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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第五話

第二章 さて、最初のアリバイ検証が墓場で行われる



 少々忙しく立ち働いて、朝八時になった。引ける時間だ。

 自分のコンパートメントに帰り、コーヒーの豆を碾く。やっぱり、朝はモーニングコーヒーだろう。軽く口笛を吹いたりする。メフィストがいたときは、何となく慌ただしくて豆を碾く気になれなかったが、僕は本来珈琲党なのだ。

 例の真っ赤なポットに湧いたお湯を、ドリッパーにセットした豆に注ぐ。ふくふくと泡立ち、虹の七色に煌めく。至福の瞬間だ。香ばしい香りが立ちのぼる。

 コーヒーを飲もうとしたときに、不意に部屋の片隅にメフィストが出現した。僕がコーヒーを勧めると、メフィストも飲むと答えたので、また赤いホーローのカップにコーヒーを注いだ。

「では、今日はシヴァ派のヨガ行者、バイラヴァ老師を訪ねましょう。シヴァ派と、ラームチャンドラ老師が属していたヴィシュヌ派は、一応対立関係にありますから」

 熱いコーヒーを、ふーふー吹きながら、メフィストはボソボソと言った。

 ヒンドゥー教には、一応ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三柱の主神がいる。現代社会や倫理の教科書などには、そう載っている。いわゆる、ブラフマーが創造し、ヴィシュヌが維持し、シヴァが破壊する、というあれだ。この三神の役割分担を、トリムルティという。

 しかし、このうちブラフマーは名ばかりの主神なのだ。この神の起源は、そもそもウパニシャッドの宇宙原理、ブラフマンにまで遡る。

 個人の精神原理であるアートマンと、その宇宙原理ブラフマンが一体化することが、ウパニシャッド哲学の究極の理想なのだ。

 このブラフマンは、宇宙原理なのだから人格はない。それで、中性名詞である。それが男性名詞になり、人格神になったものがブラフマーというわけなのだが。

「ご存知のように、ブラフマーは、知識人には崇敬され、主神に祭り上げられているものの、実際には、民衆の間ではあまり信仰されていません」

 皮肉そうに、ふっと唇の端を上げる。端正な顔が皮肉な表情を作ると、さすがに酷薄に見えるが、非常に蠱惑的でもある。

「結局、今のインドで大衆の信仰を集めているのは、ヴィシュヌとシヴァです。ですから、ヴィシュヌの信者にとっては、ヴィシュヌがブラフマーを凌ぐ創造神であり、シヴァの信者にとっては、シヴァが絶対の創造神になります」

「日本では、シヴァは破壊をこととする魔神とされることもありますけどね」

 僕も、ちょっと皮肉そうに唇を歪めてみる。メフィストほど格好良く決まったか自信がないが。

「二昔前の日本の大衆小説では、シヴァが、それこそ悪魔のように邪悪な破壊神として描かれていたものが随分ありましたよ」

「シヴァが、悪魔ですか」

 メフィストは、ちょっと肩をすくめて苦笑した。

「いやいや、それは私たち悪魔も買い被られたものですね。まあ、情けない話ですが、向こうは超絶的な創造神ですから。絶対の破壊と恩寵の神です。私たち悪魔ごときとは、格が違いますよ」

 よっぽど可笑しいのだろう。クックック、と肩を震わせている。

「さてと、それではバイラヴァ老師のところに出かけましょうか」

 こう言われて、少し慌てた。

「いや、ちょっと待ってください。一応、一度家に帰らないと。やっぱり、娘のことが心配ですし。正直、少し寝たい気もするし」

「あ、そうですね。これは気がつきませんでした。私たち悪魔は、少々寝なくとも平気なものですから。お父さん、徹夜でしたね」

 メフィストが、ちょっと下を向いて、恥ずかしそうにした。むしろ、申し訳ない気がして、僕も下を向いた。

 メフィストを伴って、コンパートメントを出ると、同僚達が「チャオ」と手を振った。何人かが訝しげにメフィストを見たが、誰も追及しない。

 女子の職員は、メフィストを見詰めて、一様に顔を赤らめた。

 ちょっといい気分だった。

 僕のオンボロのフォルクスワーゲンで山を降りる。麓の小さな町にある自宅に着く。日本なら、贅沢なほどの、庭付きの二階建て。6LDKだ。

 玄関を開けると「お父しゃん、お帰りなしゃーい」と言いながら、摩耶がトコトコと駆けて来た。親馬鹿だとは思うが、だらしなく顔が崩れるのが分かる。

 暗紫色をしたベルベットのワンピースを着た摩耶を抱き上げる。摩耶は、零れ落ちそうに大きい目を、一杯に見開いている。

「みぃ~」

 足下で、鳴き声がする。黒猫のスピノザが、優雅にしなやかな身体をくねらせて擦り寄ってくる。

 摩耶を抱いたまましゃがみ込んで頭を撫でてやる。だらしなく仰向けに寝転がり、腹を出して、腹も撫でろと催促する。全く、雄々しい野生の肉食獣の誇りは、どこに置き忘れてきたのか。ジャングルに棲息する親戚に恥ずかしくないのか、と憤慨しながらも、つい撫でてやる。

