第四話
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一瞬にして、空間を移動していた。僕たちは、インドの雑踏の中に出現していた。むんとする湿気が、僕を襲った。向こうのほうに、なんとなく既視感のある尖塔が聳えていた。インドなど、来たことがないはずなのに。
少し考えて、思い当たった。散々絵葉書で見た、タージ・マハルの尖塔だった。ちょっと見下ろすような、高台にいる。
「インドの古都、アグラーです。タージ・マハルの後ろで光っているのは、ヤムナー河です」
僕は小さく頷いた。しかし、実のところ、その圧倒的な現実感に驚いていた。これが現実なら、さっき土星まで旅行したことも現実になってしまう。背中に、汗が流れた。
傍らを、のっそりと牛が通っていく。いやに悠然としている。その後ろから、綺麗なサリーを纏った、三人の女性が来た。みんな、なかなかの美人だ。つい、振り返って見送ってしまう。
若い一人は、そのサリーの一端を、足の間を通して後ろで縛っている。それで、ヒップのラインが強調されて艶かしい。その女性が、牛を追い抜きざま、牛のお尻にひょいと触った。その手を額にやった。多分縁起がいいのだろう。
あたりには、猥雑なまでのエネルギーが溢れ、喧騒が満ちている。
メフィストが(そろそろ呼び捨てにしてもいいくらいには、親しみを感じ始めていた)、目抜き通りから、ついと路地に入った。急に騒音が消え、あたりは静寂に包まれた。微かに、甘い花の匂いが漂ってきた。
「そこが、ラームチャンドラ・バクティ老師の住まい。ドッキネーショル寺院です」
清潔な印象の、白い外壁を持った建物だった。寺院というよりは庵といった佇まいだ。
今アンデスは初夏だが、時間も移動しているのだろうか。ここは真夏に思える。いや、アリバイを調べるというのだから、時間軸は移動しないと考えたほうがいいのだろうか。質問してみた。
メフィストは、あっさりと答えた。
「それぞれの聖者の結界内の時間は、聖者たちが自分の好みでコントロールしています。ですから、季節も何も、ほとんどでたらめですよ。ですから、時差も何も関係ありません。それで、犯行時間なんかは、全部お父さんのアンデス時間で表しています」
なるほど、と僕は頷いた。
メフィストと共に、門を潜ってドッキネーショル寺院に足を踏み入れる。潔癖性、と言いたいぐらいに綺麗に掃除された庭があった。
庭を通って、質素な建物に入り、廊下を渡った。メフィストは、勝手知ったように、一つの部屋にづかづかと入っていった。
「ここが、ラームチャンドラ・バクティ老師の居室だったところです。老師が亡くなっていなければ、私も老師の許しなくしては入れなかったところです」
それは、簡素な飾り気のない部屋だった。小さな白木のベッドがあった。
周囲の壁には菩提樹の下に座して偉大な悟りを開く仏陀の像や、ゴーピー(牧女)達と戯れるクリシュナ神とその神妃であるラーダ、それに象頭人身の福の神ガーネーシャ神などの画像が掛けられていた。ヴィシュヌ派のはずの聖者が、シヴァの息子であるガーネーシャを祀っているのも、実にインドらしいと言えば言えた。
その部屋の西側には半円形のベランダがあり、そこからは、すぐ目の前に大河の流れが見えた。そのベランダには、円柱で支えられた、やはり半円形の屋根が付いていた。
このベランダと、廊下に面した入り口が、ただ二つの出入りできる開口部のようだった。どちらも、開かれていて鍵などはかかっていない。
廊下の外は、辺り一面の花園だった。くちなし、ジャスミン、夾竹桃、バラ、クリシュナチューレなど、さまざまな花が色とりどりに咲き乱れている。花のかぐわしい匂いが空中に漂っていた。
