。
フワリ。
風が纏わりついてきた。
自然と涙が零れて、独り、誰に聞かせるでもない言葉を呟く。
「風に・・風になりたい。」
怖くはなかった。
この先、一生走れない。その事の方が怖かった。
それならば、本当に風になるのだ。
風になっていつまでも、どこまでも吹きぬけよう。
フワリ。
誘われるように足を踏み出す。
※
夏休みも終わり、文化祭の準備で騒がしい教室内。
フワリ。
頬を撫でる風は少し涼しさを増した様に思う。
あれ以来、グラウンドを走る姿を見掛ける事はなかった。
それでも僕は、グラウンドを見つめる。
チクリ。
胸の奥に小さな棘が刺さった痛みが走る。
真夏の見せた――――。