 ゴロゴロ喉を鳴らしながら、前足で僕の手を抱え込み、舌を出して舐め始める。ザラザラとした感触が心地いい。

 ペルーに引っ越してきたばかりの頃、寂しがっていた朱鷺子が拾ってきた子猫だった。もう四歳になる。気品さえ感じさせる黒猫のくせに、鼻の頭だけが白い。

 スピノザ、というのは、その頃なぜか「エチカ」を読んでいた朱鷺子が名付けた。なかなかいい名前だと思う。

「ヘイ、リョウ、お帰りなさい」

 陽気な声が響く。ベビーシッターを頼んでいる、エミリーが、いつものように満面の笑顔で出迎えてくれた。

 メフィストを見て「オウ!」と目を剥いて驚いた顔をした。僕が、朝お客を連れて来るなど、初めてなのだ。

「お客さんね。朝食は? 一緒にいかが?」

 首を傾げて、明るい声で聞く。

「ええ……」

 メフィストが口篭もる。

「では、図々しいですが……」

 一緒に食べると解して、エミリーはさっと身を翻した。スリムだが、なかなかグラマラスな姿態をピッチリしたジーンズに包んでいる。ヒップが、エイトビートで躍動する。ちょっと目の毒な光景だ。

「お父しゃん、このリボン、可愛いでしょう」

 言われて見ると、摩耶の髪が、二本のお下げに編んである。その先に、綺麗な紫のリボンが結んであった。

「いいね。髪は、エミリーに編んでもらったの?」

「うん」

 得意そうに頷く。

 スピノザを撫でる手を止めて、メフィストをリビングに招き入れる。

「摩耶、お客さんに、ご挨拶は」

 メフィストが、ソファに座ったのを見て言うと、摩耶が「こんにちは」と殊勝に頭を下げた。

「こんにちは」

 ほう、悪魔ともあろう者が、いやに優しげな顔をして子供を見ている。これで、いいのだろうか。

「あのねえ、マヤのおうちに、おだいじさまと、おひめさまが来たの」

 唐突に、摩耶がメフィストに話し掛ける。メフィストが、キョトンとした顔をした。

「ああ、お内裏様とお雛様。この間、日本の祖母から送られてきたんですよ。飾ったのは何ヶ月も前だけど、印象が強かったらしい」

「なるほど、雛人形のことですか」

 メフィストが、納得し、ククッ、と肩を震わせた。

「おだいじさまとおひめさま、とっても綺麗なのよ」

 肩の下まで伸ばした黒い髪。今日は編んでいるけど、普段は本当に真っ直ぐなストレートなのだ。クリッとした目。ちょっと生意気に尖らせた、ポチッとした赤い唇。

 親馬鹿と言われるかもしれないが、目に入れても痛くない。

 自分が、随分とでれでれした顔で摩耶を見つめている自覚がある。少し恥ずかしい。

 しかし、メフィストも、どうやら意外に子供が好きらしい。クールそうな印象を裏切って、懸命に愛想笑いをしている。

 子供のご機嫌をとる悪魔と言うのも、妙なものだ。

「お雛様なんて、とっくに片付けたんですけどね。いつまでもそのことを言っている」

「なるほど、女の子はそうかも知れませんね。確か、いつまでも片付けないと、お嫁さんに行けないとか」

「ええ、そうですね。飾るのは早くてもいいけど、三月三日が過ぎたらすぐに仕舞わないといけない」

 言いながら、膝の上に登ってきた摩耶の髪を撫でている。スピノザが、自分も撫でろと催促するが、無視する。

 娘のほうが可愛いのだ。当たり前だ。

 エミリーが、湯気を立てているベーコンエッグと、ミルクティーを持ってきた。オレンジ色のTシャツを押し出している豊かなバストが、揺れている。ちょっと眩しい。

 エミリーは、なかなかいい声でハミングしている。この年頃には珍しく、シューベルトだ。

 混血なので、少し浅黒い肌にソバカスがある。ピンクの口紅が、艶かしい。明るくて、チャーミングな娘だ。

 ところが、実は孤児(みなしご)なのだ。二年前、朱鷺子が死んだとき、天文台の台長のフェルミ博士から紹介された。ちなみに、フェルミ博士は、著名な物理学者と同名だが、関係はないらしい。

 で、フェルミ博士は丸い人だ。体型も丸いが、性格も円い。その丸い大きなお腹で、大抵の厄介ごとは丸呑みしてくれる。いつも大きなズボンを、サスペンダーで吊って、禿げ上がった額の汗を拭いている。

