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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第七話


 頭上も、足下も、一面が、世界中の宝石箱をぶちまけた、と言いたいほどの煌めきだった。凄い眺めだ。しかし、むしろ無機質で荒涼とした気配が、ひしひしと伝わってくる。メフィストがやったのと同じようなイリュージョンだろうか? しかし、僕は、彼らの神通力が本物だと信じかけてきていた。だけど、土星はどこだろう。周囲を見回しても、目印となるような惑星は見あたらなかった。

 目の前を、真っ黒な巨大な氷の塊がゆっくりと通り過ぎていった。

 小惑星だった。

 すると、ここは小惑星帯なのだろうか。しかし、微妙な違和感を覚え、僕は良く周りを見渡した。

 ある事実に気がつき、僕は愕然とした。ゾクゾクと寒気が走り、背中を汗が伝わった。握りしめた両手の掌にも、じんわりと汗が浮いてくる。僕が感じているのは、それはほとんど恐怖、と言っていい感情だった。

 声も出なかった。

 僕は、これでも天文学者の端くれだ。火星と木星の軌道の間にある、小惑星帯にいるのなら、太陽が目視できるはずだ。

 もちろん、地球から臨むような大きな太陽は見ることができない。しかし、辺りに広がる星の海の中で、一際強く輝く、黄色いG型恒星としてはっきり同定できるはずだ。

 それなのに、見たところ、周囲にそのように強く輝く星は見つけることができなかった。一面、同じように冷たく光る光点で埋め尽くされている。

 僕は、ゆっくりと、もう一度前後左右、頭上、足下、全ての方向を見渡した。どこにも、太陽らしい輝きは見出すことができない。それどころか、見慣れた星の配置も見つけることもできないのだ。いや、むしろこう言うべきだろう。見慣れた星座の形が、奇妙に歪んでいると。

 そこから導き出される結論は、一つだ。

 背筋が、ますます寒くなった。思わず唸り声を出し、唇を舐める。

「うむ、そのとおり。ここは冥王星の軌道より遙か外にある、彗星の巣じゃよ」

 バイラヴァ老師が、顎髭を撫でながら、こともなげに言った。

「彗星の巣というと、エッジワース・カイパーベルトですか?」

 惑星から降格されたことでかえって有名になった冥王星の軌道より、さらに外側に、主に氷の塊である小惑星が、平べったいリング状に分布しているとされている。そこから、短周期型の彗星が太陽に向かって落ちてくる。その一部が地球に落ちて、隕石になる。

 冥王星の軌道からは、母なる太陽も他の恒星から区別できる特徴をもたないように見えるはずだ。一応、一際明るく輝く星としては見えるはずだけど。

 確かに、メフィストに土星に連れて行かれたときも驚きはした。だが、土星軌道までの距離と、冥王星軌道までの距離では、とてつもない違いがある。

 この、目の前で笑っている爺さんは、一瞬の間に冥王星の軌道までテレポートし、僕たちも移動させたというのか?

 しかし、しかしだ……。

 僕は、さらにそれ以上のことに思い当たってしまった。

 背筋が、もっと寒くなった。恐怖と言うより、畏怖と言ったほうがいい感情が、僕の胸を支配した。

 エッジワース・カイパーベルト程度の軌道なら、太陽は視忍できなくても、星座ぐらいは、いくら歪んでも、ある程度地球から見たのと似た形をしているはずだ。それなのに、前後左右上下、どこを見回しても、見慣れたはずの星座がみんな異常に歪んでいる。ほとんど、星座の形をとどめていないくらいだ。

「まさか……」

 傍らのメフィストを見ると、彼も声を失って茫然としているようだ。

「まさか、ここはオールトの……」

「うむ、そうじゃ、お主たち天文学者は、ここをオールトの雲とか呼んでおるようじゃのう」

 バイラヴァ老師は、こともなげに言った。またもや、髭をしごいている。

 僕は、完全に途方にくれてしまった。一々驚くのも阿呆らしい。

 オールトの雲と言うのは、太陽と地球の距離の一万倍から十万倍の地点にある、球殻状の彗星の巣だ。冥王星の遠さなんていうものではない。冥王星の軌道の平均距離は、太陽と地球の平均距離の約四十倍なのだ。一応、このオールトの雲辺りが太陽系の最遠の地といっていいだろう。

 このオールトの雲から、長周期型の彗星が太陽目掛けて落ちてくることになる。

 一口に十万倍と言っても、それは途方もないことだ。

 地球と太陽の距離が、大体一億五千万キロメートル。この距離を、光の速度、秒速三十万キロメートルで踏破して、約八分二十秒かかる。

 土星軌道と太陽の距離は、その約十倍、十五億キロメートルぐらいというところだろうか。光の速度で、八十分以上かかる計算になる。

 僕たちの住んでいる物理宇宙に、光より速度の速いものはあり得ない。だから、僕がメフィストに、土星まで連れて行かれたとき(あれが、もし催眠術でなかったら)、何らかの形で八十分ほど意識が飛ばされたと思った。(ま、その程度なら、悪魔なら可能なんじゃないだろうか)。