その部屋の真中に、ラームチャンドラ・バクティ老師の遺骸が横たわっていた。亡くなっていても、静謐な威厳を感じさせる。見るだけで、少し厳粛な気持ちにさせられる。
痩せている。穏やかな顔の目が閉じられている。生きているときは、多分その両目には子供のように無邪気な光が溢れていたのだろう。
「血色がいいですね。死んでいるとは思えないくらいだ」
「ええ、死んでから、一日経っているんですがね。腐敗も、全くしていませんね」
腐臭どころか、むしろ微かな芳香が漂ってくる。ゾシマ長老が亡くなったときにこんな風だったら、アリョーシャ・カラマーゾフも信仰が揺らぐことなどなかったのだろうけど。
「やはり、こういう解脱一歩手前の段階にある聖者、ともなりますと、死体も特別なんですよ」
メフィストが、僕の気持ちを読み取ったように言う。
遺骸は、仰向けに寝かせられている。両手を、胸のところで組んでいて、そこに紫色の菫の花が置かれていた。下半身には、白い下帯を着けていて、あとは全くの裸だ。なんだか、晩年のガンジーのようだ。
床に付いた後頭部の下に、血が溜まっていた。その赤黒い色が、妙に生々しい。花の香りに混じって、微かな血の匂いがした。意外なほど、量は少なかった。
遺骸の傍らに、質素な木製のテーブルがあった。その上に、青銅製の花瓶が載っている。カーリーだろうか、四本の腕を持った女神が鋳造されている。ヴィシュヌ派の聖者が、シヴァの妻であるカーリーの像で殺されるとは、何だか暗示的だ。
「これが、凶器というわけですか」
僕は、その花瓶を手に取った。乾いた血が付着している。けっこう持ち重りがする。なるほど、これなら充分殺害の手段に使えそうだ。
「指紋なんかは、どうなっているんですか」
「ええ、別にアルミニュウムの粉なんかは使いませんでしたがね」
メフィストは、少し恥ずかしそうに俯いている。
「一応、悪魔ですから。指紋ぐらいは、道具を使わなくても。しかし、ラームチャンドラ老師と、弟子の叡愼君以外の指紋は……」
どうやら、手がかりになる指紋はなかったらしい。ま、それはそうだろう。今時、指紋を残すなんて間抜けな犯人はそうそういない。
気が付くと、入り口に、いつの間にか青々と頭を剃り上げた青年僧が立っていた。日本の僧侶のように、墨染めの衣を着ている。
青年僧は、静かに合掌して丁寧に礼をした。
「お世話になります。師父、ラームチャンドラ・バクティの御弟子、叡愼と申します」
涼しい声で言った。
中国人だという話だったが、話す言葉がすっかり分かる。はて、僕には、中国語の素養は全くないのだが。かと言って、良くいうように頭の中でテレパシーのような声が直接響くと言う訳でもないし……。
だが、まあメフィストの魔力からすれば、このくらいはなんでもないのだろう。あまり深く考えないことにする。
澄み切った黒い瞳が、凛冽な印象を与える。
「どうも、メフィストです。で、こちらが」
メフィストに、皆まで言わせず、僕も挨拶する。
「初めまして、徳大寺涼といいます。お見受けしたところ、中国の方ですか」
「はい、中国で臨済禅を学んでおりました。しかし、なかなか大悟徹底できず、師父、ラームチャンドラのところでお世話になっておりました」
「しかし、共産中国で、仏教の修行はできるのですか」
「はい、私たちの修行は、俗世間からは隠されたところで行われておりますから。中国共産党といえども、介入はできません」
「なるほど。で、以前は、別の師にお付きだったのですか」
「五台山の、覚然老師にお仕えしておりました」
「案外」
僕は、メフィストを振り返って言った。
「犯人は、その覚然老師だったのではないですか。弟子を巡って、ラームチャンドラ師と確執があったのでは」
「最澄と空海のようにですか」
メフィストが、クックック、と肩を震わせて笑った。