 エミリーには、基本的には昼、摩耶の相手を頼んでいる。だが、今日のように僕が夜勤のときは、泊りがけで来てもらっている。

 エミリーが、チラチラとメフィストを見るので、からかってみたくなった。

「どうだい、エミリー、ハンサムだろう。好みなんじゃないのかい」

「あら、リョウも、ハンサムよ。優しいし。あたしは、リョウが好みだわ」

 逆襲されて、頬が赤くなる。

 メフィストが、可笑しそうに、クックと肩を震わせる。

 そんなメフィストを、摩耶がつぶらな瞳で見つめている。

 メフィストが、いきなりテーブルの下から人形を取り出した。そんな人形、なかったはずなのに。

「ぼく、マリオ。摩耶ちゃん、こんにちは」

 メフィストが、腹話術で、甲高い声を出した。

 摩耶は、目を大きく見開いて人形を見ている。

 おやおや、メフィストが、我孫子武丸の愛読者とは知らなかった。

 すぐに、メフィストはマリオをテーブルの上で踊らせ始めた。裏声で、サンバのリズムの歌を歌っている。操る糸もないようだが、魔力でマリオネットを躍らせるくらい、造作もないのだろう。

 摩耶は、小さな手で一生懸命拍手している。

「摩耶ちゃん、僕の踊り、気に入ってくれたかな?」

 相も変わらず、腹話術で話しをする。しかし、こっちは魔力ではないらしい。意外に不器用だ。

 エミリーも、トーストを運んできながら、目を細めて笑い転げている。

 摩耶とエミリーに受けて気を良くしたのか、メフィストがまた歌に踊りに熱演した。もちろん、マリオも大奮闘である。

 メフィストの額に、一筋汗が滴った。

 摩耶が、手を叩きながら、不意に言った。

「ねえ、お兄ちゃん、おっきいけど本当に大人?」

 メフィストが、ずっこけた。

 苦笑しながら、鼻の頭を掻く。

「ええ、まあ……、一応大人ですよ。これでも、千二百歳ですから」

 エミリーが、トレイを胸に抱え込んで開けっぴろげに笑った。冗談だと思ったらしい。

 ま、それが普通か。

 朝食を摂り終わった。

「すみませんが、待っていていただけますか。これから、摩耶をお風呂に入れて、少し仮眠したいんですが」

「あ、分かりました。大丈夫、悪魔は、気が長いですから」

 真顔になって、メフィストが言う。

「よし、摩耶、おっふろーだ、ポン!」

「うん、おっふろーだ、ポン!」

 叫ぶなり、摩耶は、いきなりワンピースを脱ぎ始めた。クスクス笑いながら、エミリーがその手伝いをしてくれる。

 風呂は、僕が帰ってきたときに、エミリーが用意してくれている。

 脱衣所で、僕も服を脱ぎ捨てる。摩耶と二人でバスルームに飛び込む。お気に入りの、ミッフィーの人形も一緒だ。

「おやおや、摩耶は、おふろんろ。

 楽しい楽しいおふろんろ」

 僕が、特製のでたらめな歌を歌う。摩耶が生まれたときから、入浴は僕の受け持ちだった。そのときに、口から出任せの歌を歌ったら、摩耶が笑ってくれたのだ。

 摩耶に石鹸を塗りたくる。可愛い、小さなお尻がプリプリ動く。

 不意に、朱鷺子を思い出して、切なくなる。

 優雅なくせに、茶目っ気のある少し黒の薄い瞳。長い髪。あどけないのに、時にきつく結ばれる唇。

 おやおや、こんな気分は久し振りだ。やはり、悪魔なんぞに会って、少し動揺しているらしい。

 朱鷺子は、二年前、まだ一歳の摩耶を残して、白血病で亡くなった。美人が白血病なんて、ベタな展開だが、しょうがない。事実なんだから。僕の身近で、美人が白血病でなくなるのは、朱鷺子で三人目だ。一人目は中学の時。僕が一年生の時の生徒会の副会長だった人だ。学校中のマドンナだった。その人が、三学期には学校に出てこなかった。呆気なく亡くなったそうだ。

 二人目は、僕の高校の後輩で、双子だった。白い顔に、ぽっちりとした赤い唇が印象的な双子。僕の大学にその二人が入学してきて、男共の目の色が変わった。ところが、その秋に、その片方が亡くなった。もう一人も、精神を病んで退学していった。

 そうして、朱鷺子だ。なんて残酷な運命だろう。

 こんなことを考えながら、少し感傷的になっているなあ、と自分に呆れる。

 風呂から上がり、二人ともパジャマに着替える。リビングを覗いてみると、エミリーがメフィストと話し込んでいた。ほとんどエミリーが喋って、メフィストは曖昧に頷いている。

 見ると、ハウスキーパーのナーニ小母さんが来ていた。インディオの血の濃い、皺くちゃの福々しい顔。掃除も、お料理も大好きという気のいい小母さんだ。

 二人に、メフィストを任せて、摩耶と二階に上がる。さすがに、徹夜明けなので眠い。

 ベッドに倒れ込み、摩耶を側に寝せる。摩耶は、自分の身長ほどもあるミッフィーの縫いぐるみを抱いてベッドに潜り込んでくる。

 親子仲良く、はしたなくもお昼寝である。なんだか、気持ちが良かった。


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