第八話
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目の前には、燃え盛る太陽があった。
どうやら、水星軌道の内側らしい。
額から、冷たい、粘っこい汗が滴り落ちる。
凄まじいフレアが、太陽の表面から吹き上がるのが見えた。その焔一つに、地球が十個は入るだろう。
物凄い熱量が吹き付けているはずだが、不思議と何も感じない。むしろ、涼しいくらいだ。バイラヴァ師の法力で護られているのだろう。
目の前の太陽にも、触れれば火傷しそうなリアリティがある。
不意に、僕たち三人は動き出した。急速に、太陽に向かって接近していく。
黒点が渦巻き、プロミネンスを吹き上げる太陽の表面が、ずんずんと大きくなっていく。
思わず、声を出して叫んでいた。こんな情けない悲鳴を上げたのは、人生で初めてだ。
恐怖した。肌が、粟立つ。
混沌として小爆発を繰り返す、オレンジ色のプラズマの中に、僕たちは突入していった。
太陽の表面に激突した。もちろん、太陽は固体ではないが、それにしても何のショックも感じない。内部に埋没する。そのまま、どんどん沈降していく。
太陽の温度は、表面でさえ六千℃である。内部は、数万℃、数十万℃。中心部では、数百万℃に達する。溶鉱炉などという、生易しいものではない。
本来なら、僕たちは、蒸発するどころか、原子もバラバラに分解され、電子と陽子と中性子のプラズマとなっているはずだ。骨も残らないどころの騒ぎではない。
「大丈夫じゃ、わしの結界で護られておるからな。このまま、中心まで行くぞ」
バイラヴァ老師が、こともなげに言う。
なるほど。僕たちは、泡状の結界の中にいるらしかった。
そのまま、僕たちは、凄い速度で太陽の中心、途方もない規模の核爆発が連続している場所に向かっていく。
戦慄で震えた。
今、僕たちの周囲では、地球など数百個分が、一瞬にして形もなくなるほどのエネルギーが渦巻いているのだ。恐ろしくないほうが、どうかしている。
対流する、超高温のプラズマが蠢いている。
ゾクゾクと身体の芯から寒くなる。この恐怖感は、形容しようがない。
ふと傍らを見ると、メフィストも真っ青な顔をして震えていた。
それはそうだろう。
これは、あまりにも桁違いだ。悪魔が揮えるような魔力とは、スケールが違いすぎる。
今、周囲で荒れまくっている無軌道なエネルギーから、こうして僕たちのか弱い身体を護ることができるなら、逆に一瞬のうちに全人類を滅ぼすことだって、わけもないことだろう。
いや、全人類どころじゃない。地球そのものだって何千回でも滅ぼすことができる。
「ふむ、着いたぞ。この辺りが、母なる太陽、スーリヤの中心じゃ」
こう言いながら、バイラヴァ老師は、茶目っ気のある目で僕たちを見た。それが癖なのだろう、また顎髭をしごいている。
「まあ、わしらの法力というのは、この程度のものじゃ。納得できたかな」
僕は、訊かずにはいられなかった。
「老師、これほどの力があれば、人類全体の争いを止めさせ、世界を平和に導くことなど、造作もないことなのではないですか」
つい、詰問調になる。ここで、結界から放り出されたら、と考えるゆとりなど無くしていた。
「ふむ」
バイラヴァ老師は、ちょっと困った、という顔をした。
「それは難しい質問じゃのう」
こう言いながら、またしきりに顎鬚をしごく。
「人間の心というものは、そのように生易しいものではないぞ、若者よ」
バイラヴァ老師の目が、厳しくなった。背筋がすっと伸び、聖者らしい風格が滲む。思わず、居住まいを正した。
「このような物理的な力で、人間の精神をどうこうできるなどとは思わんことじゃ。わしらの通力で、破壊をこととすることはできる」
破壊からは、何も生まれない、と言いたいのかな。
「破壊こそは、確かに全てを生み出す母なる大地じゃ」
おっと、そうか、バイラヴァ老師はシヴァの信徒だった。
「しかし、破壊から創造の恩寵を生み出すのは、父なるシヴァのみに可能な大いなる御業じゃ。わしらの法力ごときで、人間の心の闇を救うなどということは、とうてい叶わぬ夢じゃよ」
少し哀しそうだった。確かに、そう言われればそうかも知れない。頷くしかなかった。
「じゃから、わしらは、人類全体の救済、などという大きなことは望んでおらん。わしらの目的は、ただ一つ、自分自身の解脱じゃ」
こう言うと、不意にバイラヴァ老師は僕に向かってウィンクをした。一瞬のことで、僕は当惑した。そのまま、老師は呵呵大笑した。
それにしても、この、太陽のど真ん中に入れる凄まじい能力と同等のレベルの予知能力を、ラームチャンドラ老師は持っていたと言うのだろうか。それは途方もない話だ。予知できない未来などなかったのではなかろうか。
「若者よ。ありていに言えば、総合的にはラームチャンドラの法力のほうがわしより余程上じゃったはずじゃよ」
僕の心を読んでいたのだろうか。メフィストにもできることだ。この聖者には簡単なのだろう。
こうあっさりと認めて、別に悔しそうな素振りもしない。やはり、嫉妬心などとは無縁なのだろうか。表情を窺ってみる。
だが、これほどの聖者が、僕ごときにあっさり表情を読まれるはずもない。
「どれ、それでは、戻ろうか」
次の瞬間、僕たちは、またあの荒れ果てた墓場に戻っていた。正直、安堵した。安堵のあまり、かえって体中からどっと汗が噴き出した。膝ががくがく笑い、肩も震えている。背中には、絶えず悪寒が走る。一種のショック症状のようになった。さっきまで、それほどの恐怖をごまかしていたのだ。それでも、座り込まなかった自分を誉めてやりたい。
この間、メフィストは終始無言だった。
マールカンデーヤ少年と叡愼さんが待っていた。
マールカンデーヤ少年は、物陰に引っ込むと、汚い鉢を持ってきた。ヨーグルトが入っていた。
バイラヴァ老師は、マールカンデーヤ少年から、ヨーグルトの入った汚い鉢を受け取ると、それを飲んだ。そして、すました顔をしてまた苦行に戻った。
僕とメフィストは、叡愼さんと共に黙然としてそこを辞した。
メフィストは憮然とした顔をしていた。
僕のほうはと言えば、不機嫌になるもなにもなかった。あれほど超絶的な法力を見せられては、科学者としての信念などずたぼろだ。こんな風に、骨の髄まで染み入る恐怖感というものは、生まれて初めて味わった。バイラヴァ老師に翻弄されて、本来の目的も忘れかけ、結局、成果は何もなかったような気がするのだから。少し憂鬱だった。