第九話
第三章 さて、天上の喫茶店で、推理が紛糾すること。
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「そこの柵の下の席がいいでしょう。ここは、案外人が通らないんですよ」
メフィストの案内のままに、僕は席に着いた。メフィストの話では、ここは天上にある喫茶店だそうだ。しかし、天上に悪魔が気安く出入りしていいのだろうか。少し、メフィストの立場が心配になる。
「よう、メフィスト、なんだか苦労しているそうじゃねえか。どうだった、アリバイ調べは」
声がしたので目を上げた。上げた目が、点になった。一見特撮ヒーローものの怪人のような姿があった。しかし、どうも縫いぐるみではなさそうだ。
「あ、同僚のアスタロトです」
メフィストが、なんだか申し訳なさそうに言った。
アスタロトといえば、魔界では相当の顔の魔王だ。なるほど、背中には蝙蝠の羽が生え、山羊の足をして、なかなかそれらしく見える。上半身は昆虫のようで、口からは、粘っこい涎を垂らしている。酸性だったりして、とも思うが、落ちた床に異変は見られない。
メフィストは、アスタロトに向かって手を振った。
「駄目駄目、成果は全くなし。おちょくられてお仕舞いだよ。メフィスト・フェレス様も、落ちぶれたもんさ」
少し無頼な言い方が、様になっている。アスタロトは、いかにも納得したように頷いた。
「ああ、あのレベルの聖者が相手じゃなあ。俺なんざあ、近寄るのもいやだ。お前も、難儀な役目を押し付けられたもんだよな。ま、頑張ってくれよ」
こう言って、アスタロトはメフィストの肩を叩いて、向こうに行ってしまった。
はあ、なるほど。あんな、いかにも悪魔悪魔風をした御仁が出入りできるなら、メフィストもこの喫茶店に出入りできるのだろう。天上というのは、ややこしいところだ。
メフィストが、顔を改めて振り返った。
「ここのミルクティーは、なかなか美味しいんですよ」
メフィストが言った。渋いハンサムの割には、珈琲党じゃないんだ、と少し意外だった。
見回すと、なかなか洒落た店だった。壁の白と木材の茶が基調になっている。テーブルは、木目の浮き出した一枚板で、そこここに白い、ロココ調の装飾の付いた柵が巡らされていた。
柔らかい音で、クラシックらしい音楽が流れている。僕の知らない曲だった。僕は、結構なクラシックファンなので、知らない曲とは意外だった。
「あら、メフィスト、首尾はどうだったの」
柔らかな声が聞こえてきた。また顔を上げた。
息を飲んだ。
朱鷺子だ!
動悸が激しくなり、胸が苦しくなった。
すぐに、勘違いに気が付いた。
確かに、朱鷺子に良く似ている。しかし、髪と目の色が違う。朱鷺子は、もちろん日本人だから、目も髪も黒い。しかし、目の前の少女は、栗色の髪に少し碧がかった青い瞳をしている。それに年齢もちがう。朱鷺子は二十六で亡くなったが、この少女はどう見ても十八、九だ。
なんとなく、ルノアールの描いた、イレーヌ・カーン・ダンベール嬢の肖像画を思わせる。水色のドレスが、良く似合っている。
それにしても、出会った頃の朱鷺子と、本当にそっくりだ。世界には、自分と瓜二つの人間が三人いるとは聞いたことがあるが。
ふと眩暈のような感覚に襲われる。
僕は情けないことに、声を飲んだまま茫然としている。
「あ、お二人は初対面ですよね」
メフィストが、ゆっくりと言う。
「ご紹介しましょう。グレートヒェンです」
少女が、足首を交差させて、可愛らしくちょんと膝を曲げた。悔しいが、こういう動作をさせると、西欧人には敵わない。
それにしても、いやはや、メフィストにグレートヒェンとは、平仄が合いすぎている。僕は、どぎまぎしながら無言で会釈した。まだ胸の動悸が治まらない。
グレートヒェンは、僕の無作法を咎めるでもなく、メフィストのほうを振り返った。
メフィストは、憮然として頷いた。
「さっぱりさ。バイラヴァ老師は、尻尾も見せない。食えない爺さんだよ」
おやおや、僕と同じ感想だ。
「ま、土台、彼らと悪魔じゃ、役者が違いすぎるよ。話にならないね」
メフィストが、嘆息する。
「そうなの。宗派が対立しているから、バイラヴァ老師が本命かと思っていたのだけど」
小首を傾げ、唇を噛んでいる。真剣な目が、なかなか好ましい。つい見つめてしまう。
すぐに顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。月並みだが、花のような笑顔だ。
「大変ね。でも、頑張って。あなたたち悪魔だけじゃなく、あたしたちキリスト教徒にとって、重要な問題だから」
「うむ」
むっつりと黙り込みながら、メフィストは重々しく頷いた。
「それにしても」
おずおずと話し掛ける。
「え」
グレートヒェンが僕のほうを向いた。
「あなたは、ファウストに出てくるグレートヒェンなのですか。それなら、もうすでに昇天なさっているのでは」
「はい、同じ名前ですけど、あのグレートヒェン様とは別人です」
ほう、一応納得した。
「じゃあ、頑張ってね」
という言葉を残して、グレートヒェンは向こうに行ってしまった。ちょっと残念な気がした。
そこに、ミルクティーが来た。
メフィストが唇を噛んで僕をまっすぐ見た。なかなか迫力がある。
「どれ、一つ、推理でもしてみましょうか」
メフィストの目を見ながら、僕もその言葉に頷いた。