 しかし、地球と太陽の距離の十万倍というと、話は全然違ってくる。約、百五十兆キロメートル。光の速度で、八十万分、一万三千時間以上。五百六十日ぐらいだろうか。一年半以上かかるということになる。

 この距離を一瞬にして移動したのなら、物理法則をまったく無視していることになる。さらに、もし催眠術だとしたら、それほど長い期間、僕の意識をなくしていることは不可能だろう。第一、戻るのにも、同じ時間がかかるのだ。三年間の空白は、決定的だ。どう誤魔化しようもない。

 しかも、今体験していることには、明白なリアリティがある。イリュージョンの類ではないと断言できる。

 では、やはりバイラヴァ老師は、オールトの雲まで、一瞬にして移動してきたのだ。

 しかし……、しかし、それは、人間業ではないのではないか……。いや、物理法則を無視しないかぎり、神にも不可能だ。

 冷や汗が、脇の下を伝わった。うなじの辺りが、ぞくぞくする。

 僕は、物に動じない人間だと言われている。事実、僕が冷静さを保てなかったのは、今までの人生で一度きり、二年前、妻の朱鷺子がまだ二歳にならない摩耶を置いて、白血病で死んでしまったときだけだ。あの時は、僕も度を失い、三日間泣き暮らした。

 だが、それ以外では、僕は常に物事を客観的に観察する科学者であり続けた。……つもりだった。

 しかし……、しかし、これは、さすがに僕の理解の範囲を超えている。

「で、まあ、こんなこともできるわけじゃ」

 バイラヴァ老師が一人ごちた。少し離れたところにあった、巨大な氷の塊の前に移動していた。視界が、全てその氷の塊に塞がれてしまった。

 山などというものではない。その神話的な質量が、圧倒的な威圧感で迫ってくる。さらにぐっと近寄ったので、手で触ってみた。冷たい。ほとんど絶対零度まで冷え切っているのだ。当たり前だ。手の皮が剥がれて出血した。メフィストが、ふっと息を吹きかけると、簡単に治った。

「ざっと見て、長径が二百キロ、横幅でも五十キロはありそうですね」

 メフィストが、冷静さを装って言った。しかし、やはり声は震えている。冗談ではない。エベレストだって、高さは九キロ無いのだ。

 恐竜が絶滅したのは、このサイズの小惑星が地球に落ちたからだ、という有名な仮説がある。これが隕石となって地上に落下したら、地球上の全ての核兵器が爆発したものとさえ比較にならないほどの破壊力が発揮されるだろう。

 小惑星の大きさが実感できたところで、また一瞬にして離れた。

 バイラヴァ老師が、何やら小さく頷いた。

 遥か向こうで、同じようなサイズの小惑星が動き出すのが見えた。

 目の前の、巨大な小惑星も、ゆっくりと動き出す。二つの小惑星は、その慣性の大きさを証しするかのように、最初はのろのろと動き、次第に加速していった。

 二つの小惑星は急速に接近していく。

 これは、半端なスペクタクル映画の比ではない。

 二つの小惑星の速度は、グングン上がっていく。今は、とんでもないスピードになっている。

 激突した。

 凄まじい爆音がしたような錯覚があった。もちろん、ここは真空の(もっとも希薄な星間ガスはあるわけだけど。でも少なくとも地上で人類が作れるどんな真空より、絶対の真空に近い)宇宙空間なので、音は聞こえない。

 長径二百キロを超える、二つの小惑星が砕け散った。もし、あんなものが一つ地球に衝突したら、地球上の生物は文字通り壊滅するだろうに。

 唖然として、立ち尽くし、いや、浮かび尽くしていた。

 メフィストが土星軌道にまで連れて行ったときは、まだそれが催眠術では、と疑うゆとりもあった。しかし、今回は駄目だ。

 これは、催眠術や、イリュージョンでは絶対にあり得ない。目の前に浮かんでいた小惑星には、本物の実在感があった。実際、僕は手で触れてみたのだ。

 今の衝突にも、生々しいまでの現実感がある。これが幻想なら、僕は自分の認識全てを疑わなければならなくなる。

 思わず、小さく口笛を吹いていた。そうでもしないと、正気を保っている自信がなかった。

「ついでに、こんなこともできるぞ」

 バイラヴァ老師が言った。

 ギクリとした。そのときには、既に僕たちはまた転移していた。


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