最澄の弟子だった泰範が、空海の下に走った事件は、割と有名なのだ。泰範は、お稚児さんだったという、品のない噂もある。
「お稚児さんを巡る争いというわけですね。もっとも、最澄と空海が争った弟子、泰範は、もう稚児と呼ぶには相当とうが立っていましたがね」
しかし、案外笑ったものでもないと思うのだけど。女色を遠ざけるこの世界では、男色は当たり前のことだ。
「しかし、それはないでしょう」
メフィストは、相も変わらず苦笑しながら言った。叡愼はと見ると、自分のことを誹謗されたも同然にも関わらず、平然としている。やはり、関係ないのだろうか。
「覚然という坊さんは、確かに相当修行を積んでいますが、ラームチャンドラ老師と比べられるほどではありません。彼の法力では、ラームチャンドラ老師を殺害することなど、とてもとても覚束ないでしょう」
ふむ、そう確言されると、僕には言う言葉がない。
「では、取り敢えず、叡愼さんがラームチャンドラ老師の遺骸を発見なさったところから話していただきましょうか」
メフィストの言葉に、叡愼は微かに頷いた。
「二日前の午前、まだ陽が昇る前のことでした。師父の、断食明けのヨーグルトをお持ちしました。そうしましたら、師父が倒れておられたのです。既に事切れておられました」
湿っぽい感傷に浸るでもなく、淡々と言葉を紡ぐ。しかし、静かな悲しみが、ひたひたと僕の胸に押し寄せる。
「そのとき、扉に鍵はかかっていたのですか」
「いいえ、扉もベランダも開いておりました。ご存知のとおり、この部屋は師父の結界で護られております故、鍵などはかけたことがございません」
メフィストはうなずきながら、部屋の外に出た。
「結界は、どこまで護っているのでしょうか」
「この廊下の外、花壇の辺りまででしょうか」
「すると、この辺り」
メフィストは庭に降り立ち、廊下のすぐ下にある花壇の外まで跳んだ。菫色の澄んだ瞳を光らせて、辺りを見回す。
「この花壇を縁取る煉瓦の辺までテレポートしてきて、そこから歩いて部屋に侵入したということかな」
しかし、足跡などは残っていないようだ。まあ、聖者ともなると、足跡など残さないのだろう。僕は、深く考えないことにした。
僕は、ベランダの側に歩み寄り、外を見た。
「そちらのベランダのほうは、ヤムナー河のほとりまで結界が及んでいます」
なるほど、では、こちらからの侵入は不可能だろう。
「使い魔とか、式神は侵入できないのですね」
僕は、もう一度確認してみる。
「はい、師父の結界に、そのような下賎のものを入り込ませることができるほどの法力をお持ちの方は、この世界にはいらっしゃらないかと。僭越ながら、私ごときが張った結界でも、容易にはそういう下賎のものの侵入は許しません」
ううむ。すると、やはり物理的に侵入して、体力の弱ったラームチャンドラ師を撲殺したということか。超絶の不可能犯罪にしては、どうも手段が情けない。
それにしても、どうしてそのことを予知できなかったのだろう。
「どうやら、容疑者を一人一人当たって、アリバイを確認していくしかないようですね」
メフィストが、顎に手を当てながらポツンと呟いた。
僕も、仕方なく頷いた。
「ああ、では、ラームチャンドラ老師の遺骸は、荼毘に付していただいて構いませんから」
メフィストに言われて、叡愼が、両手を胸の前で組んで、静かに頭を下げた。
目を瞬くと、すでに天文台に戻っていた。メフィストの姿はない。
夜勤のスタッフが、忙しそうに立ち働いている。いつもの賑やかさに溢れている。
誰も、僕の不在には気付いていなかったようだ。もしかすると、僕がいない間、時間そのものが止まっていたのかも知れない。
ホッと溜め息をついて、自分の個室に戻った。そして、セーターやらマフラーやらで重武装し、いつもの作業に戻った。たちまち、時間を忘れて熱中してしまった。